第三十五話 争奪戦


「ついてこないで! 変態!」

「誰が変態だ! 短時間貸してくれるだけで、陰陽寮の少なくとも六十人が救われるんだぞ、少しは考慮してくれたらどうだ」


 それでも加賀見かがみは止まらない。貯水池の立ち入り禁止の柵を若さの跳躍力で乗り越え、速度そのままに走り続けるが、後を追う剣持けんもちも華麗に飛び越えたため、全く足止めにならない。

 しかも不意に、少女の足が勢いを失う。

 通りすがりの若いカップルがこちらに気付いたと同時に、彼らも柵を乗り越えたのだ。

 異変を感じて助けに入ってくれた人なのか、剣持けんもち中務省なかつかさしょうの人間か区別がつかない。


「邪魔をするな!」


 追いついて来た剣持けんもちのその叫びに、第三者であると気付いた少女はカップルに駆け寄る。


「助けて下さい! 追われてるんです!」


 しかし必死な少女の懇願に、カップルは二人同時に笑った。

 三日月のように目と口を歪ませて。

 次の瞬間には男が彼女の通学バッグを力任せに奪い取り、女が少女を貯水池に向けて勢いよく突き飛ばした。


「きゃあ!」


 悲鳴が掻き消える程の音を立てて水柱が上がる。カップルは奪いとった鞄をあさりながら駆け出し、機敏に柵を乗り越えて駆けて行く。

 剣持けんもちは迷った。


 あのバッグにきっと、鏡の欠片が。今追いかければカップルに追いつけるはず。だが貯水池で、突き落とされた少女がゴボゴボと空気を吐いて溺れていた。


「くそっ」

 

 上着を脱いで投げ捨てると、男は頭から貯水池に飛び込んだ。

 いつも自分は選択を間違える。


――だからといって何を選ぶのが正解なのか、わかりもしない。




 剣持けんもち加賀見かがみを抱えて、なんとか貯水池の縁に手をかけると、その手首を掴まれ、体格の良い高校生男子にグイっと無言で引き上げられた。

 ぜえぜえと息を吐きながらなんとか陸に上がりきると、少女がさめざめと泣き始める。


「もうダメだわ。私はもう消えちゃうんだわ」

「何を言ってるんだおまえは?」


 怪訝な顔をする剣持けんもちの耳に、もう一人が駆け寄る足音が聞こえた。顔を上げると眼鏡の少年が走って来る。


「ごめん加賀見かがみさん、追いつけなくて見失っちゃった。鞄はそこに投げ捨てられていたから拾ってきたんだけど」

「私のカバン!」


 少女はひったくるように鞄を受け取ると、中を必死に探る。


「ない、ないわ。私の鏡がない。どうしよう、どうしよう」

「落ち着いて、ねえ加賀見かがみさん泣かないで」

「とりあえず何処か、落ち着いて話せる場所に移動しよう。ここは目立ち過ぎる。服も乾かさないと」


 そう古賀こがが言い、拓磨たくまが思いついた場所は一か所しかなかった。


* * *


 濡れた服が乾くまでと、浴衣を借りた剣持けんもちは、白戸しろとを前にして土下座をしていた。


「今までの事は謝る。だから、力を貸してくれ。俺のためじゃなく、陰陽寮の部下のために、頼む」


 額を畳に擦り付けて、平伏と言ってもいいほどだ。いつもの紺の羽織りをまとった白戸しろとは、組んでいた腕を解くと「わかった」とそれだけを言った。がばりと顔を起こした剣持けんもちの額にはくっきりと畳の跡がついている。


「本当か、恩に着る!」

「鏡より溺れた娘さんを優先していなければ、なかった同意だ。とりあえず落ち着いて座ったらどうだ」


 チクリと嫌味の針を刺され、過去の己の行いを振り返れば苦い表情をするしかない。促され座布団に座り込んでいると、からりと障子戸が開いて浴衣に着替えた加賀見かがみも少年に付き添われて部屋に戻って来た。顔は涙に濡れてぐしゃぐしゃで、ずっと「私は消えちゃう」と泣き続けている。

 拓磨たくまが背中を撫で続けているが、全く慰めにならないようだ。彼女はそのままぺたりと女の子らしい床への座り方をする。少年が助けを求めるように白戸しろとに顔を向ければ、男は立ち上がり、背後の打掛を手に取ると、少女の背にフワリと被せた。「あ、それは」と少年が言いかけたのを遮って、手を引いて炬燵に戻り自分の隣に少年を座らせる。

 古賀こがは土下座をしていた人相の悪い男と、泣きじゃくる少女と、ひたすら優しい少年と、その少年に対する距離感がおかしい無精ひげの男に囲まれて、所在なさげにしている。

 少女が両手で顔を覆ってしくしくと泣き続けていると、スッと打掛から白い手が伸びて来て、彼女の背を撫で始める。人間だと肩関節がありえない角度に曲がっている状態と言う事もあり、古賀こがが驚いてゴフッとむせた。対して剣持けんもちは「おおっ」と感嘆の声を上げる。


「流石だ白戸しろと、ここまでの付喪神を使役するとは」


 その声に、ふっと顔を上げた少女は、目線の先で心配そうに自分を見る眼鏡の少年の顔を見た。その隣の無精ひげの男に視線を流し、ぐるっと部屋を見渡して、古賀こが剣持けんもちを見つける。


「えっ」


 じゃあ先ほどから自分の背中を優しく撫でているのは? と、おそるおそる振り返った少女の目に映ったのは、あり得ない角度で曲がった腕が打掛から伸びて、己の背を甲斐甲斐しく撫でている光景だった。


「ひぎゃぁああああああああっ!!」


 涙も何もかも引っ込んだ加賀見かがみは打掛をその場に脱ぎ捨てて拓磨たくまに抱き着く。少年の顔に少女の豊かな胸が押し付けられた状態になった。


「か、加賀見かがみさん、くるし……」

「あっごめんなさい」

「でも良かった。まだ消えてないみたいだよ。平気そう」

「え、あ、そうよね。あれ? 何で平気なんだろ。付喪神って付いていた物から離れて平気なものなのかしら」

「さっきからこの娘さんは何を言っているんだ」


 剣持けんもちが眉根を寄せる。


「だって私、あの鏡の付喪神の、鏡姫のはずじゃ……」

「陰陽師の名にかけて誓うが、君はただの人間だ。あの鏡の破片の残りを持っているが、付喪神がついていた痕跡などなかった……あっ!」

「やっと気づいたのか、剣持けんもち。知識のないお嬢さんが自分を付喪神と思い込んでしまうのは仕方ないだろうが、専門知識のあるお前がその有様というのは」


 頬に傷を持つ男は、ぐぬぅと悔しそうに俯く。


「山にあれほどの神粒しんりゅうを集める鏡に、付喪神がついていないはずがない。あの銅鏡にはその気配がなかった。つまりあれは光返山ひかえしやまをあのような環境にしたものではないという事だな」

「じゃ、じゃあ何故、加賀見かがみ博士はあれを握りしめていて、そして今回奪われる羽目になったのだ」

「おまえと同じ勘違いをしている奴が、他にもいるという事だな」

「いったい誰が……あっ、もしかして……という事はまさか!」


 一人気づき、納得した剣持けんもちは、慌てて上着から携帯を取り出しショートカットで電話をかける。


「俺だ。引き出しの二段目をすぐに見てくれ! そうだオレの机の、ない!? 誰が持ち出した。……あいつが? わかった。すまん待機を続けてくれ」


 電話を切るとガクリと項垂れる。


「部署に置いていた残りの欠片も持っていかれた……」

「別に奪われても、特に効果のあるものじゃない。だが、誰が奪ったのかは気になるな。思い当たる犯人はいるのか?」

「恐らくだが、叢雲むらくも光輝こうきという宗教団体だ……」


 その名前に、三人の学生は顔を見合わせたが、白戸しろとは薄く笑っただけだった。


* * *


「それじゃあ私の知ってる事を話すわね」


 打掛の衝撃から立ち直った少女は、理路整然と語り始める。なお、打掛は今は拓磨たくまが羽織っており、少女に向かって、いよっ待ってました! といわんばかりの拍手を送る。


「”叢雲むらくも光輝こうき”、教祖は叢雲むらくもという名前だけど本名ではないと思う。龍の化身だそうよ。設立というか、名前が界隈に出始めたのは十年程前からかしら」

「界隈って?」

「超常現象を愛する会、UMA研究会のようなインターネットのサークルが多数あるの。宗教団体だけど、登場時から有名になったのは、その教祖の神秘的なビジュアルのせいね。龍の化身であるというのも嘘ではないのではと思わせる説得力があるそうよ。センパイ、実際見てどうだった?」

「綺麗だった。人形作家が造形にこだわって作ったような完璧な顔立ち。西洋人とも東洋人ともつかなくて、想像で作られたかのような。人間離れしてはいたと思う」

「とまあ、朴念仁にこの程度の語彙を持たせる程度のインパクトがあったって事ね」

「誰が朴念仁だ」


 また口喧嘩が始まるのではないかと思うと気が気でなかったが、加賀見かがみ古賀こがの反応を華麗にスルーする。


「とまあそんな感じで、最初は教祖の魅力に惹かれて入信する人が多かったのかな。信者の数を着実に増やしたのが主に口コミなんだけど、教祖の叢雲むらくもには癒しの力があるとかで、病気が治ったという噂がぱっと広がったの」

加賀見かがみさんの親類もそれに縋って?」

「うん。選挙に当選してさてこれから! という時に心臓病を患ったの。藁にも縋る思いで入信したそうよ。今ではピンピンしていて防衛大臣まで上り詰め、それからは妄信って感じね。母にも勧誘があったみたいだし。ただ、こうやって治ったという話がある一方で、ひどく体調を崩す信者も多数出ているとかで」


 古賀こがの眉がピクリと動く。


「こちらに関わるような事がなければ、気にする存在でもないが、関わって来るようならそれなりの対処が必要だな」


 白戸しろとが顎を撫でて言うが、その目は好戦的に輝いていて、拓磨たくま白戸しろとの見知らぬ一面を垣間見た気がした。

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