第三十一話 母の日記


 結局、どうやっても日記は開けないまま。


 その夜は、気になってなかなか寝付けなかった。もしエコー写真で双子であることが明らかになれば、自分は大磯おおいその子であるという確信が持てる気がして。

 もしかしたら兄弟がいるかも知れないというのも、心が浮き立つようで気になる。


 翌朝、父が出勤していくのを見送ると、母の遺品の段ボールから問題の日記を取り出す。試しに開いてみるが、拓磨たくまでも貼りついたページを開く事が出来なかった。

 全部が開かないわけじゃなく見られる箇所もあるのだが、天気の話が書いてあったり日常のメモだったり。最後の方は体の不調に気づいている様子が散見されて、そちらは見る事が出来なかった。


 母が頑なに、誰にも読まれたくないと願ったページ。「見ないで」という念に染まった神粒しんりゅうが封じたそれを、力任せに開ける事は息子の自分には難しかった。


――でも他人なら?


 迷惑をかけっぱなしのあの人をまた頼るのかと思いはしたが、相談が出来る唯一の人。

 結局は登校時間ギリギリまで悩み、ヤタの様子を見るというのを口実に、登校時にそちらに伺いたいというメールをしてしまった。やはり取り消そうと思う暇もなく、了承の返事が届いていた。


* * *


「なるほど、なかなか強固な念で封じてある。これは時間がかかるかもしれないな」


 手渡された日記の表紙の表と裏をまじまじと眺めながら、無精ひげの男は言う。ヤタはもう出かけてしまっており、今夜もここに来るというジェスチャーをして飛んで行ったらしい。彼女と白戸しろとが、言葉は通じなくても意思疎通が出来てる様子なのにも、ちくりと胸が痛んだ。なんとなく沸いた嫉妬心を、会えなくて残念という気持ちで上書きする。


「俺はこれをどうしたらいい?」

「……こんな事をお願いするのは、気が引けるのですけど……」


 自分は母の秘密をすべて知りたいわけじゃない。こんな風に日記を封じてしまうほどの強い思いの理由を、受け止める勇気もなかった。

 自分が本当は双子であるかどうかだけが、唯一知りたい事である。それにもし、母の秘密が父を傷つけるような内容であれば、彼女との暖かい思い出が砕けてしまうようで怖い。再び臆病風に自分が逃げ出しているのがわかったが、これに関してはどうしても全てを知る勇気が持てなかった。


「なるほどわかった。とりあえず、君の出生のあたりがどう書かれているのかを確認すればいいんだね。そこを探すために、いくらか中身を読まなければいけなくなりそうなんだが、それについては」

「僕、白戸しろとさんの事を信頼してます」

「信用してくれてうれしいよ」


 男はそういうと、いつものようなくしゃりと髪をかき混ぜるような撫で方ではなく、ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。これから学校に行くのに髪が乱れたりしないようにという配慮に思え、この人なら大丈夫と信頼を更に深める。


 通学鞄を肩にかけ直し、学校に向かう少年の後ろ姿を見送ると、男は家の中に入り玄関の引き戸を後ろ手で閉める。

 歩きながら日記帳を両手で持ち、何の気兼ねもせずに開く。少年には時間がかかると言っておきながら一瞬で神粒しんりゅうの鎖は切れた。拓磨たくまが躊躇したような、彼女の嘆きや不安、見ないで欲しいという切ない願いなど、男には微塵も躊躇の要因にならなかったから。

 早速日記は、男の前で全文をさらけ出す事になった。


* * *


 炬燵の前に腰を下ろすと、背後の衣紋掛えもんかけの女物の打掛から伸びる白い腕が、男のご機嫌を取るように肩を揉み始める。それを煩わし気に片手で払いのけ「今はいらん」と粗雑に言い放つと、打掛はしゅんとしょぼくれて袖の中に腕を隠す。


 前半のページは、恋する乙女視線で書かれている恋する相手への想いのポエム状態で、白戸しろとは無表情にペラペラとそれを飛ばす。

 途中から意中の彼が美女を毎日はべらせるようになったと苦しむ文面が増え、それにつれて文章はどんどん短くなり、メモのような概要が増える。


―今日、手に入れてしまった。もうやるしかない。

―購入:赤ワインとリーデルのワイングラス。

―論文掲載のお祝いをしたいと誘ったらOKもらえた!

―思い出が出来た。今夜の事をずっと大切にする!


 単語やハートマーク等の記号、前後の文章から推測できるのは、彼女が興奮剤の類を手に入れ、酒に混ぜて相手に飲ませて得た仮初の同意で一夜の関係を結んだ、という感じだ。しかしページ全体に大きくバツ印がつけられ、端には後悔をほのめかす一文があって、葛藤が垣間見える。

 更にページを繰る。


―山に行ってたって嘘でしょ。帰ってこないってどういう事なの。

―連絡しても、返事がない。お願い無事でいて。

―ニュースをずっと見てる。山が無くなってる。

―死ぬはずない、きっとどこかで身動きできなくなってるんだ。


―入山規制があったけど、山に行って来た。見つからなかった。

―北の方に行ってみた。捜索の自衛隊の人に見つかって追い返された。

―助けに行かなきゃ、きっと待ってる! 諦めない。

廉次れんじうざい。うるさい。だまれ。

―ひどい事を言ってしまった。謝れない、 どうしよう。


「すごいな、あの山体崩壊直後に山に入っていたのか」


―どうしよう、きっと私のせいだ。ごめんなさい。


「ん?」


 その後しばらくページは空白だった。

 落ち着いた頃だろうか、数か月後に日記は再開して、空白期間の日記のまとめのような文章が書かれている。


―――

 廉次れんじが止めるのも聞かず、こっそりまた山へ行った。ばれないように夜に行ったのが良くなくて道に迷う。

 暗かったので、洞窟のようなところに入り込んでしまった。割れた皿があったり祠らしき物がある。もし生きているなら、こういう場所に身を寄せて救助を待っているかもしれないと思い、彼の名を呼びながら奥に進んだ。

 途中でひどい吐き気がした。ひりつくように喉が渇く。水が飲みたくて探していたら、三十センチぐらいの大きさの浅い水たまりがあった。澄んでいて顔が映りこむ揺らぎのない水。細菌類が怖かったが、喉の渇きに耐えかねて飲みほす。コップ一杯分ぐらいしかなかった。

 その後、休憩をしていたらひどい腹痛。最初は水が悪かったのかと思ったのだけど。

 月のものが無くなっていたことを思い出す。妊娠の可能性に気付く。

 神様に祈った。赤ちゃんを助けてと必死に祈った。

 

 廉次れんじが捜索を依頼してくれていたおかげで、昼にヘリで救助され病院に搬送。赤ちゃんは無事だった。神様に……廉次れんじに感謝した。

―――


 一枚のエコー写真が挟まれていたので男は手に取ってみる。少し不鮮明ではあったが、小さな塊がふたつ。


「双子だな」


 拓磨たくまの気にしていた事がひとつ、これで解決する。

 その後、涙に濡れてシワシワになったページが続く。赤ちゃんは二人いるけれど、一人分の心音しか聞こえないと。エコーを撮るたびに、死んでしまった赤ちゃんは小さくなってやがて消えた。謝罪の言葉が延々と続く。あの時、山に行かなければもしかしたら、という後悔。


 その後、想い人の弟からプロポーズをされ、戸惑いながらも承諾した事が記されている。立ち入り禁止の山に入って遭難し、大騒ぎを起こした女と言う事で、彼の親類からは随分と白い目で見られていたようだ。

 それでも子供が無事に生まれ、幸せな出来事が綴られて行く。この辺りからは最初から開く事が出来た箇所なので、エコー写真だけを別に分けて白戸しろとは日記を閉じた。


 しばらく逡巡した後、白戸しろとは日記の開かなかった箇所に術をかけ、再び封印する。以前よりもっと強固に、いつか拓磨たくま神粒しんりゅうの扱いを完全にマスターしても、簡単には開けないほどに強く。


「……水鏡だったのか」


 そう呟くと、眉間には苦悩のシワが刻まれた。


* * *


 休み時間、階段のところで加賀見かがみ拓磨たくまは話しかけられた。

大磯おおいそ君、この間頼んだ彼氏のふり、もう必要なくなったから」

「あの事、解決したんだ」

「完全に解決したわけじゃないけど、政府に提出する事にしたから。無理やり連れていかれるという事はもうないみたい」

「大丈夫なの? あんなに嫌がってたのに」

「手放さず、直接持っていく事にしたの。調査は私がいるところでやってもらう事になったから」

「そっか、鏡と離れずに調査出来るなら、それでいいよね」

「うん。あとごめんね、私のせいで殴られたって聞いた」


 反射的に左の頬に触れてしまったが、慌てて首を振る。


「大丈夫、大したことじゃなかったから。なんだか話が大げさになってるみたいで」

「……あの……あのね、今度はふりとかじゃなくて」

大磯おおいそぉー、二年の先輩がおまえに用があるって教室に来てるぞ~」


 後ろからクラスメイトに大声で呼ばれ振り向いた拓磨たくまは、加賀見かがみが何かを言いかけていたことに気付かなかった。

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