2,空腹な審美眼

 

 S県境に、知る人ぞ知る隠れた名店がある。「young willow」の筆記体がお洒落な看板を小さく掲げた、和モダンなカフェだ。静かな路地で、地元の常連さんを相手にのんびり商売している、地域の憩いの場である。噂によると、テレビや雑誌などの取材を一切受けたことがないらしい。長い間風潮に踊らされない理念を貫いている格好良さも、私は密かに気に入っている。


 最近カフェは改装工事を終えたようで、入り口は重い木製の扉から白い栁のシルエットがプリントされた自動ドアに変更されていた。

 チェスナットの木目調に薄縁を合わせた椅子。オリエルの陽だまりに列を成す多肉植物の小鉢。キャッシャーの傍には苔盆栽。お洒落なのに、敷居の高さを感じさせない緩さが見事に調和していた。和のインテリアと自然採光にこだわった内装で、夕方になると、灯籠のようなデザインのペンダントライトがゆっくり天井から下りてくるのだ。その光加減も目に優しく、どんな時間帯も寛げる空間となっていた。

 

 学生という肩書きも終盤に差し掛かりつつある私も、学校帰りに足を運んではここで課題を消化したり、バイトまでの僅かな時間を潰したりしている。


「お待たせいたしました。ホットのキャラメルラテと海老のトマトクリームパスタでございます」


 白のシンプルなマグカップがことん、と私の前に置かれた。こんもりと綺麗に絞られたホイップの波に沿って、キャラメルソースがこれまた奇跡的なほど繊細にかけられている。パスタに盛られた海老は小ぶりだが肉厚で美味しそうだ。「ごゆっくり」とぎこちなく礼をして去って行く店員を横目に見、私は料理の上で携帯のカメラを構えた。


 このカフェは最近まで「谷口さん」という可愛いお婆ちゃんがフロアの接客を担当していた。しかしここ数日はその姿をめっきり見ておらず、ご高齢だったのもあって引退されたのかもしれないと、ここに来ては勝手に一人で寂しく感じてしまっていた。

 谷口さんの姿を見なくなってから、これまでキッチンを担当していた方が接客を掛け持つことになったようで、きびきびとフロアを行き来している。三十代くらいの、清潔感のある真面目そうな女性だった。左胸につけたネームプレートには「M.Kanno」と刻まれていた。カンノさんというらしい。

 常連客に気さくに話しかけていた谷口さんとは対照的に、カンノさんの接客はあまりにも事務的だった。手際の良い分店の回転率は上がっていたが、ささやかな交流を楽しみに来ていたらしい地元客のご老人たちが談笑する光景はここ最近見なくなった。

 私だって、谷口さんや他の常連客が創り出す和気藹々としたあの空間が好きだった。だけど、谷口さんが店を辞めたからといってここに来るのを止める理由にはならなかった。ここには谷口さんが大切に守ってきた、温かい地域の中らいの記憶が残っているからだ。


 たとえ、そういった風情が後代には受け継がれていなくても。

 

「お待たせいたしました。煮込みハンバーグとライスの中でございます」

 カンノさんはまた抑揚の無い声で私の前に料理を置いていく。

 

 できたての肉料理を前に、私は舌なめずりをしてシルバーを手に取った。谷口さんが辞めてからだろうか、私にはやたら料理の完成度の高さが目につくような気がしている。味は全く変わっていない。ただ、運ばれてきた料理を見た途端に、食欲をぐっとそそられるような輝きを放っているのだ。煮込みハンバーグの照り加減、付け合わせのコーンと芽キャベツまで、メニューにあるモデル写真と遜色ない彩りの良さを見せている。きっとあの完璧主義そうなカンノさんが、キッチンスタッフに美しい盛り付けを命じているに違いない――そう考え始めると、好きだったこの空間が、ますます窮屈な労働の場のように思えて仕方なかった。私のバイト先も飲食店だからだろうか。……牛丼のチェーン店とカフェでは雰囲気が全然違うけれど。


「お待たせいたしました。…アメリカンクラブハウスサンドとホットのレモンティーでございます」


 今度はカンノさんではない別の店員さんだった。艶のある黒い髪を一つに束ねた、同じ年くらいの可愛い女子だ。胸のネームプレートには「R.Aizawa」の文字が刻まれていた。アイザワさんは、私のテーブルを見るなり、形の良い大きな猫目を一瞬大きく見開いた。

 無理もない。私のテーブルには、食べ終わったパスタの大皿にラテのマグカップとソーサー、ハンバーグの鉄板プレートとライスの平皿が綺麗に並べてあった。それも店内に入って一時間もせずにこの量を完食しているのだ。そして今、目の前にはアメリカンクラブハウスサンドとレモンティーのセット……少なく見積もっても成人男性二人前が、さあ召し上がれの状態なのだ。

 一軍女子的な華やかさを持つ女子と、地味で大食いな私が束の間の沈黙で差し向かう。何か嫌みな視線を投げかけられやしないかと身構えたが、アイザワさんは即座ににこやかな笑顔を作り、「お皿、お下げしますね」と切り替えた。

 意外にも逞しいその細腕がバランス良くトレイを抱えて去って行く後ろ姿を見て、色々負けたな、と居たたまれない気持ちになった。 


 自分が過食気味なのは自覚していた。

 

 女の子はそのくらいふっくらしてた方がいいわよぉ、なんて言う親戚の世辞を真に受けたわけでは無い。食べたいものは好きなだけ食べろという我が家の食育方針が功を奏したわけでも無い。中高六年間、そこそこ体重管理の厳しい部活を続けてきたのもあってか、食事の量は自然とセーブ出来ているはずだった。

思春期女子が一度は通る、低脂肪な細身への羨望も無かった。


 ……少なくとも昨年までは。


 本当は自分も食べることが好きだったのだと気づかされたのは、大学に入って初めて恋をしたときだった。少人数で構成された学科なので、学生同士仲の深まりやすい環境だった。そんなところで日々を共に過ごしていけば、自然と相手の良いところも目につくというものだ。お手軽な奴だと笑ってくれていい。異性の優しさに良い意味で耐性の無かった私は、入学したての頃、初めて話しかけてくれた柔和な雰囲気の男の子に惚れ込んでしまったのだった。

 気持ちを打ち明けることはしなかった。彼の特別な存在になりたいとは微塵も思わなかった。ただひたすらに自分が抱えたこの気持ちが好きだった。「よく食べる女の子って可愛いよね」――そんな彼の一言だけで、食べるという行為が特別で楽しいことのように感じられた。言葉一つ、表情一つ、笑い声一つで世界が変わるような、そんな温かい日常の一コマが全て嬉しかった。

 恋は人を変えるというのは本当らしい。私はその男の子――うめちゃんへの思いを募らせていくうちに、今まで気にも留めなかった自分のあらゆるところが気になりだした。もう少し髪を整えたほうがいいんじゃないか、もう少し服装に気を遣った方がいいんじゃないか、上手に話ができるようになった方がいいんじゃないか……。その中で真っ先に始めたのが、速攻で成果が現れそうな、外見に気を配るということだった。

 筋肉質な脚や広い肩幅はどうしても可愛いファッションが似合わなくて諦める。付くべき所に全く寄りつかない脂肪は栄養素で増やす。梅ちゃんに選ばれたいという気は本当に無かったのに、そうするべきだという本能的な美意識でも働いたのだろうか。有名なモデルのブログなんかを漁って閲覧するうちに、自分の意識の根底に「ルッキズム」の一言が重い現実としてのしかかってきた。


 もうずっと前から疲れていた。


 昨年から、発作的に大量の食事を口にしてしまうことが増えた。思えば、梅ちゃんが校外で綺麗な女の子と会っているらしいというのを耳にしたのもその頃だ。妙な喪失感と虚無感に耐えきれず、そこにあればあるだけものを口にした。夕食時になれば家族に自分の暴食を知られたくなくて意地をはって食べた。悪いときは無理にでも吐いて詰め込んだ。部屋に戻ると申し訳なさで涙が止まらなかった。外食中はさすがにみっともないからと自制をかけていたが、最近はついにそのたかも外れ始めていた。


 自分がそれを持ってないというだけで、持っている人を疎ましく思い始めるのは何故だろうか。努力して報われる範疇にあるというならまだマシだった。努力しなくても元から備わっていればもっと良かった。変わらない髪質、荒れやすい肌質、毛深さ、骨格、細胞、遺伝子。そう、お年頃の乙女たちを一番苦しめるのは、正味〇.一%の遺伝子が違うという事実なのだ。不遇感、不平等、理不尽、嫉妬から嫌悪へ……真っ当に育ってきたつもりで、自分がこんなに真っ黒な欲望と妄想に飲まれた愚かな人間だとは思ってもみなかった。


「フォンダンショコラとカモミールティーでございます」


 ふと顔を上げると、無表情なカンノさんが淡々とテーブルにケーキを置いていた。気がつくと外はすっかり暗くなっていて、頭上の灯籠風ライトが照らす店内は人影もまばらだった。私は怪訝の念をもってカンノさんを見上げた。


「頼んでませんけど……」


「はい」


 カンノさんはぎこちない手つきでカモミールティーをソーサーに乗せ終えると、フォンダンショコラに掌を向けた。


「こちらは当店が、常連さまに特別にお出しする試作品です」


 溶け出たチョコがまろみのある光沢を放ち、傍には綺麗に絞られたホイップクリームと林檎のコンポートが添えられていた。試作品、というには完成度の高い、有名なパティスリーに並んでいてもおかしくないような一皿だった。


 どうして、と聞かずにはいられなかった。ここに通い始めて長いけれど、地元の見慣れたお客さんがフォンダンショコラを食べている様子は見たことがない。そもそもメニューにチョコレートを使ったデザートが無いのだった。


「谷口さんのことを覚えていますか」


 カンノさんがテーブルの脇に身を屈めた。私に視線を合わせて話そうとしてくれているのが伝わり、私も姿勢を傾けてカンノさんの方に耳を寄せた。

 

 二週間ほど前のことです、とカンノさんは呟いた。


「私がキッチンの掃除を終えて帰ろうとしたときに、谷口さんが珍しく私を引き留めて、一冊のノートを私に手渡しました。開店当初から彼女が使用していたレシピ本です。一番初めのページに刻まれた日付は二十年近く前のものでした。概ね、今までカフェで提供してきたメニューのレシピでしたが、一つだけ……フォンダンショコラだけは違いました。谷口さんに聞くと、どこか懐かしげに答えられました。とある事情があって公に客に出してはいないんです、と」


 私は静かにケーキを見つめた。


「――いつかまた二人でこのフォンダンショコラを食べに来てくれるはずだから――と彼女は独り言のように呟きました。誰のことを言っていたのかは分かりません。分からないまま、次の出勤日に彼女は来ませんでした。次の日も、その次の日も。

その理由も私には分かりません。もう知ることも無いでしょう」


 カンノさんの滑らかな語り口に感情は読み取れなかった。押し殺されているようにも見えた。


 そうか。谷口さんは、もうこのカフェにはいないんだ。


 今一度、その事実を胸に突き立てられたような気がした。


「谷口さんが去り際に芙由子ふゆこちゃんをよろしくお願いします』と私に頭を下げました。あなたの話はよく聞いていました。ここ最近、健康の度を超えた量の食事を注文されていることも」


 私は途端に恥ずかしくなって思わず下を向いた。


「どうして、私にこのケーキを……。特別な二人にお出しする予定ではなかったのですか」


 カンノさんは少し決まりが悪そうに顔を掻いた。


「私はオーナーではないので独断でこれを提供していいか迷ったのですが……。私があなたにこれを食べて欲しかったのです。きっと谷口さんも、私にそうして欲しかったのではないかと思ったので」


 そろそろ新作としてメニューに加えようと思っていたのもありますが、と彼女は慌てて付け加えた。

 歯切れの悪い彼女の口調に、心にじんわり温かさが広がる。不器用な言葉にはきっと血の通った優しさがあった。今まで気が付かなかっただけだ。二人の眼差しに、ずっと、私は見守られてきたのだと。

 カンノさんは背筋を伸ばした。


「一般的に『口寂しい』と表現されるように、過食の原因になるのは口唇欲求です。身体は限界なのに何かを口にしていないと落ち着かないのは、おそらく心が栄養不足に陥っているのです」


 心の栄養不足。そのフレーズに胸が軋んだ。


「誰かに愛されたければ痩せろと世の中は女性を煽ってばかりいますが、それがどれだけヒトの健康を害したとしても、誰かが責任を取ってくれるわけじゃありませんよ」


 それに、とカンノさんは笑う。


「こんなに美味しいものが目の前にあるのに、食べないなんて損をしていると思いませんか? 」


 そう私に言い放ったカンノさんの顔は、なんだか寂しそうだった。


 ああ、よかった――瞬間的に、そう思った。


 この人も、寂しいんだ。ここに来る人も来なくなった人も。谷口さんを恋しく思うのは、きっと私だけでは無かった。


 結局フォンダンショコラは家に持ち帰らせてもらった。

そして家族が寝静まった深夜一時、久々の心地よい空腹感をじっくり満喫した後、冷蔵庫からフォンダンショコラの入った白い箱を取り出した。

 それから自分の部屋に戻り、暗い部屋にLEDのキャンドルだけを灯す。自分の好きな雰囲気で食べるのが一番いいんですよ、と言う谷口さんの笑顔が脳裏を過ぎる。それから、五感を総動員して食べるのよ、と言うカンノさんの平坦な口調が蘇った。――でも本当に大切なのは、美味しいものを美味しいと感じる心ですから、と続けて。


 あのカフェには、これからもずっとお世話になりそうだ。


 そうして食べた一切れのフォンダンショコラは、この世のものとは思えないほど甘美で繊細で、十数年の至福が濃縮されたような深い味わいを味蕾に残して消えていった。







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