美穂の記憶

私は、恵まれている家に生まれたと思う。

お金に不自由はなかったし、自分の好きなものを選択できたのだから。

でも、それはお姉ちゃんが病気が悪化する前のお話。

お姉ちゃんは生まれつき心臓が悪かったが、手術をした後は様態も良くなり、普段の生活は支障もなく送っていた。しかし私が中学生になった時からお姉ちゃんはずっと病院で意識が戻らない人になった。

そこから、私の家族の歯車は狂い始めた。


 暗くなったお母さんのために明るく振る舞わなくてはいけなくなった。

勉強できることが自慢のお父さんのために成績を常にトップを取らなくてはいけなくなった。

お姉ちゃんが好きなピアノも弾き続け、美しくいなくてはいけなくなった。

全てはこの家で生きるために。


ねえ、本当はね。本当の私はね、少し厭味っぽくて、勉強も数学しか好きじゃなくて、ギターが好き。


私だってお姉ちゃんに帰ってきてほしいのに。私だってお姉ちゃんのこと心配で毎日一緒に過ごしたいのに。

ねえ、なんでお姉ちゃん、病気になっちゃったの?

私とても苦しいよ。もうお姉ちゃんになりたくないよ。

この私が1番お姉ちゃんのことが好きなのに。


優秀で美しくて明るくて優しい私のお姉ちゃん。美香ちゃん。

帰ってきてよ。このままだったら私いなくなっちゃうよ。

お姉ちゃん、私、もうやだよ。疲れたよ。

ただ、動かなくなったお姉ちゃんの手を握ってベッドの上で涙を流すしかなかった。


「美穂ちゃん」


誰かが呼んだ気がした。

私が振り返ると、母が食卓でニュースの方を指さしていた。


「見てこれ。人間の精神をaiデータとして保存することが可能になったんだって。もしかして美香にこれが可能なんじゃないかしら!」


母は一目散にネットの方へ駆け寄り情報を調べ、すぐにどこかへ電話をかけ始めた。

目を爛々に輝かせお姉ちゃんを助けるために必死な母を見て私は思った。

ああ、結局私はスペアでお姉ちゃんにはなれなかったんだって。

じゃあ、じゃあ、私なんて存在しなくていいじゃん。

私はそのまま飛び出し、お姉ちゃんの病室まで直行した。


「お姉ちゃん」


お姉ちゃんはいつも変わらず動かない。ただ痛々しい管だけが生きている証拠の様に思えた。


「聞いて。お姉ちゃんは精神だけで生きていたいと思う?この世界はそれが可能になったんだって。経験ですらすべて観念論に置き換わるんだって。実在の疑いの始まりなんだって。私、もうわからない」


「そうなんだ。君は実在に対してどう思っているんだい?」


私は、驚きすぎて、そのまま後ろに尻餅をドテッとついた。

お姉ちゃんの声かと思ったがどう見ても野太い男の声だ。


「だ、誰?」

「じゃーん!」


そういってベッドの下から顔をのぞかせた。

朗らかに話す彼は、この世のものではないような妖艶な美しさを持っていた。髪は、透き通るように白く、眼の色はチャコールグレー。全てを知り尽くした様な瞳にすらっとして180はあるだろうか、見上げるほどの身長。


「し、死神?」

「失礼だな。生きていますよ!僕はルウ。日本の医者にしか僕の手術ができないみたいから、今こっちに来ているんだ」

「はあ、で、なんでこの部屋にいるのよ」

「ああ、僕、君のお姉さん好きなんだ。いつも穏やかな表情しているだろう。きっとすごく幸せな思い出がある人なんだろうなって。愛されてきた人のそれだ。君も愛していたんだね」


なぜか彼の言葉は、私に透けるように滾々と入っていく。不思議な感覚。雫がふと溢れる。


「そ、そうよ。自慢のお姉ちゃんよ。あんたなんかに渡さない」

「はは、手厳しいな。で、実在を君は疑うの?このお姉ちゃんすら?」

「そんなこと言ってない。お姉ちゃんは確かに存在する。意識は戻らなくても」

「じゃあ君は肉体の存在が、実在を証明するものだと思うんだね」

「違う。お姉ちゃんは私の心の中に存在する。肉体がなくたってお姉ちゃんはずっと私のお姉ちゃん」

「うーん、それは矛盾しているなあ。君の心の中には存在するのも、肉体がここにあるのも実在といっているよ」

「そうよ。どちらもあって初めて実在よ!両方ないと意味ないもの」

「じゃあ、君のお姉さんは?実在していないの?目が覚めないと心あるかわからないだろう?」

「……わからない。だからこうやって苦しんでいるのよ」

ふむ、と彼は人差し指を考えるように唇に何回か押し当てた。

「そうだね。じゃあ、僕とお姉ちゃん実在ごっこしようよ」

「は?」

「だから、お姉ちゃんが意識あると仮定して話しかけよう。そして三人で遊ぼうよ」

――意味が分からない。

「あんた頭おかしいんじゃない?」

「いや、僕はさっきから言ってるじゃない。君のお姉さんが好きだって。そして君の助けにもなるかもしれない。お姉さんの実在について」


彼が言っていることはよくわからなかったが、私を真剣に見つめるその誠実な瞳はお姉ちゃんが好きという気持ちに嘘はあるように見えなかった。


「……まあ、訳わからないけど、勝手にして。お姉ちゃんに免じて」



*

お母さんは、精神のみで生き永らえるという政府の方針に夢中になり、病室もあまり来なくなったことを良いことに、三人で今日会ったことや、辛いこと楽しいことを共有した。

 この時だけは私はお姉ちゃんの振りをしないで済んだ。だってお姉ちゃんは実在するんだから、二人お姉ちゃんがいたらおかしいでしょ。

……でもそれも長くは続かなかった。


「僕明後日手術なんだ」

「あんた本当いきなり言うわね。お姉ちゃんもそう思うでしょ」

「……」

「ほら、お姉ちゃんもそうだと言っている」


ルウは病室から遠くの景色を見つめて目を軽く伏せた。

はじめからそこには何もなくて、その瞳には映らなかったように。


「もし肉体が死んでも精神は君たちの記憶で生き続けるかな」

「何言っているの?あんた肉体も殺す気なの?」

「……僕は正直肉体が苦しいんだ。この苦しみがずっと続くのかと考えると死にたくなる。……でもそれでも君に触れたいと思ってしまう。だから……」


俯き加減でいた顔は今までにない泣きそうになりながら、困ったように私に微笑んだ。

私は心が締め付けられて何か言葉を発しないとという焦燥感にかられた


「ルウ、明後日絶対成功させてよ」


私が肩を軽くたたくと、ルウは唇を少し舐めて噛んだ。

そのしぐさが妙に色っぽくて私は生唾を飲み込んだ。


「美穂、成功したら君に言いたいことがあるんだ」

「じゃあ、今言ってよ」

私の額を小突くルウは、明後日のことなど何ともないように見えた。


――だが、ルウの肉体に出会うことはこれっきりなかった。


そうだ。思い出した。

この後、世界の肉体と精神の秩序に私は飲まれていった。

そして、秩序に耐えられなくなった私は肉体を売り渡したのだった。

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