第二十八話 山での出来事


「で、一体いつの話かな?」


 最中もなかと茶を拓磨たくまの前に差し出してから、自分の分の包装をペリペリと剥しながら男は言う。


「えっと、いつだろ……」


 自分の分のお菓子を食べ終え、出してもらったお茶で喉を潤した鴉の乙女は、途端にばつの悪い顔をした。


「ひもすどりなだけあって、年数は数えられないか」

「ひもすどり?」


 拓磨が聞き慣れない言葉に反応をすると、白戸しろと最中もなかの上側だけをぱりっと剥して口にし、残りの下側と餡だけが残ったそれを「優秀な御使いを馬鹿にするな」と憤慨するヤタの前に差し出す。少女はパッと嬉しそうな顔をして受け取り、ぱくりと食べた。上側がなくなって唇に張り付かなくなって食べやすくなったようだ。


「鴉はカァカァと鳴くだろう。カというのは日の事だから、日を申す鳥。だから鴉にはひもすどりという別名があるという」

「なんだか風流な感じがしますね」

「そうだな」


 そんな会話がなされる和やかな雰囲気も相まって、ヤタは最初の勢いをすっかり失っていた。食べ物で懐柔されているようにも見えて、若干情けなくもあるが。


「冬が二回は過ぎてると思う……」


 なんとか少女はそう言うと、男はしばし考える素振りを見せて何かに思い当たったらしい。


「なるほど、光返山ひかえしやまで会った化け物。あれが君か。初めて雨の中でたっくんと出会って、半年ぐらい後の出来事だな」

「ヤタのいた山って光返山ひかえしやまだったんだ」

「そいつに粉々にされたから、また飛べるようになるまで体をまとめるの大変だったんだから……」


 くすんと片目に涙をためて、拗ねるように言う少女が、化け物とはいったいどういう事なのかと拓磨たくまが疑問に思っていると、ヤタは少年をちらりと見て覚悟を決めたように口を開いた。


「あのね……」


* * *


 パラパラと小石が降って来て、ふっと意識が浮上した。


「クァ?」


 気づくと自分の羽根がすっかり苔むしており、慌てて振り払うと鴉はぴょこんと体を起こした。緑の苔がハラハラと落ちて艶やかな黒い羽毛が露わになる。

 洞窟のようなところだが崩落の結果あちこちから日差しが入りこんで明るい。ちょんちょんと飛んで、体の調子を整えるが、身体を構成していた神粒しんりゅうが随分と減っていて、鴉の形状だけを辛うじて維持しているだけだった。


 いつも一緒にいた主を探して、ちょこちょこと歩き回りながら、周辺の神粒しんりゅうを突いて体に取り込んでいく。嫌な思念に染まった物も多くあった。苦しみや嘆き、恨みや哀しみに満ちていて、悲鳴にも似たそれを取り込む事に抵抗があったので、それを避けて身体の不足分を補わなければと綺麗なものを探して集めてまわる。


 外に出れば住んでいた山容は大きく変わり、見下ろしていた山は見上げなければならない。瓦礫の間からたくさんの緑が生い茂り、崩壊の日からの長い年月を御使いの鴉に悟らせた。


「カァ」


 焦りながらも周囲を見渡し、主の痕跡を探す。僅かに残った絆の銀糸が細く人里に向かってたなびくのが見えた。それを辿ればと思った瞬間、複数の男達の影。彼らにもその糸が見えたのか、指をさして何かを叫んだと思ったら果敢に手に取ろうとしはじめたのだ。

 主と繋がる糸が切られると慌てた鴉は、周辺の神粒しんりゅうを必死にかき集める。もう選んでる余裕はなかった。しかし良くない念を多く取り込んだせいで、悲鳴が己の中に溢れかえってパニックになり、咄嗟に集めるのはやっぱりやめようと思ったけど止まらない。山の崩壊で苦しんだ動植物と人間達の、嘆きや恐怖が連鎖してどんどん吸い込まれていく。

 増えた力は、やがて自分の体よりも大きな幻影を作り出した。


 そして心は憎しみと怒りに溢れかえる。人間が触れた瞬間に絆の糸が切れるのが見えた。もう我慢ならない。山に立ち入って神域を荒らす人間ども、許すまじ!


 大きく膨れ上がった体は黒い魔物の様相を取り、男達に向かう。彼らは驚いたように蜘蛛の子の如く散り散りとなり、印を切り呪文を唱え、神粒しんりゅうで作られた小さな力を使役して攻撃をして来た。それで彼らが、遠い過去に出会った事もある陰陽師という職業の者達であることを鴉は知る。

 簡単に振り払える弱々しい式神を砕き少し翼をはためかせれば、相手は勝手に驚いて岩に足を取られて転んだり、上にいた人間が落とした岩にぶつかったりで簡単に次々と倒れて行く。

 それがなんだか楽しくなる。


『ざぁこ♪ ざぁこ♪』


 本来の御使いの行動から大きく外れるのはわかっていたのに、嘲る自分が止められない。

 狂喜乱舞する黒い巨鳥は、男達の人数を次々に減らしていく。ただ、目つきの悪い男だけが、何故だかとても手強い。

 巨大な鳥の姿に見せているものの、物理的な実体は未だ鴉のサイズのままであったから、近づきすぎるとバレてしまうが、早くこいつも山から追い落としてしまおうと直接襲い掛かる。殺してしまっても構わないと思ってしまった。


 殺意の鉤爪は男の左頬を深くえぐる。


 「やった」と思ったのも束の間。とりあえずまとめていた神粒しんりゅうで出来た黒い翼を、別の方向からの強い式神で吹き飛ばされた。


「情けないな剣持けんもち

白戸しろと、何故、おまえがここに!!」

「別にお前らを追いかけて来たわけじゃない。俺自身が確かめたい事があっただけだ。こんな幻影に振り回されるとは相変わらず情けないな」

「うるさい黙れ!」


 人間達のやり取りなどどうでもよかったが、手強い奴がもう一人現れたから逃げるべきかと思案するが、新たに現れた方の男は躊躇もしなければ容赦もなかった。


『えーーー? 少しは怖がりなさいよっ! ほらこんなに大きくて黒いんだからっ! 爪だってすごいのよ、ほらほらこれ見て、長い鉤爪でしょ、当たると痛いんだからっ』


 うりうりと足先をふりまわす巨鳥の姿にも一切の恐れも抱かず、他の男達同様に印を結んで呪文を唱えたが……威力は他の人間とは桁違いで、鴉はせっかく集めた神粒しんりゅうを全て吹き飛ばされ、やっと再生していた本体も粉々になって散った。


 その後、時間をかけてゆっくりと無意識が神粒しんりゅうを集め、少しずつ自我を取り戻し人里に降りて来られるような鴉の実体を手に入れたが記憶の一部は欠けてしまい、切れてしまった絆の糸の先は見つからず、糸を見たという鳥達に方角を聞いて、なんとかこの町にたどり着いたのである。


* * *


 ヤタの語彙が乏しいせいで緊迫感が薄くなった過去を聞き終えたあと、白戸しろとはいつの間にか三個の最中もなかを食べ終えて茶をすすっていた。


「タクマ、だからこいつは悪いやつ! 信用しちゃだめなの」

「ヤタが人を襲ってたからだろ。まさか人を殺しちゃったりしてないよね……?」


 その人達にも家族がいる。母を失ったあの時の喪失感を考えると、同じような思いをする人をヤタが創出しているとは思いたくなかった。そんな少年の心情を感じ取ったのか、茶のおかわりを淹れ始めた白戸しろとは静かに口を開く。


「そいつがやったのはせいぜい相手を驚かせて、ひっかき傷を作った程度だからな。あの時に探索に出ていた陰陽寮の人間で、死者が出たという話は聞いてない」

「そっか、良かった」

「たっくんは甘いな。身を護るために相手を殺す事もやむを得ない時というのはある。事実俺は、同じ人間を護るためにそいつを吹き飛ばした。戦いになれば、やるかやられるかだ。自分や大事な人が殺されても構わないと思うなら、その態度を貫けばいいが」

「……それは……」


 ゲームでは当然のようにやっている事だ。反撃も必要だというのも理解できるし、正当防衛という言葉だってある。それでも意図的に死を作り出すなんて、自分にはできそうになかった。


「ところでたっくん、その頬の傷はどうした。もしかして口の中も?」


 茶にも最中もなかにも手を付けない拓磨たくまを気遣いつつ、白戸しろとが話題を変える。

 学校での出来事を語り、そしてその体験から神粒しんりゅうを使って人を洗脳したりできるのではないかという懸念も口にすると、無精髭の男はぎゅっと眉をしかめた。


「なるほど……そういう使い方もあるか……」


 半ば感心したように独り言のようにつぶやく。


「とりあえずはその怪我だな。優秀な御使い、出番だぞ」


 熱いお茶を舐めていたヤタが顔をぱっと上げる。炬燵からするりと抜け出ると、拓磨たくまの横に膝をついてずずいと顔を寄せて来た。

 避ける暇もなくヤタがしなだれかかり、怪我をした頬を猫のごとくちろちろと舐め始める。


「ちょっと、ヤタ……!」


 人前でこんな事は恥ずかしいと思い、この部屋で唯一の人間である男の方を見ると、彼は我関せずといった様子でかりんとうの袋を開封している。打掛は「ワタシ、ナニモミテマセン」と言わんばかりの不自然さで、盆踊りのような振り付けで踊り始めていた。

 そのままヤタに押し倒されて、上から圧し掛かられて延々と舐められる。


「だめだったら……!」


 くすぐったくて笑いそうなのを必死に抑えていたら、単にじゃれあってるのと変わらない状態になってしまい、「仲の良い事だな」とぼそりと呟く男の声に顔が熱くなる。

 軽くなった気がして目を開いたらいつのまにか少女の姿はなく、大き目の鴉が胸の上で自分を覗き込む。こてんと首をかしげて『どう?』と言った。


 左手でさすってみると、頬の痛みは完全に引いていた。

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