3,しあわせな味覚をお持ちで
はあ、と溜息を吐きたくなるのをぐっと堪えた。
連日の大雨で客足は見事に遠のいている。近所の大きな公園から流れて来るいつもの手合いの層がいないので、朝から店は貸し切り状態だ。そして不甲斐ないことに、根強かった地元からの客足が遠のいた一因が接客を担当する自分にあることも、否応なしに自覚させられる。
地域密着型の経営で繁盛していたカフェ「Young Willow」もとうとう不景気の打撃を受けてしまった。そのために、テレビや雑誌の取材を受け付けないという基本方針(何の為の方針なのか未だにわからないが)を捨て、拡散力のあるメディアにこのカフェを特集してもらうことを決心した。勿論これは従業員の総意でもあった。
私にとっては先代のオーナーに対する申し訳なさと自分の実力不足を猛省しての、そして店の回復へ第一歩を踏み出すための、枢要な決断だった。
そんな中での、不仕合わせだった。
予定より三十分も遅れてやってきたリポーターの若い女性は、高校の元同級生である
ああ、「やり返し」に来たんだろうな。
女の勘が本能的にそう察知した。
「ちょっと、何ですかあの女」
キッチンで注文票を貼り付けながら、バイトの
「ちょっとした顔見知りよ。彼女の取材を元に、雑誌でこの店を特集して下さるそうだから、あまり邪険にしてはいけません」
「だって、遅れてきた挙げ句、
璃子ちゃんは小声で怒鳴りつつも食器棚から一番綺麗なジュースグラスを取り出した。話の分かる子だ。
数分してレモンスカッシュが運ばれてくると、待ち構えていたかのように有理子が品定めを始めた。見た目に何かケチをつけようと試みたようだが、生憎うちの璃子ちゃんは料理を美しく見せることにかけては店随一だ。ラテにかけるキャラメルソースなどは金細工かと見紛うほどに繊細で、彼女がキッチンに立つ日は必ず、女子大生がスマホカメラを構える姿を多く見かける。
有理子は無言でグラスを見つめた後、諦めたのかストローをさして少し飲みかけ――思い出したかのように取材用のカメラを構えた。その後、さすがに気まずくなったのか適当に「ランチは店側のご自慢のものを」と言って手で払われた。
キッチンに戻ると、璃子ちゃんが「飲みかけを雑誌用に撮るな!」と憤慨しつつ、当店の看板メニューであるビーフシチューの大鍋を火にくべていた。話の分かる子である。
学生時代――有理子は最初、物静かな普通の女の子に見えた。普通の、というのは少し誤りかも知れない。大勢でいれば聞き手に徹しているし、頼まれごとをすれば二つ返事で引き受けるようなお人好しだった。悪く言えば言いなりだった。寄らば大樹の陰的思考で一番快活そうな女子の輪に入っていたけれど、唯々諾々として流されやすい彼女は格好の餌食だったろう。
みなみん、どうしよう、齋藤さんたちに嫌われちゃった。
ある日突然、そこまで親しくなかった私に有理子がそう話しかけてきたことを思いだす。彼女の優柔さは使い勝手が良かったが、ふらついた性格は何度か輪を乱すことがあったそうだ。無害そうな有理子を迎え入れた私たちのグループも、だんだん齋藤たちと同じように有理子を疎ましく思い始めた。気づいたら単純なことだった。彼女は周囲の目は気にしていたが、周囲のことは何一つ目に入っていないのだ。保身第一、怯えた目にそう書いてあるのが見えるようだった。
「ねえ、みなみん。私味覚障害になっちゃったの」
そうして今日、十数年越しに見る彼女の瞳はひどく好戦的だった。
せっかく出された料理を前にして礼儀知らずにも程があるが、璃子ちゃんがいつもに増して気合いを入れた、完璧すぎるビーフシチューの盛り付けの前にこの台詞なのだからしぶとい。今日は絶対璃子ちゃんを接客に出してはいけないな、と背後のキッチンから漂うどす黒いオーラに冷や汗をかく。
そうだ。ここで私が冷静にならなくては、と背筋を伸ばす。魂胆の見え透いた幼稚な嫌がらせに構っている暇は無い。この取材には、カフェの存亡がかかっていると言っても過言ではないのだから。
「仕事が大変なのかしら。それとも病気の後遺症?」
「前者よ。この通りレポーターをしているから、一つの場所で落ち着いて作業が出来ることなんか殆ど無いの。羨ましいわ」
まあその分やりがいがあるんだけどね、とレモンスカッシュを吸い上げる有理子は少し得意げだった。取材を受け入れたのは大手の出版社だった。彼女に乗っている責任も軽くはないらしい。
「有理子は世渡りが上手だったから、そういう仕事が向いてそうでいいわね」
学生時代からたくさんのグループを渡り歩いていたものね、と言外に含ませると、彼女はピクリと眉を動かした。言ってしまってから、私ははっと我に返る。いけない。璃子ちゃんにも邪険に扱うなと注意したばかりなのに。
谷口さんのような人を惹きつける麗らかさや、璃子ちゃんのような自然で美しい笑顔を私は持ち合わせていなかった。私が出来るのは、味気ないが精一杯の接客か、効率的にスタッフへ指示を出すことだけだった。今まで担っていた裏方の役割に求められたスキルでは無かったし……というのは言い訳だ。
自己嫌悪。有理子相手に十分な愛想も出せないとは。貼り付いた下手な微笑が私の自負心を抉った。
「味覚障害って、どのくらい重いの」
「味の強弱が分からないのと、いろんなものが苦く感じたりとか」
「それでよく飲食店の取材に来たわねえ」
それでも反射的に怒りを含ませた本音が滑り出た。経営難を舐めているのか、接客しているのが私だからこんな態度なのか。明らかに後者に近いであろう事が殊に神経を逆撫でた。
「怖い上司がいない田舎での経営はお気楽で良いわね」
私の反応を見て満足した様子の有理子は、ビーフシチューを一口掬って口に運んだ。
苦いとも不味いとも言わなかった。
ただ一つ肩を落とし、弱々しい落胆の表情を滲ませただけだった。
「それにしても不思議な内装ね」
彼女は店内を見回した。
「統一感のないインテリア。清潔だからかろうじてまとまっているように見えるけど……落ち着いた雰囲気で食事をさせる気はあるのかしら。こういうのに店主のセンスが問われるのよ。そう思わない? 」
彼女は私の顔を見てにこりと笑い、やだ、そんな顔しないでよ、と慌てた様子で付け加えた。みなみんの独特なセンスは学生時代から変わらないもんね、と目を泳がせて鼻で笑う。何もかもがわざとらしい。
「今日も全然お客さんが見当たらないようだけど……大丈夫なの? 昔のお友達として心配だわ、私たちがここを記事にして、世間に名を知られる前に潰れてしまわないかどうか」
私の口から、とうとう冷たい笑いが漏れた。マナー、理性、節制、器量。呪詛のように私を封じていたそれらは、有理子が口を歪ませる間に前頭葉で焼き切れた。
いや、違う。私の中の狡猾な女は、目の前にいる愚かな獲物を一撃で仕留められる機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
私は出来る限り出すまいと心に留めていた切り札を出さずにはいられなかった。ごめんなさい、谷口さん。心の中で必死に謝る。真面目で義理に厚い、そう褒めてくれたあなたに恥じないように努力してきたつもりだった。私怨でここに来るような奴を、適当にあしらえるだけの技量があったなら、よかったのに。
私はもう一度微笑んだ。せいぜい怯んでくれたらいい、と。責任も任侠も無い、たった一つの敵愾心を滾らせて。
「ねえ、あなたの働いている出版社って『あおやなぎ』を発行してる所でしょう」
「それが何か?」
「このカフェは元々、『あおやなぎ』を社会的に広めた、谷口さんという女性が開いたのよ。改装して間もないから、私が始めた個人経営だと勘違いしたようだけど……。ところであなた今なんておっしゃった? 確かにこんな雑然とした内装で客足も見られないような店が、今までどうして潰れなかったのかしらね? ごめんなさいね、あなたの会社の息がかかっているかどうかは私にもわからないわ」
聞いてあげましょうか、谷口さんはあなたの会社に縁があるようだから……と言うと、有理子は明らかに余裕の消えた青白い笑みを貼り付けて、炭酸の抜けたレモンスカッシュのグラスに口をつけた。
『あおやなぎ』は月一で発行される、生活の知恵が詰まった大衆雑誌のことだ。書店は勿論、市役所や病院、薬局の待合室に置かれ、多様な年齢層に愛され続けている。その雑誌のコンテンツや特集の企画諸々は、元々谷口さんが個人的に展開していたWeb事業だったそうだ。それに提携を結んだのが、有理子の働く大手出版社。未だにトップレベルの売れ筋商品のはずだ。
彼女の経歴を借りるのはおかしいと分かっている。「聞いてあげましょうか」なんて啖呵を切っておいて、谷口さんの行方なんて本当は分からないけれど。むしろ私が知りたいくらいだった。
それから暫く、私たちは沈黙で対峙した。
「……みなみんにはわかんないよ」
ふて腐れた声でそれを破ったのは有理子の方だった。
「話をそらさないで。本当に仕事でここに来ている自覚はあるの? 」
私は苛立った。
何一つ成長してない、と吐き出せば止まらなかった。あなたは誰にでも手を貸していい人ぶっていたけど、本当は自分の都合しか考えない八方美人だって、いい加減認めたらどう。自分から受けたものが抱えきれなくなって、そのストレスで自爆しているだけ、ここに来てまで晴らされるような恨みは売ってない――そんなことを一口に喋ったと思う。感情的になりすぎたとは思うが、引き金を引いたのは有理子の方だ。
店の存続、ひいては従業員の死活問題に関わるこの取材に、私がかける思いを踏みにじられた応酬としてはまだ正当な攻撃だったと思う。むしろこの際有理子にお灸を据えられるならそれでいいのだ。
しかし、有理子の口からは溜息のような乾いた笑いが漏れただけだった。
「分かってないのは私の方だって、そう言いたいの、分かるよ」
私は面食らった。想像していたものとは違う、力の無い、諦念を含んだような調子で彼女は続けた。
「みなみんも晴音も、ずっと私のこと、見下してたもんね。私がのろくて、断るのすごく苦手で、意見するのが苦手で、そういうところばかりに目をつけていたもんね。私を言いくるめて、やりたくないことを押しつけて、卑怯な自分たちのことは棚に上げて、いつも安全で楽しい場所には私を入れなかった」
「そんなことしてないわ。被害妄想もいい加減にして! 」
「そういうところが分かってないんだって! 」
かつて無いほどの強い語気で有理子は言う。彼女の重たい前髪の下で、眸が鋭く冷たくなったのが分かった。
やったやらないはどうせ水掛け論だから置いておくわ、と彼女は息を切らした。
「人の意見に流されることがなんだって言うの。皆によく見られたいことがそんなに悪いことだった? ――ねえ、南はいつも私の状況なんて何一つ分かろうとしないじゃん。自分の正論ばっかり相手に振りかざして、気取って、人の言葉なんてひっとつも聞いちゃくれない。聞こうともしない。今だってそう 」
ねえ、と私を見据える有理子の目だけが笑っていなかった。
「私が今日この店に来てから取った態度を見て、どう思った? 作られた料理の前で味覚障害だから味が分からないって意地悪した私を見てどうだった? ――南の顔、明らかに落胆していたわよ。ああ、もう有理子は私が手軽に扱える駒じゃ無いんだって。……良かった、私、それだけ分かって欲しかったの」
言葉を失った私の前で、有理子は大きく腕を伸ばした。強気に満ちていた彼女の顔は、陽ざしの中で、気の抜けた、あの、人の良い面影を残していた。
「……ああ、清々した。ねえ、ちょっとそこのスタッフさん、この新作のフォンダンショコラを一つお願い」
キッチンからこちらをおろおろと伺っていた璃子ちゃんは、突然のオーダーに困惑した表情でしばらく身体を固くしていたが、ややあって切り分けたケーキを席まで運んできた。クリームも添えられた果物も、いつもの完璧な盛り付けだ。
「味覚障害なんて嘘。何でも美味しく食べられるのよ、私は」
有理子はそう言って、とろけたチョコを掬って、美味しそうに口に運んだ。その表情は嘘にも本当にも見えなかった。
私はいつの間にか関節が浮き出るほど握っていた両の手をそっとほどいた。
有理子は間違っている。正しくない。だってそうでしょう。十数年前の怨恨をみっともなく引きずって。
それでも正しいと思いたかったのはお互い様かもしれない。
私にも有理子にも、苦いものを苦いと感じる舌がある。自分に忘れられない感情があるように、相手にだって同じものはある。それがお互いに認められないのだ。いつだって自分と同じ感覚を味わえないのなら、相手を残酷に刺し射貫くまで舌鋒を研ぎ澄まして。勝った、と自分が満足できるまで噛みついて、喰らいついて。
それでいい、それでいいよ、有理子は。
――私の正しさだって、あんたには絶対分からない。
ケーキを器用に切り崩していく有理子の表情が、だんだん感情を無くし始めた。フォンダンショコラが、一口、また一口と有理子の皿から欠けていく。
それから暫く、私たちはお互いに沈黙を守った。
苦いとも不味いとも、美味しいとも口に出さないまま。
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