第二十話 夜の悪夢と黒い鳥


「タクマ、タクマ」


 肩をゆすられる感覚で、一気に意識が浮上する。

 自分が今どこで何をしていたのかを一瞬忘れてしまったような状態で、ぼんやりと目を開けると、半泣きの少女がほっとした顔をした。


 気づけばゴミ置き場の傍で、尻餅をついた形で座り込んでいた。

 黒い塊の姿はなく、自分も怪我をしている様子はない。何が起こったのかさっぱりわからないが、彼女を安心させるために立ち上がってみる。すごくみっともない所を見せてしまった気がして、まともにヤタの顔を見る事はできなかったが。


 よろける事もなく体に何の変化も感じられない。ふと足元に目をやれば御守りと言って白戸しろとからもらった銀色の鈴が落ちていた。つける時に軽くチロリと鳴ったっきり、振っても音のしない不思議な鈴だったが、紐が切れている。屈んで拾い上げてみると鈴が大きくひしゃげていた。まるで少年の身代わりになったかのように。


「タクマ大丈夫?」

「うん、何がどうなったかわからないのだけど……ヤタは見ていた?」

「ごめんなさい、怖くて目を覆ってしまったの。でも大きな鈴の音がしたよ、リリンって。そしたら黒いやつがいなくなっていて、タクマが座り込んでたの」

「これが守ってくれたのかな……」


 とりあえず切れた紐と壊れた鈴をポケットに入れる。黒い塊の気配は一切なくなっていて、もう問題はなさそうだ。今まで培った自信は一気に折れて萎んでしまったが、何事も無くて良かったととりあえず安堵した。

 よろりと自宅に向かって歩き出すと、ヤタが再び腕を絡める。鳥目での道行が不安というより、今度は拓磨たくまを支えるためのしがみ付き方だった。


* * *


 父がすでに帰宅していたので、ヤタにはベランダの方から入ってもらう事にする。バイトが長く続けられそうという報告をすると、父は「社会経験はいい事だ。精進しなさい」と喜んでくれた。ただの職場ではない感じではあるが、白戸しろとはいろんな事を教えてくれる予感がして来週もすでに楽しみになっている。


 自室に入るとベランダの窓を開けてヤタを迎え入れた。鴉の姿に戻っても可愛らしいと思ってしまう。きょとんと首をかしげる姿が特に好きだなと拓磨たくまはお気楽な事を考えていたが、ヤタの方は心配を強めている様子であった。


 その夜、首をまわして羽毛に顔をうずめて眠るヤタを枕元に置いて、いつものように眠りについた。



 ……好き……いつも何をしてるのかしら?

 今日の出社はいつもより早いんだ、荷物も多いから出張かな。

 はぁ……朝は何を食べてるんだろ。

 買い物袋を提げてる、駅前のスーパー使ってるんだ。何を買ったのかなあ? 少し透けてるけどよく見えないや。

 今日は何か元気がないみたい。慰めてあげたいな。何があったんだろう?

 あのひとは誰だろ。彼女だったり、しないといいなあ。

 休みの日は何して過ごしてるのかしら。知りたいな。

 知りたい。全部。全部見せて欲しい。どうにかして知りたい。見たい、知りたい。


 自分が女性になったかのような感覚だった。カーテンの隙間から、道路の隅から、塀越しに、時には通りすがりを装って。

 スーツ姿のサラリーマンの姿をずっと追い続ける。見ているだけで幸せだったのが、全てを知りたいという欲望と、自分じゃない誰かが彼を知っているという事に対する嫉妬。誰よりも彼のすべてを熟知したいという感情はやがて、妬みや嫉み、疑心に変わり、自分に一切の目線をくれない相手に対しての恨みに変わっていく。それでも相手を知りたいという渇望が、全身を荒野に変えそうな程の乾きに感じられるほど。

 やがて胸を焼くようなどす黒い感情が体中に広がって、拓磨たくまはうなされ、喘いだ。


「タク、大丈夫か?」


 肩をゆすられて、ハッと目を覚ますと父の顔があった。不気味なアレは夢だったのかとほっとすると同時に、鴉の存在を思い出す。慌てて枕元を見たが、そこに鳥の姿はなかった。


「何かコツコツと扉を叩くような物音がして起きてみれば、おまえが随分うなされていたから」

「怖い夢を見ちゃって……」

「そうか、まだ怖いなら父さんのベッドに来るか?」

「大丈夫、ドキドキはしてるけど」


 父が持って来てくれた水を飲み、再び布団に潜り込むと「起こしてもいいから眠れなかったらおいで」と言い残して父は部屋を出て行く。流石に高校生にもなって親と同じ布団で寝るのは抵抗があるが、その言葉が心強かった。さりげなく真っ暗にならないように小さな電灯のスイッチを入れたままにしてくれて、ほっとする。

 体を再度起こしてヤタを小声で呼ぶ。するとベッドの下から黒い鳥がもそもそと抜け出して来た。手を伸ばして抱え上げ、膝の上に抱いて黒い羽毛を撫でた。


「父さんを起こしに行ってくれたんだね、ありがとう」


 どういたしまして、とでも言うかと思ったが、小さくクァと声を出して欠伸をした。再び枕元にヤタを置いて、体温が感じられるほどに顔を寄せて眠りにつく。うつらうつらとしているうちに夜明けを迎えた。


 寝不足のせいだろうか、ひどく体が重い。ヤタが心配そうにのぞき込んで来る。

 何とか体を起こし、トイレに行って台所で水を飲む。随分と喉が渇いているような気がした。そしてやはり体が重くて、ソファーに座るとそのままくたりと体を横たえる。


――なんだかしんどい、変な夢のせいかな……。


 続けて父が起きて来て、ソファーでぐったりしている拓磨たくまを見て驚いて駆け寄って来た。


「タク、具合が悪いのか?」

「ちょっと怠いだけ」

「これは熱があるな、風邪を引いたのか。慣れないバイトで疲れたのかもしれないな。食欲はあるか?」


 首を小さく振るのが精いっぱいだった。


「病院に行くか?」

「そこまでひどい感じじゃないみたい。寝てたら治るかなという感覚。怠いだけで痛い所もないし」

「そうか……今日は父さん、抜けられない会議があって、休むのが難しいから、……そうだ誰かに来てもらうか」

「一人でも大丈夫。薬飲んで大人しくしてるから」


 こんな時だけど、父が心配してくれるのが嬉しいと思ってしまった。父が急に歩み寄って来てくれた理由を知りたいとも思うけど、今は元の親子の関係に戻れる予感が拓磨たくまの心を満たしていた。


* * *


 再びうとうとしていたら、インターフォンが鳴った。父が誰かに様子を見に行くように手配をしたのかもしれないと出てみると、なんと玄関前にいたのは白戸しろとだった。

 慌てて玄関を開ける。


白戸しろとさん、どうしてここに」


 眉間にしわを寄せた男は、今日は普通にスーツ姿でネクタイも結んでいた。無精髭はそのままであったが。


「昨日の帰り、何があった?」


 とりあえず上がってもらったところ、リビングに入るなり問われた。真剣なまなざしで、眉間にしわが寄ったままだ。

 自分の驕りが招いた事で恥ずかしくはあったが、御守りを壊してしまった事を報告しなければならない事もあり、しどろもどろになりながらも経緯を話した。

 ヤタの存在も関係ないとは言い切れなかったので、それを含めすべてを告白する。女の子になれる鴉のことを、男は黙って聞いてくれた。キスの事は流石に言えなかったが……。


 話し終えると無言で肩に手を添えられ、ソファーに座らされる。

 そして普段の白戸しろとからは想像もつかない鋭い眼光で振り返ると、拓磨たくまの部屋から少しだけ顔を出してた鴉が、慌てて頭を引っ込める。

 向き直ると、額に手を当てて少年の前髪を上げた。


「どうしてこんな物がと思っていたが、これはあの鴉の仕業か」


 額の八芒星は赤味は消えたが少し凹んでしまって、斜めから見ると光の加減でわかるような痕になってしまっている。


「急に神粒しんりゅうが見えるようになったというのは、これのせいだろうな。これは鏡の印で、あの鴉は御使いというやつだな。だが……、元から君は……」


 眉間のシワがより深まった気がする。不安気に自分を見つめる少年の視線に気付いたのか、白戸しろとは表情を緩めた。


「まあいい、今はこちらの方が問題だ」

「問題?」

「”念”の籠ったままの神粒しんりゅうを体に取り込んでしまっている。しかもよくない”念”だ。昔なら悪霊に憑りつかれた状態といったところか」

「あ、悪霊……!?」

「元々君は神粒しんりゅうを体に取り込みやすいんだ。これも昔風に言うなら憑かれ易いタイプと言う奴と言っていいだろう。ニュートラルな状態の神粒しんりゅうは特に害はないが、”念”ごととなると元から体の中にある分もそちらに引っ張られてしまう。あの鴉にも吸われたんだろう? 減った分を補充するために、より吸収しやすくなっていたのかもしれないな」


 再び部屋から顔を出していたヤタが、しょんぼりして見えたので、慌てて手招きして呼び寄せる。


「大丈夫だよ、ヤタは悪くないから」


 呼び寄せた鴉が親し気に膝の上に乗ったのを見て、男は額に手を当てて呆れたように溜息をつく。


「名前まで与えてしまっているのか、知らなかったとはいえ」


 何か自分が大それた事をやってしまっているのかと不安が募り、膝上の黒い鳥を無意識に抱きしめた。

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