第二話 額の受難
保健室で額に湿布を貼られてから教室に戻ったが、授業は終わってしまったようだ。自席に座ると、隣の席の男子がノートを差し出して来る。
「さっきの授業のノート、写しておいたら? 災難だったな保健委員」
「ありがとう。でも別に災難だなんて」
「俺としては、あんな発言で授業を止められて十分迷惑だったけどね」
苦笑しながら肩をすくめ、彼は大げさに息をつく。結局彼女には聞けなかったから、彼に聞いてみる事にした。
「あの時ちょっと違う事を考えていて聞いていなかったのだけど、彼女、何を言ったの?」
丁寧に取られたノートには、大陸からプレートの移動で日本列島が動いて行く様子がイラストを添えて記載されていた。疑問を口にすると、再び溜息が聞こえた。
「日本が大陸から離れたのは、神の国として大陸から切り離す必要があったから、だぜ?」
「あ、ああ……」
実際にそういう話をしている姿を見た事はないが、それは周囲が彼女と必要以上の会話をしないから、結果的に見なかったというだけのようだ。
「でも、一見とんでもない理論でも、視点が違うという見識で利用すれば新しい発見があったりもするから」
「それ親父さんのアドバイス? 話題の
「あ、うん。勉強をしすぎると学んだ事以外を受け入れられなくなる、それが新しい発見のための瞳を濁らせる、知識の檻に囚われるな、とはよく言われてたかな」
「常に柔軟な思考でいろっていうのは、わかるけど。でもああいう理論をも認めると、フィールドワークや研究を積み重ねて来た先人を踏みにじるようで、俺は好きになれないんだよな」
「それは僕も思うよ、ノートありがとう」
「お、早いな。どういたしまして」
クラスメイトの会話に、父の名が出たのは気恥ずかしいが素直に誇らしい。
* * *
額に湿布を貼って帰宅した
「ちょっとぶつけただけ。ただの打ち身で全然平気なんだ。保健室の先生が一応、という事で貼ってくれただけだから」
「そうか」
ほっと息を吐いて安堵の言葉を口にした父は、きちんと親の顔をしているように見えて、
いつもの父であると思いつつ、少し違和感。在宅時の父は普段もっとラフな服装でいるのだが、今日はまだスーツ姿で、少し癖のある髪もしっかりと上げてセットされている。眼鏡も自宅用ではなく外出用だ。目線をリビングにやれば大きなスーツケースが。
その視線に気付いた
「すまない
「もしかして今夜から?」
「そうなんだ、最終の便で。以前発表した論文に関する事で、向こうですごい発見があったらしく、最高機密のデータはネットで送れないので直接見て欲しいと」
「そうなんだ、すごい」
「……留守、一人で大丈夫か?」
食事の準備や基本的な家事は、ずっと
「もう高校生だし、一人でも」
「逞しくなったな。今朝した約束は、帰って来てからになるが」
「うん」
「毎晩メールをしてくれ。電話はいつかけて来てもいい。大家の
二十世帯が入る三階建てのマンション大家の
そんな風に出発が賑やかだった事もあり、部屋に一人残されたシンとした静かさに孤独感が募る。会話はせずとも父の気配がいつもあって、どんなに忙しくても自分のために帰宅してくれていた事を今更ながら思い知る。
「ギクシャクさせてたの、やっぱり僕の方だったんだな」
久々に父の愛情に触れた気がして胸が温かくなるのを感じ、母の遺品整理をきっかけにして、ちゃんとした関係に戻りたいと改めて思った。
* * *
恥ずかしい事に心の準備がなかった初めての一人の夜は心細く、毎晩遊んでいるゲームもやらずに父のベッドを借りて寝てしまった。普段は心霊現象の類など気にもしないのに、静かな家に一人でいると、時折うなる冷蔵庫の音や時計の音が気になって仕方ないのだ。
それでも朝のルーチンは普段通り。きちんと朝食を食べて曜日を確認し、まとめたゴミを持ってマンションのゴミ置き場に向かうと、大家の真田と一階の主婦の一人が立ち話をしていた。
「おはようございます」
「あっ
「ええ、でも頼られているという事なので」
二人の脇を抜けてゴミを出し、「行ってきます」と言ったところで、真田が何かを思い出したように手をパンと叩いた。
「そうそう! 最近この付近のゴミ置き場が荒らされているのよ。うちはマンション内に置き場があるから大丈夫なんだけど」
「結構ひどいわよ、一丁目の角とか」
「時間を守らずに出している人が?」
「それがねえ、野良猫だか鴉らしいのよ。黒い生き物を見たっていう人がいるから。こういうのは地域の景観にも関わる事でしょう、
「あ、はい」
その後もお喋りに興じる二人を尻目に、いつものルートで学校に向かう。件の一丁目の角に差し掛かった時、散乱するゴミに足を止めた。
「わ、ほんとひどいな」
生ごみを探したのか、袋は引き裂かれまき散らされている。この辺りはネットをかけるだけなので、少しでもはみ出してしまうと狙われるのかもしれない。流石に片付ける道具がないため通り過ぎるしかないが、視線を感じて顔を上げると塀の上に大きな鴉が一羽。
あまり見かけない大きさだったので、驚いて目を見開く。普通の鴉より二回りほど大きい気がする。
この鴉が犯人なのかわからなかったが、一応追い払っておいた方が良いのだろうと考える。だけど石を投げるような方法は、流石にでき兼ねた。
鴉は賢くて人の言葉がわかるという。話しかける人がいるゴミ置き場は荒らさないと聞いた事もあったので、
「こういうところのゴミは荒らしたらダメだからね。他の人が来ちゃう前に逃げた方がいいよ」
鴉はコテンと思いのほか可愛らしく首を傾げ、続けて体を沈め翼を広げて飛ぶ姿勢を取る。
――あ、通じた?
と思った瞬間、鴉はなんと少年に向かって飛びかかって来たのである。
「えっ、わっ」
手で顔を庇う間もなくカツンと強く額を突かれた上に、想像以上に大きな羽音に驚いて数歩後ろによろめいてしまい、まき散らされた生ごみを踏む。
「ああっ」
原因を作って飛び去った鴉を憎々し気に見上げるしかなく、しばしその場でゴミを踏んだまま立ち尽くしてしまった。
「もうっ、誰かにこっぴどく追い払われたらいいんだ」
荒らされたゴミ置き場に再び目を向けて、毒ついてみたもののむなしい。そしてふと、先程は気づかなかった違和感が生じる。ゴミの山の中に何かいるような、そんな気配……。
「なんだろ……まぁいいか」
足についた生ごみは歩く過程では取れず、学校について即トイレで靴裏を洗う羽目になり、ついでに洗面所の鏡で突かれた額を見てみれば、上に向かう三角と下に向かう三角。ひし形のような鴉の嘴によるキスマークがくっきりと残っていた。
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