第二十五話 雲は空を埋め尽くす
通学ついでに、父に頼まれた封書を投函するため駅前のポストに向かっている
数本ののぼりを立てて演説している人がいる様子は、選挙の立候補者のように見えたので、自分には関係ないとそこを避けるように迂回してポストに封書を投函した。そのまま学校の方に足を向けた時、後ろから元気な声をかけられ振り向くと、手に大量のチラシを携えた笑顔の女性が立っており、にこやかにそのうちの一枚を差し出されて思わず受け取ってしまった。
「……
「竜神である
一息にスラスラとよどみなく捲し立てられて、
こんな田舎町の小さな駅前にまで布教活動に来ている熱心さも、信者を増やしている理由かもしれない。
「あのすみません、興味なくて」
慌ててチラシを差し戻したが女性は受け取ってはくれず、ニッコリと目と口を三日月に形作り「ならなおの事、チラシをお読みくださいませ」と、踵を返してしまった。少年の手元にはチラシが残る。
あまりしつこい勧誘ではなかった事に安堵して、とりあえずチラシをポケットに押し込んで学校に向かった。
* * *
「
「嫌だね! ちゃんとした説明を聞くまではここを動くものか」
「おまえには関係ない事だ!」
「俺は跡継ぎだぞ、神社の事なら無関係じゃないはずだろ」
ぐぬぅと口ごもった神主である父親は、狩衣に合わせて手に持った
「いてぇっ! それはそういう用途に使ったらダメだろう!? 座禅の
「だまれだまれ、口ばかり達者になりおって。おまえの本分は今は学業だろうが、学校を優先しろ!」
頭ごなしに子供扱いをする事に立腹した息子は、するどい三白眼で父親を睨みつける。対する父親も三白眼で二人はそっくりである。激しいガンの飛ばし合いの次は掴み合いに発展しかねない様子に、バイトの巫女がおろおろと二人の間に割って入る。
「こんなところで喧嘩をしてはいけないと思います!」
本殿の真ん前であったから、確かにその通り。
年若い、しかもバイトの女性に仲裁されるのは流石にお互い恥じ入る所があって、頑固な息子は話をしなければてこでも動かないであろうと、父の方が諦めて折れた。
社務所の一室、しっかりと窓と扉を閉めて、更に父は声を潜める。しかも耳打ちする念の入れようだ。
「三億円だ」
「は?」
「三億円で買い取ってくれるらしい」
「さんおく……!?」
狩衣の男は人差し指を唇にあてて、シーッと声の大きさを諫める。
「なあ
「だからといって、神社の一部を売るなんて」
「神社の一部とはいっても、我々の神とは無関係な絵だ。元々漂泊の画家がふらりと立ち寄って、一晩の宿の謝礼として描いたと聞く。その画家も無名であるし、参拝者が楽しみにしている天井画を売るわけじゃない」
「それはそうだけど……」
また見せてもらいたいと笑顔を見せた後輩の気持ちを考えると、残念だと思う感情が勝る。博物館や美術館ならともかく、宗教団体に売り渡されれば信者以外は見る事が出来なくなるだろう。
「まあワシもちょっと驚いてはいるんだ。母さんがあんなにすんなり判を押して帰って来るとはなぁ……そりゃあうちの経済状況から金銭的な部分があるとしても。向こうの教祖だとかいう人物と直接相対したらしいのだが、大層なイケメンだったらしい」
「母さんが男の顔で、そんな決断をするわけないじゃないか」
家の中で最も強く、現実的な母親。この父なら容易に口車に乗ったり、脅しに押し負けたりするだろうが、母はそういうのに一切動じない。彼女に会った事がある全員が、女帝と評する程の人なのだ。
「母さんが、その方が神社のためになる……と判断したと、思いたくはあるんだが……」
「何か気になる事があるのか?」
「その教祖の話をするとき、まるで酔ったようにうっとりとするんだ。母さんもしかして、その教祖の男に懸想したとかじゃないだろうなぁ」
しょんぼりする父親が憐れに見えて来て、これ以上彼を責める気持ちにはなれなくなった。だが相反して、その教祖の男というのが気になって、結局
* * *
神社に不似合いな作業服の男達が入って来る。壁画の取り外しに伴って建物自体を損傷させないために宮大工も揃っているとのことで、ひとまずは安心である。壁画のあった場所には後日、著名な日本画家がこの神社のもう一つの名物である牡丹の絵を描いてくれるという。
無名の画家の壁画一枚に三億円。工事のための人員。代わりとなる絵の手配など、至れり尽くせりだから、なるほどここまでされては断るのが逆に難しい気もする。
だから母が教祖の男に惚れて云々というのはないのではないかと、少し
しかし何故この絵に執着するのか。確かに美しい龍ではあるが、その価値はというと。美術品の値段が高くなるのはその芸術性もあるが、世界でただ一つの希少性からの投機的な意味合いもあって値段が上がる。この壁画を欲しがる人はいても、三億を出そうという人はいないはず。
父に聞けば、十数年前からたびたび譲って欲しいという申し出を受けてはいたらしい。金額はその時からかなりの高額で、年々値段が上がって行ったようである。「これ以上になると、値を吊り上げるために売る事を渋っているように思われるのも嫌ではあった」と、気弱な父は言う。
工事をぼんやりと見つめていると、着物姿の母が出て来た。
「あれ? 母さん着物だなんて珍しい」
「お客様がいらっしゃるのに、普段着じゃあ失礼でしょう」
「客?」
「その壁画を買い取ってくださった方が、搬出の際はいらっしゃるらしいのよね、それで」
着飾った母の姿を見ると、あながち父の予想は外れていないのではないかと思えて不安になった。いやいや、三億円を払ってくれるお客に対する礼儀だろうと、頭を振って余計な考えを追い出す。
「母さんは、これを売る事に抵抗はなかったのか? もう随分古くからあるものだから愛着だってあるだろうし」
そこまで言ってから母の顔を見、思わずぎょっとしてしまった。作り物の能面のように貼り付けられたような笑顔。弧を描く目と口は三日月のようで、到底心からの笑顔には思えない。
もっと勝気な、ふふんというあざけりが聞こえそうなほど高飛車な笑顔の持ち主だったはず。それでも相当だが、こんな仮面のような不気味さはどうしたことだろう。
やがて壁が切り離され、丁寧な梱包が行われる。その時刻を見越していたかのように鳥居の向こうに高級車が止まり、運転手が扉を開けると和装の男が一人降りて来たのが見えた。
あの人が客かと母の方に向き直ってみれば、彼女は酔ったようなとろりとした表情。
――これが、母なのか?
父が危惧していたような事はなさそうと思った。女の顔をしているわけではない。だが、命すら捧げるのもいとわないような狂気じみた信奉の眼差し。
その視線の先を改めて追ってみれば、男は数歩先の距離まで。
男は美しかった。
二十代の若々しい顔立ちは左右対称の完璧な造形で作り物のようにすら見えてしまう。シミ一つない陶器のような肌、艶やかなさらりとした黒髪は軽く束ねられていて。優し気に微笑む顔に、深淵に潜む熾火が揺れるような光を持った黒い瞳。
そしてどことなく、誰かの面差しに似ているような既視感。
身長はそれほど高くなく、ほっそりとした体は実際は小さいはずなのに、何倍にも膨れ上がるような巨大な圧力を感じる。
気づけば自分の足は恐怖に震え、蛇に睨まれた蛙のごとく足裏は地べたに張り付いたように一ミリと動かす事は出来なかった。
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