第三十五話 争奪戦
「ついてこないで! 変態!」
「誰が変態だ! 短時間貸してくれるだけで、陰陽寮の少なくとも六十人が救われるんだぞ、少しは考慮してくれたらどうだ」
それでも
しかも不意に、少女の足が勢いを失う。
通りすがりの若いカップルがこちらに気付いたと同時に、彼らも柵を乗り越えたのだ。
異変を感じて助けに入ってくれた人なのか、
「邪魔をするな!」
追いついて来た
「助けて下さい! 追われてるんです!」
しかし必死な少女の懇願に、カップルは二人同時に笑った。
三日月のように目と口を歪ませて。
次の瞬間には男が彼女の通学バッグを力任せに奪い取り、女が少女を貯水池に向けて勢いよく突き飛ばした。
「きゃあ!」
悲鳴が掻き消える程の音を立てて水柱が上がる。カップルは奪いとった鞄をあさりながら駆け出し、機敏に柵を乗り越えて駆けて行く。
あのバッグにきっと、鏡の欠片が。今追いかければカップルに追いつけるはず。だが貯水池で、突き落とされた少女がゴボゴボと空気を吐いて溺れていた。
「くそっ」
上着を脱いで投げ捨てると、男は頭から貯水池に飛び込んだ。
いつも自分は選択を間違える。
――だからといって何を選ぶのが正解なのか、わかりもしない。
ぜえぜえと息を吐きながらなんとか陸に上がりきると、少女がさめざめと泣き始める。
「もうダメだわ。私はもう消えちゃうんだわ」
「何を言ってるんだおまえは?」
怪訝な顔をする
「ごめん
「私のカバン!」
少女はひったくるように鞄を受け取ると、中を必死に探る。
「ない、ないわ。私の鏡がない。どうしよう、どうしよう」
「落ち着いて、ねえ
「とりあえず何処か、落ち着いて話せる場所に移動しよう。ここは目立ち過ぎる。服も乾かさないと」
そう
* * *
濡れた服が乾くまでと、浴衣を借りた
「今までの事は謝る。だから、力を貸してくれ。俺のためじゃなく、陰陽寮の部下のために、頼む」
額を畳に擦り付けて、平伏と言ってもいいほどだ。いつもの紺の羽織りをまとった
「本当か、恩に着る!」
「鏡より溺れた娘さんを優先していなければ、なかった同意だ。とりあえず落ち着いて座ったらどうだ」
チクリと嫌味の針を刺され、過去の己の行いを振り返れば苦い表情をするしかない。促され座布団に座り込んでいると、からりと障子戸が開いて浴衣に着替えた
少女が両手で顔を覆ってしくしくと泣き続けていると、スッと打掛から白い手が伸びて来て、彼女の背を撫で始める。人間だと肩関節がありえない角度に曲がっている状態と言う事もあり、
「流石だ
その声に、ふっと顔を上げた少女は、目線の先で心配そうに自分を見る眼鏡の少年の顔を見た。その隣の無精ひげの男に視線を流し、ぐるっと部屋を見渡して、
「えっ」
じゃあ先ほどから自分の背中を優しく撫でているのは? と、おそるおそる振り返った少女の目に映ったのは、あり得ない角度で曲がった腕が打掛から伸びて、己の背を甲斐甲斐しく撫でている光景だった。
「ひぎゃぁああああああああっ!!」
涙も何もかも引っ込んだ
「か、
「あっごめんなさい」
「でも良かった。まだ消えてないみたいだよ。平気そう」
「え、あ、そうよね。あれ? 何で平気なんだろ。付喪神って付いていた物から離れて平気なものなのかしら」
「さっきからこの娘さんは何を言っているんだ」
「だって私、あの鏡の付喪神の、鏡姫のはずじゃ……」
「陰陽師の名にかけて誓うが、君はただの人間だ。あの鏡の破片の残りを持っているが、付喪神がついていた痕跡などなかった……あっ!」
「やっと気づいたのか、
頬に傷を持つ男は、ぐぬぅと悔しそうに俯く。
「山にあれほどの
「じゃ、じゃあ何故、
「おまえと同じ勘違いをしている奴が、他にもいるという事だな」
「いったい誰が……あっ、もしかして……という事はまさか!」
一人気づき、納得した
「俺だ。引き出しの二段目をすぐに見てくれ! そうだオレの机の、ない!? 誰が持ち出した。……あいつが? わかった。すまん待機を続けてくれ」
電話を切るとガクリと項垂れる。
「部署に置いていた残りの欠片も持っていかれた……」
「別に奪われても、特に効果のあるものじゃない。だが、誰が奪ったのかは気になるな。思い当たる犯人はいるのか?」
「恐らくだが、
その名前に、三人の学生は顔を見合わせたが、
* * *
「それじゃあ私の知ってる事を話すわね」
打掛の衝撃から立ち直った少女は、理路整然と語り始める。なお、打掛は今は
「”
「界隈って?」
「超常現象を愛する会、UMA研究会のようなインターネットのサークルが多数あるの。宗教団体だけど、登場時から有名になったのは、その教祖の神秘的なビジュアルのせいね。龍の化身であるというのも嘘ではないのではと思わせる説得力があるそうよ。センパイ、実際見てどうだった?」
「綺麗だった。人形作家が造形にこだわって作ったような完璧な顔立ち。西洋人とも東洋人ともつかなくて、想像で作られたかのような。人間離れしてはいたと思う」
「とまあ、朴念仁にこの程度の語彙を持たせる程度のインパクトがあったって事ね」
「誰が朴念仁だ」
また口喧嘩が始まるのではないかと思うと気が気でなかったが、
「とまあそんな感じで、最初は教祖の魅力に惹かれて入信する人が多かったのかな。信者の数を着実に増やしたのが主に口コミなんだけど、教祖の
「
「うん。選挙に当選してさてこれから! という時に心臓病を患ったの。藁にも縋る思いで入信したそうよ。今ではピンピンしていて防衛大臣まで上り詰め、それからは妄信って感じね。母にも勧誘があったみたいだし。ただ、こうやって治ったという話がある一方で、ひどく体調を崩す信者も多数出ているとかで」
「こちらに関わるような事がなければ、気にする存在でもないが、関わって来るようならそれなりの対処が必要だな」
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