第五話 アンティークショップ
――誰かいる。
右も左も、上も下もわからない暗闇を、落ちているのか登っているのかも不明な無重力の中、時折きらめく蛍のようなか弱い光が縦横無尽に舞い散っていて、深海がもしかしたらこんな感じなのかもしれないと、漠然と脱力した体で
手を伸ばすと、向こう側の人物も手を伸ばして来る。
同時に動くそれで、鏡があるのだと思い立つ。
鏡の向こうの自分も自分のはずなのに、向こう側の自分が何を考えているのかわからなくて不思議だななどと、取り留めもなく哲学的な思考に陥りながら、心地良いこの環境にずっと身を委ねていたいと、そんな風に考えてしまう。
そんなまどろんだ思考は、伸ばしていた腕を掴まれる感触で一気に現実に浮上した。
ハッと目を見開くと、古い家屋の板張りの天井。宙に向かって伸ばされた自分の腕を掴み、間近で自分を見下ろす人物のシルエット。
「気が付いたか」
若干面倒くさそうな口調の、よく通る男の声。心地よいバリトンボイスは何処か聞き覚えがあるような気もした。
ぱちくりと瞬きを繰り返しても、状況が把握できない。
男の顔が近く、声が耳元でするのも当然で、
「えっえっ、ここ何処、なんで僕……」
「ずぶ濡れで道路に転がっていたが、様子を見た感じ救急車を呼ぶ程でもなかったからな」
男は「よいしょ」と年寄くさい掛け声と共に、自分の膝から少年を向かいの座布団に降ろした。
逆光ではなくなって、男の顔がはっきりとわかる。
精悍な男らしい輪郭には無精髭が散り、ぼさぼさの長めのくせ毛は、前髪を中央で分け、後ろは雑に縛られていた。父よりも若い様子から三十代と思えるが、落着きのある老成した雰囲気は、職人的な印象。しかし服装は着崩した白いYシャツに黒のスラックス、それに何故か藍色の羽織りという出で立ち。
困惑した視線にさらされて、男は居心地悪げに顎を撫で目を逸らす。
「あー……服は今、洗濯して乾燥中だ。別に変な趣味で脱がしたわけではないから勘違いしないでほしい」
「あっいえ、そんな、すみませんジロジロと」
「体が冷え切っているから暖かい所に置いてやりたかったが、ここは品物が傷むから暖房が付けられなくてな」
男が周囲に目線をやるのに合わせて、
「……倉庫……?」
「まあ似たようなものかな」
和室二間分を襖を外してひとつにしたようで、それなりの広さがあるのだが、どこもかしこも物だらけ。ボロボロの年季の入ったタンスに西洋騎士の甲冑、古い薬局の前にあるようなキャラクターマスコット、中国風の巨大なツボがあれば、日本人形の隣に子供向けのおもちゃの人形、何が入っているのかわからない木箱や
とにかく物が積み上がり、辛うじて
「あの……助けていただいたようで、ありがとうございます」
「まあ、たまたま通りかかっただけだが」
会話の間が持たなくてそわそわとした気持ちの
「……ん、乾燥機のアラームが鳴ったな。乾いたようだから服を持ってこよう」
少年の耳には電子音の類は聞こえなかったが、男はすいっと立ち上がると羽織をマントのようになびかせて廊下に向かって行ってしまった。その動きは洗練されていて、着物を着なれた人のようにも思える。
ややして男は、折りたたまれた制服の一式と、鞄や眼鏡など持ち物を持ってやってきた。
「アイロンは得意でないから、あとでクリーニングに出すといい」
「すみません、何から何まで」
「茶を淹れてこよう」
これから着衣するであろう少年を気遣ってか、男は再び席を外す。その合間にわたわたと制服に袖を通す。ほんのり暖かいのは乾燥機のせいだろうか。心もとなかった全裸からきちんと服を着た事、洗濯された服から線香のような和の香りがして、心を落ち着かせてくれた。
着替え終わるタイミングを見計らったように、男は盆に湯気を上げる茶を乗せて来て畳の上に置いた。
彼は自分用には渋い色の湯飲み茶わんを用意したようで、座るなりに手に取って飲み始める。
対して
「飲まないのか?」
「あっいただきます」
慌ててティーカップをソーサーごと手元に寄せると、カップに指をかけて口に運ぶ。温かい液体が喉をつたい、胃に落ちて行くのがわかって、自分の体がずいぶんと冷えていたという事に気付く。
「俺は
「アンティークショップ……」
周囲に積み上がるガラクタはどうやら商品だったようだ。ただ、少年の考えるアンティークとは随分と違うような……。今、
「僕は
「たっくんね」
「あ、はい」
突然ニックネームを付けられて面食らうが、ニカっと人好きするような笑みを浮かべられて言われると、それも悪くないと思ってしまった。
笑うと目尻にシワがより、目を細めるとやや垂れ気味の目が強調されるところが、優しそうに見える。
「ところで何であんな事になってたんだ」
「……それがあの……」
超常現象であるとは言いづらかったが、助けてもらった手前もあって、何があったのかをつぶさに語る。豪快に笑い飛ばしてくれればとも期待したが、
「なるほどねえ、たっくんは”
「今までそんなもの視た事なくて」
「急に視えるようになる人間もいなくはないから。害があるかどうかは君次第だが」
「僕次第……?」
「君が追いかけて来ると思ってしまえば追いかけてくるし、怖い見た目になると思えば怖い見た目になるという感じだな」
「やっぱり思い込みの幻覚のようなものです?」
「うーん、なかなか説明が難しくてなあ。……おっと、もう随分遅い時間だ、親御さんが心配しているだろう」
「今日は家に誰もいないので」
帰り際の経験を思い出すと、一人になるのが怖いと思ってしまった。何もなかった夕べも、父のベッドにもぐりこんでしまったほどなのに。
「そうか……じゃあいい物をあげよう」
男はゆっくりと立ち上がると詰み上がった段ボールの中から一つを迷いなく選び出し、がさりと紙の詰め物を押しのけて漁り出す。
やがて小箱を見つけると、そのまま少年の前までもって来た。
浅黄色の和紙で出来た箱の蓋を持ち上げれば、中に小さな銀色の鈴が入っていた。
白戸はすいっと自らの髪を縛っていた細い組紐を解くと、小さな鈴についた輪に通し、そのまま
「御守り。君が今日見たものは、これを身に着けている限り、君には近づけない。靄のような姿以外になる事ができない。効果は保障するよ、さっそく試してみたらいい」
靴を履いて
「今日はお世話になりました。また改めてお礼に伺いたいのですが」
「大里屋の羊羹」
「はい?」
男は片眉を上げて笑って見せる。
「好物」
「あ、はい!」
少年は
大里屋は拓磨の通う学校の
再び礼をして、アンティークショップを出る。暗くてあまり見えないが、外もガラクタで一杯のようだ。
敷地を出る時に、二本の柱で支えられた横長の看板をくぐる。
振り返って見上げれば「アンティークショップ白戸」と書かれていた。二本の柱で担ぎ上げるような横長の看板に安定感を出すためか、その下にも一本の棒が横に渡されているから、見た目としてはまるで鳥居のようであった。
看板の設置位置もなんだかおかしい気がして首を傾げつつも、一本道路を渡れば見慣れた通学路。コンビニで夕食を買って帰途につく事にする。
少年の後ろ姿が見えなくなるまで、腕を組んだ
「たまたま通りがかったなんて嘘ばっかり」
どこからともなく少女の声。
「わざわざ拾いに行ったが、どうだい隅々まで調べてみての見立ては」
しわがれた老人の声。
「面白いと思うよ」
それらに軽く返事をすると
「さて、このレースは誰が勝つだろうな。順位を譲る気はないが」
そう独り言ちる頃には周囲の気配は霧散していた。
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