第十八話 少年の罪


 彼の自宅であろうマンションの高層階に手を引かれて連れて来られると、今度は少し厳しめの口調で問われた。


「家の電話番号は?」


 部屋に入るなり大きなバスタオルが頭上に被せられ、濡れたままソファーに座らされても、なお口をつぐみ続ける拓磨たくまに、だからといって男は声を荒げたりはしなかった。

 少年の前で膝をついて目線を合わせると、そっと頬に触れる。すでに涙は止まっていたが温かい手の感触に、再び涙が目尻に盛り上がる。


「……あのな、親御さんに連絡させてもらえないと、俺が逮捕される案件なんだわ」


 そう言われて、はっとした。自分は今、他人に迷惑をかけているのだ。蚊の鳴くようなか細い声で絞り出すように父の携帯の番号を伝えると、くしゃりと髪を撫でられる。

 男は微笑んで立ち上がると電話の子機を手に取り、聞いたばかりの番号を軽やかに押しながら隣の部屋に行ってしまう。どんな話をしているのか、自分の事を何と伝えるのか考えると、不安で怖くもなって来た。父は心配しているだろうか、叱られるだろうか……父親らしく怒ってくれるだろうかとも。


 電話を終えた様子で子機を元の場所に戻すと、そのままするりとキッチンに向かい、しばらく何かをしている物音の後にスープマグをもって戻って来る。目の前に差し出されたので反射的に受け取ると、カップの熱さがじんわりと手に伝わってきて、また泣きそうになる。


「子供が飲むようなものはうちになくてな。レトルトのスープだが」


 優し気に目を細め、スープマグを抱えたままの少年を見て、再び髪をくしゃりと撫でる。


「冷めるぞ?」


 慌ててスプーンを手に取って口にしたコーンスープは甘く、胃の中でぽかぽかと体を温めてくれる。

 少年が落ち着いたころを見計らい、何故こんな事をしたのかその理由を問われると、不思議とすらすら口から言葉が転び出た。父には言えなかった数々の思いを全部。


 何もかもいっぱいいっぱいだったのだ。父が父ではないかもしれない不安と、母を失った寂しさ。不慣れな家事と学業の両立、悩ましい進路。泣きながら全てを吐露し尽くしたあと、疲れ切った拓磨たくまは気を失うように眠ってしまった。


 次に目覚めた時は自宅のベッドの上。

 目覚めた自分を父は𠮟りつける事はなく、哀し気な目で息子を見るようになり、親子の距離はより遠のいていた。


* * *


 ずっと気になっていた、助けてくれた人。迷惑をかけた詫びもお礼も何もできないまま月日が過ぎた。


「たっくんはあの時と全然変わらなくて、すぐにわかったよ」


 拓磨たくまは中学の頃から身長もほとんど変わっておらず、幼い顔立ちのまま今に至る。しかし白戸しろとはあの日とは随分と違って見えた。気が利く部分と話しやすさはそのままだが、あの時の彼はピリピリした空気をまとっていたし、無精髭とは縁遠く見えた。きちんとした身なりで、正装といってもいい感じの。


「あの時……何か大切な用事があったのでは」


 女性と一緒にいて、この後約束があるようだった。恐らく拓磨たくまが眠った後もその用事をこなしに行く事なく、少年の傍にいてくれたのだろう。


「彼女のご両親に挨拶を……という日ではあったかな」

「えっ! そういえばあの時ご一緒だった女性は」


 白戸しろとの左手に指輪はなく、今の風体を見た感じ結婚しているようには到底思えない。

 男はしばし無言でパンでシチューの残りをぬぐい取り、口に放り込んで咀嚼した後、少し遠い目をした。


「彼女とはあれっきりだな」

「そんな……僕のせいで」

「ずぶ濡れで車道に飛び出して来た訳あり感のある子供をそのまま放置しろという女と、結婚しなくて済んで良かったと思うよ。ある意味、君は救世主だったかもしれない。あの日をきっかけに、自分を縛っていた鎖が全部解けた気がするしな。目が覚めたというか」


 食べ終えた食器を重ねトレイにまとめ、勝手口の前に置く。


「食器は下げに来てくれるから、一人で食べる時もこうしてくれ」

「わかりました」


 拓磨たくまの気は重い。白戸しろとと結婚予定だったその彼女は、いわゆる彼の上司にあたる人の娘で、結婚を機に出世が約束されていたようだ。それが破談になった事をきっかけに職を辞して今の仕事に至る事になったという。本人はからりと「今の生活の方が気に入っている」と笑ってくれたが。

 役に立って少しでも過去の贖罪をしなければ気が済まない。自分の軽はずみな行動が、ひとりの男性の人生を変えてしまった事は少年には重い現実である。

 落ち込む拓磨たくまの髪を、あの日のように白戸しろとはくしゃりと通りすがりに撫でて行く。その様子は「気にするな」と暗に伝えてくれている事がわかったが。


 文机の部屋に戻ると、再び女物の打掛を羽織って入力の続きをする。役に立たねばという思いから自ずと気合が入って肩に力が入るが、肩肘を張ってはいけないといさめるように背中を撫でられた気がして、後ろを振り返るが誰もいない。

 背後にあるといえば、衣紋掛えもんかけのみであとは壁。

 それにしてもこの打掛、刺繍が丹念にされている割には軽いのが不思議だった。午前中に羽織った時より軽くなったような……?

 気のせいかなと思いつつ、引き続き入力作業を続けているとページをめくる必要が出たが、ノートパソコンのモニター部分が邪魔で姿勢を変えないといけない。ちょっと面倒だな……と思ったところで後ろから白い手が伸びて来て、ぺらりとめくってくれた。


「あ、ありがとうございま……」


 振り返ると誰もいない。そういえば、白戸しろと以外の人物がここにいた気配はないのだった。


――ゆ、幽霊……!?


 思わず叫びそうになって、両手で口を抑え込む。


――違う、幽霊は神粒しんりゅうで構成されているんだ。幽霊だと思ったら本当に幽霊になっちゃう!


 手を口元から放すと、数度深呼吸をした。

 そして意を決して、再び後ろを見る。

 今度こそ、悲鳴が出た。


* * *


 げんなりしている拓磨たくまの前で、白戸しろとが腹を抱えて笑い転げている。彼の目の端からは涙がこぼれんばかりで、まさに爆笑だ。「そんなに笑わなくても」と、少しふてくされて目線を背後の衣紋掛けにむければ、打掛の袖から白い腕が伸びて、ダブルピースをしいてる陽気な光景にぶち当たり、溜息をついた。


「すまんすまん、あまりにも可愛い悲鳴だったから」


 思い出せば赤面して顔を覆うしかないが、拓磨たくまは絹を裂くような乙女な悲鳴を上げてしまったのだ。

 自分の羽織ってる打掛から手が生えてたら、普段出さないような声の悲鳴が出て当然だとも思う。


「ここまではっきり姿が見えるぐらい、強固な神粒しんりゅうの塊になるとは想定外だった」

「付喪神ってこんな感じなんですか?」

「姿が見える程のは稀だな。声や気配程度のものが多い感じだろうか。この打掛も、使われたいという念を抱えている程度だったのだが、こんな陽気な付喪神は俺も初めてだ」


 無精髭の散った顎に手をやって考える素振りを見せながら、打掛から伸びる腕に右手を差し出すと、少しの躊躇をしつつも、打掛も右手を差し出し、なぜか硬い握手を交わし合っている。シュールな光景だ。


「たっくんは才能があるかもしれないな。先日のカップにしても、付喪神の反応が随分と良い気がする」

「何の才能ですか、打掛から手を生やす事ですか」


 散々笑われて、拗ねた子供の態度になっている自覚はあったが、もうこの話題は終わりにしたいと思いつつの発言に、白戸しろとは表情を引き締める。


「陰陽師の式神も、形代かたしろに一時的に付喪神のような存在を宿す行為だからな」

「陰陽師? 白戸しろとさんはそういうものにも詳しいのですか」

「まあね、これでも本職だから」

 

 肩をすくめながら笑うが「見せた方が早いか」と、胸ポケットから鳥の形をした和紙を取り出すと、それを掲げ集中して印を切る。周囲の空気が渦巻いて動くような、空気の流れとは違う肌感覚の気配が拓磨たくまにも感じられた。


 紙の鳥は小さなスズメの姿に変わり、白戸しろとの指から拓磨たくまの肩まで飛ぶと、少年の耳たぶをツンと啄んでピチュっと一声鳴いてから、クルリと白い紙片に戻ってひらりと少年の足元に落ちた。

 拾い上げたそれは切られた和紙でしかないが、先程まで本物のスズメのようであった。


「俺の前職は、中務省なかつかさしょう陰陽寮所属の陰陽師。まさか陰陽師の自分が公務員になるとは思ってもいなかったが」


 不意に出た中務省なかつかさしょうという単語に、拓磨たくまは反射的に眉を寄せる。


――加賀見かがみさんを攫おうとしていた、あの国の機関に白戸しろとさんが?


 想定と違う反応をする少年に気付き、朗らかな表情を見せていた白戸しろとの表情が改めて引き締まる。


「あいつら、まさか何かやらかしているのか?」


 拓磨たくまはクラスメイトがその機関につきまとわれている事を話してもいいものか迷ったが、彼は自分の知る中で相談できる唯一の大人である。意を決し、これまでの出来事を話す事になった。

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