第四話 新年の夜に


「むぐぐ」


 上から覆いかぶさられていると、いつものように簡単に引きはがす事は出来ず、抑え込まれてジタバタする拓磨たくまがギブアップとばかりに畳を何度か叩いた所で、助け船が来た。


「それぐらいにしておけ」


 白戸しろとがヒョイっと少女の襟首を猫のようにつまみ上げてくれたので、やっと拓磨たくまは濃厚なキスから解放された。引きはがされていくヤタの唇はさながらタコだったので、これをキスと言っていいものか微妙だが。


 力づくで終了させられたヤタは、さっきまで吸うために凹ませていた頬を膨らませ、会話が成立するようになったというのに無言で抗議の意思をアピールしていたが、白戸しろとはまったく意に介さず炬燵に入り直し、続けざまにヤタに向かってミカンを投げた。少女のてのひらに、ポスンとオレンジ色のつやつや果実が収まる。

 現金な食いしん坊は、一瞬で機嫌を直すといそいそと炬燵の空いている面から座りこんだ。彼女がミカンをせっせとき始めるのを見ながら、少年はやっと体を起こした。ずれた眼鏡をかけ直す。彼女の手元でミカンの皮は2センチぐらいの欠片でボロボロと分解されるようにはがされている。


「ヤタって、人間の状態をどれくらいキープできるの?」

「鴉に戻らなければずっといられるよ」

「えっ、そうなの!?」

「でも人間の姿だと飛べないから色々不便~。でも最近飛び続けて疲れたから、暫くこのままでいようかな」

白戸しろとさんの迷惑にならないようにしてね……、もう本当それだけが心配なんだけど」


 男に目を向ければ、片側の眉を器用に上げて笑いながら肩をすくめている。


 不意に玄関のインターフォンが鳴った。新年の夜に来客? と拓磨たくまいぶかしく思ってしまったが、白戸しろとは何の抵抗もなく炬燵から抜け出すと部屋から出て行った。

 二個目のミカンに手を出すヤタをたしなめていたら、早々に男は大きな二つの風呂敷包みを抱えて部屋に戻って来た。

 無言でそれらを炬燵の上に置いて行く。


「これは……?」

「正月料理だな。夕食はまだだったろう。どうせ一人で食べきれる分量ではないから、一緒に食べて行ってくれ」


 そう言いながら手際よく包みを解いて重箱を開けると、ホテルが出しているような見事なお節が出て来た。和洋折衷で豪華だが、刺身など日持ちがしないような物もチラホラある様子だから、確かにこれは一人では手に余りそう。


「今日は陰陽寮おんみょうりょうの新年の会があったのだが、流石に参加は辞退していてね。剣持けんもちが料理だけでもと手配してくれていたらしい」


 あれほど険悪な様子だったのに、随分と関係が変わったようだ。

 豪華な御馳走を見たせいか、急にお腹がすいてきて、クゥと可愛くお腹が鳴ってしまい思わず赤面をしてしまったが、隣でヤタが重箱に顔を突っ込もうとしているのを白戸しろとは両手で防ぐ等して取り込んでおり、聞かれずに済んだようだ。

 暫く人の姿でいるならばと、このお正月料理はヤタのテーブルマナー講習を兼ねる事にもなった。


* * *


「おかえりなさぁい、ア・ナ・タ♡」


 甘い囁きは、熱く優しい吐息と共に剣持けんもちの耳にかかる。首の後ろに手をまわし、ぶら下がるような女性は、男の妻である。押し付けられる胸の弾力につたないところに熱がこもりそうになって、慌てて引きはがす。それでも彼女は今度はぐいっと腕に手を絡め、ウキウキと廊下に剣持けんもちを誘うから、男は慌てて靴を脱ぐ羽目になって、黒い革靴が乱れて散らばった気配があったが、それを振り返るいとまも与えられず、ぐいぐいとリビングに連れ込まれると、ここならいいでしょとばかりに、熱い口づけが始まった。

 情熱的な妻にしばし応えていたけれど、流石にそろそろ落ち着いて欲しいと再び引きはがす。彼女はちょっと物足りなさそうに拗ねた上目遣いを見せて来たが、軽く頬にキスを返して髪を撫で、「今日も綺麗だよ」などと声をかければ、くねくねとしながら妻は満足そうに離れる。見れば体のラインが出るなかなかにセクシーなニットワンピで、今まで見た事がないので新しく買ったものであろう。それについても褒めてみれば、彼女はクルクルと回ってご満悦だ。染められた茶色の巻き毛も一緒に踊る。そんな彼女の背景は、スパンコールのナイトドレスのような煌めき。


 ここは都心の高級マンションの最上階。


 リビングの窓から見える夜景は、一見の価値があるだろう。しかし剣持けんもちとしてはこの光景が自分の実力で得たわけではなく、代々国政を担う政治家の家系、かつては財閥との縁も深く、さかのぼれば宮家の血筋も入っているという秘蔵の一人娘。彼女を妻としてめとる事が出来たが故の恩恵であるから、自慢をするのははばかられた。


「今日はうちの実家に一人で行っていたんだろう。気を使わせたね」

基文もとふみさんのおうちにお邪魔するのは好きよ。貴方の小さいころのお話とか、色々聞けるし」


 んふ♡と意味深な笑顔が怖い。剣持けんもちとしては何を聞かれたのか気が気ではない。人並みの幼少期であったから、おねしょの事や、オバケが怖くて親の布団に駆け込んだ話、デパートで迷子になって泣き喚いた事諸々、正直聞かれて嬉しい物ではないから、親もその辺りをきちんとわきまえてくれているといいのだが、おそらくあまり知られたくない過去も聞かされたのだろう。


 しかし彼女は表情を改めて、そっと男の左頬に走る傷に触れる。


「気になるか?」

「いいえ? 仕事を遂行するために負った名誉の傷と聞いてるわ。それにワイルドで素敵……」


 うっとりとした目線に嘘は無い。


「今日、お義母さまがそろそろ孫が見たいってお話をされて、貴方の小さいころのお話を聞いたら私もそろそろ欲しいなって。お仕事、落ち着いたんでしょ?」


 陰陽寮おんみょうりょうの立場は不安定で、公にできない所は相変わらずだが、今日明日に解散させられるような事は当分なさそうではあった。何らかの成果は今後も求められるだろうが。


「そうだな。部下達の手前、自分だけという憂いも無くなったし、白戸しろとのおかげでだいぶ評価も……」


 言いかけて辞めたのは、妻の顔が般若になったからだ。迫力に押され無意識に一歩、後ずさってしまった。


、ですって?」


 しまった、と思った。我が妻はかつて、白戸しろとの婚約者であったのだ。しかも彼女がベタ惚れで、随分背伸びをして付き合ってもらっていたという。しかしキスはおろかエスコート以外では手も繋いでもらえない。どんなに色っぽく迫っても指一本触れない様子は、彼女の女としての矜持プライドをとことん傷つけた。彼は婚前交渉を良しとしないタイプなだけかもしれないと一縷の望みで、もう結婚さえしてしまえばと、説き伏せて親への正式な結婚の挨拶を漕ぎつけたというのに、ずぶぬれの少年を保護するなどでその約束を反故。彼女は堪忍袋の緒が切れたとばかりに婚約破棄に至ったのだ。

 その後、自分がその白戸しろと自身の推薦によって彼女の新たな婚約者に。彼女も義兄弟の婚約者になれば白戸しろとに対する良い当てつけになると思ったのであろう、随分と軽く了承したらしい。

 政治パーティで見かけた彼女に一目惚れしていた剣持けんもちとしては、色々わだかまりはあったものの、このチャンスを逃す事が出来なかった。

 後は自分の心に正直に、誠心誠意彼女に向き合った所、自分を小ばかにするような目線はいつしか熱い物に変わり、かつて白戸しろとに向けられていた情熱は剣持けんもちの物となった。そのまま相思相愛で結婚、冷める事なく今に至る。

 

 自分は昨年末の出来事で白戸しろとと和解出来たが、彼女はそうではなく、今でも蛇蝎だかつのごとく彼を嫌う。うっかり名前を出してしまえばこの有様だ。


「この私の誘惑に応えないなんて、男としての体に不具合があるのだとしか思えないわ。いえ……もしかしたら」

「もしかしたら?」

「男色の趣味があるのかもしれない」

「は?」

「そうだわ、それなら私に手を出さなかったのも頷ける。私より男の子を助けてもおかしくないわ」


 倒れている子供がいたら、人道的にそちらを当然に優先するのでは? と剣持けんもちは思ったが、さきほどの般若顔が怖かったので無言を貫く。ただ、弟子に迎えたという高校生が、なかなか可愛らしい顔立ちだったのが気にかかる。同性が性愛の対象であるのは個人の自由だが、相手が未成年となると話は別。今や陰陽師は公務員なのだ。

 かつての白戸しろとはどうだっただろうかと思い出せば、学生時代は自分より先に奴に彼女が出来たら悔しいからと、あの手この手で邪魔をし続けたから、異性同性関わらず、親しくなった人間はいないはず。今思うと随分ひどい事を義理の弟にし続けて来たと反省する点もあるが、その事もあって彼の性的趣向はわからない。


「いや、やっぱり、アレがダメなのかしら……今日お義母さんに伺った話だと、太ももにひどく醜い傷があるとかなんとか」

「傷?」


 一緒に風呂に入るどころか、プールや海水浴に行った事もない。傷の事は初耳だった。



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