第四章

第十六話 練習


 隣町との境目に、古くからこの地にある神社が佇む。昨今の宅地開発の中で自然を多く残すこの場所は、周辺住民の憩いの場でもあるし町の数少ない観光名所の一つでもある。

 見どころは社殿の天井画。干ばつでこの地域が存亡の危機に陥った時、巫女の祈りこたえて龍神が現れた事に由来する伝承の図でもあった。


 極彩色の詳細な図柄は無名の絵師の手によるものだとは到底思えないが、作者は不詳。拓磨は今年の絵画コンクールで、この龍神図をモチーフに一枚の油絵を仕上げて賞をもらった。天井画を模写したものではなく、初めてそれを見た時に感じた美しさの感動を龍の絵に重ねたもので、この神社の天井画が着想の元になっているというのは、この神社で生まれ育った古賀こがだからこそ気付いたのかもしれない。


 午後、柔らかな陽光を感じつつ軽く参拝をし神様に挨拶をする。

 この閉ざされた本殿の奥で、神粒しんりゅうが集まって形成された神様が人々の願いを聞いているのだろうかと思うと、不思議な気がした。神様と言う存在はから、実際にという意識に変わっている自分に驚く。人の願いで集まって、願いを叶えるためにここに在るのだ。


「おう、来たなっ」


 よっと軽い感じで右手を挙げる古賀こがは、浅黄色の袴姿で神職然としていた。時折剣道部の活動で見かける黒の袴とは違うが、やはり普段から着なれている感じがする。そして窮屈な制服と違って、和装はリラックスできるようだった。


「先輩、今日でも大丈夫ですか?」

「ああ。土曜の仕事はだいたい午前におわるから。先に壁画を見ておくか?」

「ぜひ!」


 関係者以外立ち入り禁止と書かれた立て札の横を抜け、古い扉を開けて中に消えて行く浅黄色の袴を追いかけて、拓磨たくまも後に続く。

 暗い廊下を進むと、大きな襖の前で古賀こがが立ち止まり、照明のスイッチを入れる。今時では珍しく、何度か明滅してから蛍光灯の光が安定する。


 明るさに目が慣れるのを待たず、古賀こがは躊躇なく襖を引いた。


 襖の奥は部屋ではなく、板張りの壁面に大きな龍の絵。墨だけで描かれているそれは筆致に迫力がありつつも、鱗の細部に至るまで細やかに描写され優美でもあり、墨一色なのに銀色に輝いているようにさえ見える。

 何より、この龍自体が生物の完成形と言っても良い程の美しさ。

 実際にこのような生物がいたら、あまりの美しさに呼吸すら忘れるであろう絶対的な美。地球上の生き物の美しい所をさらに洗練して編み上げたような感じ。


 口を開けて見入る拓磨たくまを見て、古賀こがは満足そうに微笑む。


「天井画も見事だが、これも中々のものだろう?」

「これが非公開だなんて」

「昔は公開してたらしいんだが、売ってくれという好事家が次々に現れたりして。なんとかいう新興宗教団体……”叢雲むらくも光輝こうき”とか言ったかな? それに至っては、我々の御神体だから返却しろと言って来たらしいし、とにかくこれを巡っては面倒事が多かったみたいだな」


 ”叢雲むらくも光輝こうき”という宗教団体は、最近になって名前を聞く気がする。それほど古い宗教ではないが竜神をご神体としていると聞くから、神性を感じるこの絵は魅力なのかもしれない。


「素敵なものを見せてくださってありがとうございます」

「これの良さ、大磯おおいそならわかると思っていたよ」


 自慢の逸品に、予想通りの反応をもらえた事に満足げに頷くと、襖を閉めて電気を消す。再び暗闇に包まれた廊下では、床の僅かな艶の反射がなければ上下感覚すら失いそうだ。だがそのおかげで瞼裏に焼き付いた美が損なわれずに維持され、残像が消えるまで何度も記憶に刻みつけた。


 前を行く古賀こがの後をついていくと、二十畳ほどはある畳の広間のようなところに出た。


「ここでちょっと待っていてくれ」


 頷きで答えると、古賀こがは奥の部屋に何かを取りに行った。

 周囲を見渡すが何の変哲もない和室で、手持無沙汰になった拓磨たくまは少し開いた外に繋がる障子に寄って、中庭らしき場所を覗き見、慌てて頭を引っ込める。

 井戸がちらりと見えたのだが、それにとぐろを巻く蛇のように、黒くどろりとしたものが……。ただの神粒しんりゅうの集合体かもしれないが、一瞥した瞬間に寒気がした。


「お、見えたのか?」


 古賀は燭台とマッチを手に戻って来て、薄く開いていた障子を閉めて庭が見えないようにした。


「どんな場所にも、人が集まるところにはあいいう淀んだ意識の神粒しんりゅうが溜まるんだ。学校でも折を見ては小まめに祓ってはいるんだが、気づいたらあんな感じだ。俺にはもう見慣れたいつもの光景だが、慣れるまでは自分の恐怖感もあれを増長させてしまうから、大磯おおいそはまだ見ない方がいい」


 気遣いをしつつ闊達かったつな様子で明るく笑う姿は、なんとも頼もしい。こういう男気のある態度にどうしても憧れてしまう。

 そんな事を考えている間に、古賀こがは燭台のろうそくに火を灯していた。


「それを使うんですか?」

「ああ。イメージが掴みやすいかなと思ってな。この炎が群れた神粒しんりゅうだと思って見るといい」


 ろうそくの炎は、古賀こがの呼吸に応えるように揺らめく。そのまま床に立てると、拓磨たくまの手を引いて畳二枚分程離れた。


「手本を見せる」


 そういうと、先程とは打って変わった真剣なまなざしで燭台に向かって仁王立ちになると、場の空気が一気に引き締まる。何度か深く深呼吸をしたのちの気合一閃、銃声と聞き間違うほどの大きな音を立てて柏手を打つ。


「すごい、消えた! ……でも何で……?」


 距離的には柏手の起こした風とも、古賀こがが息を吹きかけたようにも思えなかった。


神粒しんりゅうは濃度が低くて見えなくても必ず何処にでもあるから、”火を消せ”という強い意思で一気に押すイメージを持つと、風が起こるのと同じような効果が得られるんだ。理論は知らん」

「なるほど……」

「力を入れなくても押せる燭台に届く棒があると思えばいい。押して炎に当てれば火は消える。とにかく鋭い点に凝縮するほどいい感じかな。これが出来るようになると、広い範囲の靄に対しても面で押して散らす事が出来るようになる。とりあえず実際にやってみようか。柏手は自分への集中の合図になるから、試しに打ってみるか?」


 古賀こがが場所を譲って来たので、彼が立っていた位置に立ってみる。燭台まではそれなりの距離。古賀こがが蝋燭に火を灯す。


「火を消す……鋭い点……押し出すように」


 ぶつぶつと習った事をおさらいし、火を消す事に集中して柏手を打ってみる。しかし、炎は揺らぎもしなかった。


「一度わかるまでが長いんだ。自転車の乗り方と同じだな。俺はこのやり方で出来るようになったが、もしかしたら大磯おおいそは別のイメージの方がやりやすいかもしれないし、色々試してみたらいいと思う」


 その後、意識の仕方を変えたり柏手を辞めて足を踏み鳴らす、声を出す等を試してみたが、そうこうしているうちにろうそくは尽きてきた。


「時間を取らせてしまってすみません……」


 気落ちして俯きがちにそう言えば、スポーツマンらしい爽やかさで朗らかに古賀こがは笑う。


「すまん、実は正直ほっとしてる。大磯おおいそは器用そうだから、もしかして一発で成功したりしちゃうかもしれないって、冷や冷やしてたんだ。俺も数年かけて身に着けたからなあ、一発で成功されたら、立つ瀬がないというか。焦らずにやっていくといいさ」

「数年……!」


 そう簡単にはいかない事は残念だが、白戸しろとにもらった御守りでもなんとかしのげているし、とりあえずは練習方法を覚える事が出来ただけでも良しとしようと考える。


 ふと一つの事が閃いた。周辺に満ちているという神粒しんりゅうの存在を信じ切れないという所に原因があるのでは、と。見えないとどうしてもあるようには思えず、意識が空振りしている感じでとりとめない。せめて靄のように見える程度に集まっていれば、そこに、として使えそうな気がするのに。


――僕の中にたくさん溜まっていると、ヤタが言ってたっけ。


 彼女に吸い出された時の感覚を覚えている。確かに自分の中にある程度の量が集まっているのかもと。

 

「ろうそく的にはラスト一回だな」


 古賀こがの言葉に頷くと、再度集中する。周囲の見えざるものではなく、自分の中にある力を意識する。ヤタに吸い出される時の流れを心の中で再現し、あの時は唇だったが右手の人差し指に流れる感じをイメージし、親指を立て、人差し指を炎に向ける。ゲームでいつも使い慣れているハンドガンを想定し炎を的に見立て、精神を集中して心の中で引き金を引く。


 指先から何かが放たれた、という感覚。

 直後、ろうそくの炎はフッと掻き消えた。


 古賀こがは一瞬何が起こったのか理解できず、しばしポカンと細い煙をあげる燭台に見入る。


「……ろうそくが、終わったのか?」


 拓磨たくまが成功したのか、ろうそくが尽きたのか微妙なタイミングではあったが、燭台に歩みよって芯がまだ残っているのを確認した古賀こがは、呆れと感嘆の溜息がまじりあったような息を吐きながら、拓磨たくまを見る。

 少年も自分で自分が信じられないといった様子で、ゆっくりと右腕を下ろすが、茫然と開いた目はろうそくから視線を外さない。


「一日で成功とは恐れ入った……」


 頭をかきながら、己の数年間を振り返るしかない古賀こがであった。


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