第二章
第六話 早朝の来訪者
自宅に帰り着いた時には九時近く。
薄暗い道中、再びうっすらと見慣れない靄が視線の先で渦巻いていたが、もらった御守りが効いているのか濃くもならず集まりもせず、形を変えて追いかけて来る事もなかった。
部屋に入って鞄を置くと、父からのメールが入っていた。「一人でちゃんと出来ているか? 変わった事はないか。もし親戚や血筋の者だと名乗る人間が来ても、会った事のない奴なら絶対に玄関を開けないように」と、随分心配症な内容だった。
「特別変わった事もなかった、そちらも頑張って」と返信をし、携帯電話を充電器に突っ込む。
入浴しようとして御守りが気になったが、外すのも怖くてなるべく濡れないように気を付けて着けたまま入った。自分がこんなに怖がりだったかと改めて気づいて溜息が出る。
ただでさえ低身長の弱々しい見た目。これで更に幽霊相手にキャーキャー悲鳴をあげるのは心底恥ずかしい。せめて
髪をタオルで拭きながら、【
机の上には黒縁眼鏡が置かれたまま。実はこの眼鏡は度が入っていない伊達眼鏡である。「視力は悪くないのに眼鏡をするなんて」と父は反対をしたが、頼み込んで買ってもらったのだ。
きっかけは母の葬式。
五年前、癌の発見からあっという間の転移で母親は帰らぬ人に。心の準備をする暇もないぐらいどんどん悪化して、別れの日にも実感が沸かぬままにぼんやりと斎場にいた。
父方の親戚がひそひそと話をしているのがなんとなく耳に入り、好奇心から聞こえていないふりをしながら盗み聞いてしまう。
「
「まあねえ、
「やっぱり子供……
「そりゃあ
「
「やだぁありそう」
クスクスといやらし気に笑う二人の年配女性の言い方がとても悪意に満ちていて、死んだ母が何故そんな悪し様に陰口をたたかれなければならないのかと、ぎゅっと拳を握りしめる。
しかしその会話の中で、気になる言葉があった。
――僕のお父さんって、もしかして違う人なの……?
父、
心のもやもやが募っていたたまれず、意を決して
「ねえおばさん、今の話って」
二人の親類は、ぎょっとした顔をした。話を聞かれた事に驚いたのかと思いきや、二人の口から出たのはこんな言葉だった。
「やだ、何この子の目、気持ち悪い」
「ぞっとするわぁ」
「もう行きましょうよ、うちらもう関係ないし」
「そうしましょうそうしましょう」
「どうしたタク、そんなところでぼーっとして。そろそろ母さんを連れて帰る準備を……」
「お、お、おとうさん?」
父と呼んでいいのか迷いが生じた。でも他の呼び方なんて知らなくて、どもってしまう。
「なんだ、誰かに何か言われたのか」
「僕の目、気持ち悪いって……」
父に、父親は別の人ではないかと聞く事はできなかった。母の臨終から葬儀までのあわただしさの中、一気に老け込んでしまった父に。
「誰だそんな事を言った奴は。くそ鈴山のおば共か、あいつら親戚の集まりがあるたびに、ある事無い事いいふらしやがる」
タイミング悪く母との別れの実感も今更こみあげて来て涙があふれ、ぐしょぐしょになった自分の顔が酷く醜く思え、気持ち悪いと言われた言葉を反芻しては心は深く傷つき、それ以来
些細な出来事だったかもしれない。大抵の人がむしろ反発心を覚えるような暴言を、幼い少年は真正面から受け止めてしまった。母親という防御の手段を失った彼の急所に、すとんと悪意が刺さる。
長い前髪と伊達眼鏡は、それでも学校に通い、他人と付き合って行くために必須の防具。厚いガラス越しに心は守られている。
気持ち悪いと言われた目の事と、本当の父親が別にいるという可能性は鋭い針となって、幾度となく少年の胸を刺す。父とギクシャクしはじめたのもそれが原因だった。
親戚の集まりがあるたびに、少しずつ耳にする死んだとされる
「僕ってもしかして、逃げてばかりなのかな……」
靄の異形に追いかけられた時も、心に戦うという選択肢は出なかった。
「このままじゃいけない、とは思うんだけど」
枕に顔をうずめ、取り留めなく自分の心の葛藤を再確認しているうちにうっかりそのまま眠ってしまった。
* * *
カツカツ。
意識がふっと浮上する。
何か物音がする事に気付いて飛び起きる。
「え、何?」
時間は朝五時。空は白み始めて夜明けが近い様子、カーテンの隙間からは外の光が漏れ出していた。暗闇ではないから、その物音は怪異系ではなく泥棒や不審者など実在するものが原因だと咄嗟に感じ、幽霊より強盗の方が怖いと改めて感じて生唾を飲みくだす。
耳を澄まして、音の出所を探る。
カツカツ。
その音は室内ではなく、ベランダの窓から聞こえて来るようだった。
拓磨は足音を立てないように床に降りると、静かにベランダ側の窓に寄ってカーテンに手をかける。
勇気を振り絞って、シャッと一気にカーテンを引いた。
だが見回すもベランダには誰もおらず、紫色の空にオレンジのグラデーションがかかる空に細い雲がたなびいている様子が見えるだけ。
カツカツ。
再び音がして、それが足元からと気づき目線を下ろすと、いつか見た大き目の鴉が一羽、嘴でガラス戸をこついていた。
「えっ、君あのときの鴉……?」
反射的につつかれた額を右手で押さえる。くっきりと赤く残ったひし形の痕は、夕べの入浴時も消えていなかった。
鴉はしばし
カツカツカツカツカツカツ!!
「わかった、開けるから待って」
鴉が訪ねて来るなんて想定外もいい所。ガラス戸を引くと、何の躊躇もなくちょんちょんと軽やかに跳ねるように室内に入って来た。
「え、何なの、というか何で僕の家がわかったの。というか言葉がわかったりしてる?」
鴉は可愛らしくちょこんと首をかしげると、チャッチャッチャと足音を立てて
また飛び掛かって来るのかと少年は思わず身構えて、後ずさりして逃げたところ、膝裏にベッドの縁があたり座るように倒れ込んでしまった。間髪入れずに鴉が駆け上がって来る。
「え、ちょっと何!?」
鴉は一気に拓磨の胸元に飛び込んで来たので、また額をつつかれると感じた少年は、咄嗟に額を両腕で隠して目を閉じた。
しかし鴉がついばんだのは、唇。
すると突如、くらりと眩暈がしてそのままベッドにあおむけになる。何かを吸いだされるような感覚、体に重いものが覆いかぶさる感触。必死に
そこには鴉の姿はすでになく、前髪がぱっつりと切りそろえられたショートボブの女の子。硬い嘴だったはずのそれが、いつのまにか柔らかで甘い唇だった事も。
「!?」
もう訳が分からない。
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