第八話 神職
一歩下がり、更にもう一歩ふらりとよろけるように下がった
ぼすんっ
勢い良く、弾力のある何かに思い切り額をぶつけて弾かれた。明らかに壁ではない。
「ご、ごめんなさい!」
顔は見えなかった。
それは逆光のせいだけではなく、身長差のせいで。
百六十センチに届かない
「扉は勢いをつけて閉めるものじゃないぞ一年生」
「すみません、ちょっと驚いてしまって……」
一学年上の剣道部の人、という事で見覚えがあった。確か
「なんだ? ゴキブリでも出たのか」
「あっ」
しばしキョロキョロと左右を見渡すと、一歩中に入ったと同時にパァン! と大きな音で手を叩いた。パーティークラッカーもかくやというあまりに大きな音に驚いて、
長身の先輩は再び左右を見渡すと、すっと振り返る。
「それ戻すんだろう?」
「あ、はい」
先ほどの靄の事を思うと怖くなり、ごくりと生唾を飲み下すが、一人じゃないし、こんな屈強な人が傍にいるなら大丈夫なのではないかという気もして、彼と入れ違うように恐々としながらも資料室に足を踏み入れる。
すると先ほど感じた気配は完全に喪失しており、少し埃っぽい匂いと木の香りがする普通の空間だった。端の薄暗い部分も不思議と怖さを感じなくなっていた。それでも手早く、資料を所定の位置に戻す。
「先輩、何かすみません。特に何もいなかったみたいです」
「戸を閉めたあの時は、何か見えていた?」
「え、あの、その」
思わずもじもじと目を伏せてしまう。何と説明したらいいものか。アンティークショップの
露骨な幽霊の形状を最初からしていれば、オバケがいたと伝えられるかもだが、煙るような靄である。それの何が怖いのかという話だし、埃に光が当たって見える風景ともかなり似ているのだ。さっきのだって、それを見間違えた可能性だってある。
「もしかして
「いえ、僕、その……霊感なんかはなくて、幽霊とかは全然」
「靄みたいなものじゃなかったか?」
はっと顔をあげてまじまじと
「俺もわかるんだ、あれの存在」
「!?」
「神社の息子っていうのがやっぱ血筋なのかなあ。小さいころから見えるんだよね、変な靄が。君も子供の頃から?」
「いえ、それが急に」
長身を折り曲げて顎に手を添えた男は、そのまま
「あれが何かわかってしまえば、別に怖い物でもなんでもないんだがな」
「正体がわかるんですか?」
「ああ。
「
「そういや昨日テレビでやってたって聞いたな、それを見たのかい」
「いいえ、僕は見てなくて。クラスメイトが噂していて名前だけ今日初めて聞いたという感じなんです。一体何ですかそれって」
ふぅむ、と考える素振りを見せるが、どうにも一言で表現しきれるものではないらしく、彼も言葉に詰まってしまった様子だ。
「なんて言えばいいのか、例えるものがなくて説明が難しいな……。あ、俺は二年の
「一年の
「ん? あれは
「それであの靄が無くせるんですか!?」
古賀はふふっと楽し気に微笑んだ。鋭い目つきで三白眼気味ではあるが不思議と怖くないのは、愛嬌ある表情の豊かさゆえかもしれない。それに対する
「
「意思の指向性?」
「電気や磁力のように、目には見えないが物質に影響を与えるエネルギーがあるだろう。生き物の発する精神の力もある種のエネルギーがあるみたいで、
超常現象の類と思っていた拓磨にとって、科学的にも思えるこの解説は驚きの連続で、口を開けたままポカンと聞き入る。
「それがあの柏手とどういう関係が」
「あの靄を散らせようと思うなら、”散れ”と指示する思考が必要なんだ。それもかなり具体的なイメージを持って迷いなく。自分の場合は柏手を打つ時に瞬間的に強くそれを思考している感じだな~。自分に対する合図というか」
「なるほど……それは僕にもできたりするでしょうか」
「意思に指向性を持たせるのには多少訓練は必要だけど、いけるんじゃないのかなあ」
雨の日の恐怖の体験を思い起こせば、確かにあれは自分が想像し、思い描いたように形になって追いかけて来た気がする。
「あっ」
突如、
「すまんすまん、思い出した事があって」
「あ、はい」
「思い出した、
「そうです、隣町との境にある神社の」
「あの神社がオレんちなんだ」
「えっ、そうなんですか!」
「そうだなあ、土曜午後ならいつでもいいから来てみないか? ああいうのを描くって事は美術関連に興味があるんだろう」
「実はそうなんです」
「通常の参拝者が入れない所にも、見事な壁画があるんだ。見せてやろうか? その時についでに、俺がやった訓練の仕方を教えるよ。校内ではやりにくいから」
「いいんですか?」
「ああ。あの靄が見える貴重な仲間だしな」
爽やかなスポーツマンといった様子に、白い歯をきらりとしてサムズアップする姿が、まるっきりマンガのキャラみたいで思わず
* * *
美術は好きだ。
自然の作った造形そのものも美しいと思うけど、人の心が咀嚼して再構築された美というものにもとても興味が惹かれる。
絵を描く自分を、母が嬉しそうに目を細め見守ってくれていたあの頃の事を思い出すと幸せな気分にもなれて、それで描くのを止められないというのもあるかもしれない。
父は自分と同じ生物学者の道を志して欲しそうだった。
中学の時には進路で揉めてしまった事がある。
喉元まで「本当のお父さんじゃないくせに」と出かかって、必死で呑み込んだあの日。
専門学校に行くか、進学校に行くかの二択を突き付けられて選びきれなかった。選びきれなくて、いつしか家庭内で口癖になってしまっていた「どっちでもいい」と言うのが精いっぱい。
そう、どっちだって良かったのだ。どちらに進んでも、完全にもう片方を諦める事にはつながらない。
勉強をしながら絵は描けるし、絵を描きながらでも勉強はできる。前向きな「どっちでもいい」という言葉のはずだった。
しかし父は責めるように大きく息をつき、それが訳もわからず哀しく悔しくて雨の中、家出をしてしまった。保護してくれた人に諭され帰宅した後、父は一切進路の話題に触れる事はなく。
気づけばこの学校を受験する事になっていた。
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