ひもす鳥使いと明鏡の共鳴
MACK
第一部
第一章
第一話 加賀見という女生徒
思い出はいつも、白く輝く光の中。
真っ白な世界から伸びて来る母の白い手は、自分の髪と心を静かに優しくかき乱す。
「また金賞? すごいわ、才能があるのね」
続けての「綺麗なものは好き?」の問いに大きく頷けば、満面の微笑みを浮かべ、ぎゅっと抱きしめてくれる暖かい腕。大切にされている実感が心を満たす。
だが。
綺麗で好きな物の一つなのに、鏡のように無機質に景色を映し込む彼女の瞳は、自分を見てはいないのではないかという
それでもかつてあった、温かな思い出。
* * *
前髪が太い黒縁の眼鏡の上半分を隠すように伸びて来ている事に
普段から前髪だけは自分で切っていて、わざと少し長めにするように意識しているが、そのためにすぐに邪魔になる。「帰ったら切らなきゃいけないな」と考えると同時に、帰宅が憂鬱で胸がきゅっと締め付けられる気がした。
授業でソフトボールをしているクラスがあるようで、校庭からは
本来なら意識を向けるべき教室内の黒板をカツカツと叩くチョークの音も、熱が入る地学教師の声も、今日の少年の耳をどんどん素通りしていく。
小柄な体格にバランスよく据えられた小さめの顔。目の大きさは人並みにあるから、対比でくりくりと大きく見えるものの眼鏡のおかげで目立ちはしない。視線が何処ともなく
どうしても授業に集中する事が出来なくて、誰にも聞こえないようにフッと小さくため息をついて改めて窓の外を見た。
眼鏡が外の景色を映しても、脳裏に浮かぶのは今朝の玄関先での風景。靴を履く自分の背後から静かな声がかかる。振り返れば父がいて、穏やかな口調だった。
「今夜は二人で母さんの遺品を整理しよう」
父の声をまともに聞いたのは久々だったが、その内容は気の重い作業へのお誘い。
母が亡くなって五年。
父とギクシャクしはじめたのは、明らかに母の死がきっかけだった。
自分にとっての反抗期がそれだったのかは良くわからないけど、父との会話が気まずくなり、話しかけられても頷くか首を振る程度の返事をするにとどまってしまい。いつしか朝の挨拶も、寝る時の声掛けもお互いしなくなって。
このままじゃいけないと思いつつも、二人きりの空間が気づまりで、出来る限り同じ場所にいないよう、避けて暮らして来た。
時にはいたたまれなくて、土砂降りの中に傘も持たずに飛び出すような家出をしてしまった事さえある。
そんな微妙な間柄になってしまった父と、遺品の整理。
気まずい空気が容易に想像出来てしまうから、帰宅がとてつもなく億劫になっていた。
もう一度の溜息をつきかけたとき、ざわりと教室の空気が揺れて、ふと意識が現実に戻る。
教室の中に目線を戻してみれば、くすくすと忍び笑う女生徒や顔を見合わせて苦笑いをする男子生徒、教師は深く息をつきながら教科書を教卓の上に伏せて置き、左手で眉間を何度か揉んでいた。
何事かと彷徨う
悔しそうに桜色の唇を真一文字に引き結び、長い睫毛に縁どられた上がり目は真っすぐに挑みかかるように前を見据えていたが、机に置かれた両手は震えて見えた。
クラスで一番、ともすれば校内で彼女に勝る美少女はいないかもしれない。和服が似合いそうなストレートの黒髪は腰まであって、右側だけを軽く編み込んであった。透き通るような白い肌とはこういうものなのかという見本のようで、少し明るめの茶色の瞳は祖母がイギリス人だったからだとか。とにかくビジュアル的に目立つ子で、それだけに気おくれして直接言葉を交わした事はなく、噂や他のクラスメイトの言葉の端々から彼女がどういう人物であるかは聞き及んではいる程度。
「……体調がすぐれないので、保健室に行かせてもらいます」
彼女は絞り出すような声で、なんとかそれを言い切ると走り出したい衝動を必死で抑えるような足早で教室を出て行ってしまった。
「保健委員!」
「は、はい」
突然の教師の声に
「
「わ、わかりました」
一体何が起こってそうなったのかわからないが、彼女の様子は心配を生じさせるのには十分だったから、少年は少女の後を追いかける。教室を出た後、走って行ったのではないかと思った彼女だが、程なくして力なく渡り廊下を行く後ろ姿を見つける事が出来た。
「
名を呼ぶと、彼女はゆっくり振り返る。目が真っ赤で、涙こそ見えないものの泣いているのは明らかだ。
「大丈夫?」
「いったい何の用?」
「保健室まで付き添うよ」
「……ああ、保健委員ね……」
彼女は目に見えて気落ちした。単に保健委員が来ただけと知り、明らかにがっかりとした様子で。
「ごめん僕、授業中ぼーっとしてて、何があったのかわからないのだけど、
「心配、してくれた?」
「うん」
「わたし、自分が間違ってるとは思ってないの。そのうち皆、誰が正しかったのかを知って悔しがるといいわ」
「え? それはどういう……」
「保健室ぐらい一人で行けるから」
「でも」
「一人にしてって言ってるの!」
ツンとした仕草で語調きつくそう言われてしまうと、無理について行く事も彼女を傷つけてしまいそうで
その時、校庭からワッとひと際大きな悲鳴混じりの歓声が上がる。
反射的に
――あ、ソフトボール。
放物線を描き、真っすぐに渡り廊下の窓に向け、今まさに彼女がいるその場所に。
――だめ、そんな事。
――割れてはいけない。
スローモーションのように見える風景の中で、
バシンッ
その音が合図だったように、コマ送りの風景は日常の速度を取り戻す。
「……?」
しゃがみ込んでいた少女は恐る恐る頭を上げた。
確かにボールは、窓ガラスにぶつかるコースに見えた。
だがガラスは無事だった。音からして窓枠に当たったのかもしれない。
しばし立ち尽くしていた
「大丈夫?」
「え、あ、うん」
先程の態度を思い出したのか、気まずげに茶色めいた瞳をそらしながら彼女は立ち上がろうとし、よろめいて……
ごちんっ
もし彼の身長がそれなりにあれば、
お互いおでこを両手で抑えてうずくまっていたが、どちらともなく肩が揺れて、こらえきれず笑い声が出た。
改めて二人が立ち上がると、
「一緒に保健室まで行きましょ。きっとコブが出来るわよこれ」
「そうだね」
つられて微笑み返すと、何だか楽しい気分になって来た。
彼女には親しい友人がおらず、何処か距離を置かれている部分があるが本質的には明るくて楽しい子なんだと、周囲の噂だけで彼女のイメージを持ってしまっていた事を反省しつつ、二人は保健室まで他愛もない会話をしながら向かった。
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