いつかその扉は
中野 茶屋
1,箱庭にて
窓の向こうは毎年見慣れたはずの春だった。
S県の東端、築年数の浅いマンションの九階からは、県内有数の面積を誇る緑豊かな公園が一望できる。とはいえ、今は四月上旬――園内を南北にはしる赤土色のプロムナードを覆うように、薄桃色のソメイヨシノが端から端まで咲き満ちていた。隣県との境に流れる川の遙か遠くまでも、春の彩衣が淡い色合いで霞み重なっている。
無機質な家電がひしめき合う室内からみた外界の春は、窓という額縁に閉じ込められた美しい絵画のようだ。
素晴らしい眺望に心を奪われていた私は、真横からの平たい声で我に返った。この一室の主人である西岡さんが、私の座っているダイニングチェアの脇で身を屈め、申し訳なさそうに手を合わせている。
「ごめんなさいね。
私は控えめな微笑を貼り付けながら首を振った。
分かっている。
私は改めて向かいに座る女性に目を向けた。
私がここに来たのは春の絶景を望むためでは無いのだから。
「初めまして。丸山と申します」
そう言って静かに頭を下げたのは、六十代も後半の上品そうな女性――マルヤマさんだ。肩口まで伸びた白髪交じりの髪は自然な緩さで流され、ネックラインの広いモスグリーンのカットソーがよく似合う佇まいだった。
「初めまして。斎藤晴音と申します。西岡さんのご紹介で、本日は丸山さんと簡単なレクリエーションをさせていただきます。最近お疲れの様子だと伺いましたので」
「あらまあ。ヨーコちゃんったらそんなことを」
私は全然元気なのに、と西岡さんに微笑みかけ、マルヤマさんは緑茶の入った湯呑みに口をつけた。テーブルの丁度真ん中に置かれた急須はほくほくと湯気を立てている。それからまた数分、微妙な沈黙が下りた。目の前の老婦人に、いつ話を切り出そうか見計らっていると、そんな空気に耐えかねたのか西岡さんが外出の支度をし始めた。それから、「私は買い物にでも出かけますわ。一時間くらいになるかしら。頃合いを見て帰ってきますので」と早口に囁いた。マルヤマさんは特に気にした様子もなく、お茶を飲んで寛いでいる。
マルヤマさんは、認知症だった。
昔から私の家の近所に住んでいた西岡さんが、つい二ヶ月ほど前に、彼女の物忘れが酷くなっていると私に相談に来た。その時点では、確かに記憶の欠陥は多く見られたが、生活に支障が出るレベルでは無かった。それがまた最近悪化し始めたのだそうだ。
回覧板が回ってこない、スーパーで買った商品ごと荷物を置いて帰る、ここの住所を九州にある実家だと思っている、そして家族のことも、もうあまり覚えていないのかも知れない――と。
二人きりで2LDKに取り残された後、私がボストンバックから取り出したのは、私物の動物ミニフィギュアと北欧風ドールハウスセットだった。幼少期に女の子が一度は目にする、フェルト地に黒いビーズの目が愛くるしい動物ファミリー。それも年季の入った初期シリーズだ。私の母が小さい頃に使っていた物を譲り受け、そのまま私が嫁ぎ先まで連れ添っているため付き合いも長い。
箱庭療法――なんて高度な分析力も知識も持っていないけれど、手を動かしたら脳が活性化すると言うし、世代的に話も繋げやすいので持って来たのだった。
「懐かしいわねえ。これ」
マルヤマさんは穏やかに目を細めた。
「本日のレクリエーションでは、このお家を丸山さんのお好きなように飾り付けていただきます」
「飾り付けだなんて……上手く出来るかしら」
「レクリエーションですから気を楽にして飾って下さい。自分が住みたいと思えるようなお家に」
私は大きなクッキー缶に入れていた、家具などの細かいミニチュアを机に広げた。それからノートパソコンで「作業用BGM」と検索をかけ、小一時間程度の動画を再生する。広告からやや間があってゆったりとしたピアノの旋律が聞こえてくると、マルヤマさんは家具を手に取りつつ真剣に悩んだ様子でレイアウトを考え始めた。
「私が住みたい家と言ってもねえ……今までどんなお家に住んでいたのでしたっけ……」
彼女の指が、とん、とミニチュアのオーブンに落とされる。皺々の人差し指がそのまま、とん、とんとオーブンに眠たい拍を刻み始めた。
ダイニングテーブルを選び始めたかと思うと、背の透かし彫りが洒落たベンチソファを二階部分に置く。チェスナット調の椅子を二脚並べたダイニングエリアには、真ん中にスタイリッシュなカフェテーブルを配置した。なかなか攻めたインテリアのご家庭である。
何気なく続いていた細い音色が一呼吸途切れ、ピアノの曲目が変わっていった。緩急と物語性のあるこの旋律は――
「エルガーの『愛の挨拶』ね」
マルヤマさんは穏やかに微笑んだ。
「若い頃の行きつけのカフェで流れていたの。懐かしい……」
親しみのあるクラシックに記憶を誘発されたらしい。優美な曲調に浸り、それからしばらくして、ミニチュアを飾りながら自分のことをぽつりぽつりと話し出した。
――このダイニング、私がうちの主人と初めてデートしたそのカフェをお手本にしているんですよ。もう何十年も前の事かしら。大きな公園を二人で歩いて、頭上に満開のソメイヨシノが綺麗でねえ…。そうしたら帰り道に彼が「近くに新しいカフェがオープンしたんですけど、行きませんか」って、寄り道したのがその場所だったの。凜とした綺麗な女性が切り盛りしていて……なんでも二十代の時に旦那さんを事故で亡くして、小さなWeb事業を行ってきたとか……その店の雰囲気もとっても落ち着いていて、主人と結婚してからも、頻繁に訪れていたんです。
マルヤマさんの口調は、記憶を懸命に探しているようなもどかしいものだった。
掬い上げてはすぐにその手から零れ落ちる。追えば遠ざかる。縫い止めればほどける。
記憶が足りないというのはどんな心地がするのだろう、と私は時々空恐ろしくなる。昨日見た夢を思い出したくても思い出せないあのむず痒い感覚に似ているのだろうか。忘れれば忘れたことをまた忘れ、初めは針穴ほどの喪失も、いつしか数十年の苦楽をも飲み込む大きな空洞になるのだろうか。
マルヤマさんは静かに続けた。
――例のカフェの店員さん……谷口さんという方だったのですけれど、それから何度も通ううちに親しく話すようになって。あるとき、新作のスイーツをメニューに加えたいのだけど、何が良いかしらって相談を受けたのよ。丁度いい時期だったから、チョコレートを使ったケーキを提案したの。そしたら数日後に、是非試食して欲しいって言われて、そう、……彼女が作ったフォンダンショコラを食べた……とっても美味しかったわ。彼女、凄く器用だったのよ。
是非このケーキの作り方を教えて欲しいって頼んだけれど、これからもこの味を求めてカフェに来て欲しいなって可愛い笑顔で断られちゃった。もし娘さんが大きくなったら、バレンタインの時期に秘密でレシピを教えてあげるからねって、私の隣を見て微笑んで……。
あれ、それからどうしてあのカフェの記憶が無いのかしら……
ガチャリ
リビングの扉が開く音がやけに大きく耳を打った。過去の世界に沈んでいた意識が一気に引きずり上げられて、二人して肩を飛び上がらせる。
マルヤマさんはそれから暫くじっと動かなかった。その視線は虚ろに空を彷徨っていた。それからおもむろに扉の方を振り返ったマルヤマさんは、買い物から帰ってきた西岡さんに向かって、
「おかえり、晴音ちゃん」
と優しい声色を震わせた。
西岡さんは、困ったような表情で私とマルヤマさんを交互に見ていた。
それから間もなく、自然な様子で西岡さんを「ヨーコちゃん」と呼ぶようになると、はっとしたように私の方に向き直った。
「ごめんなさいね、初めて会ったばかりの方にずっと思い出話なんかして」
「……いえ」
私はそう首を振りつつも小さく息を吐いた。予想してはいたが、この小一時間で随分と精神を摩耗してしまっていたらしい。
マルヤマさんの瞳をぼんやりと見つめる。無邪気な子供のような目だった。何も知らないで、美しい世界だけがそこに映し出されているような気がした。そして子供で無い分、不満足を滲ませた虚ろな光をたたえていた。
――ねえ、本当に覚えていないの。
私はその水晶体の奥に語りかけるように見据えた。
……齋藤晴音はあなたの娘だって。あなたは私が就職するまで二十年近くずっと、私と一緒に過ごしていたって。今日使ってるこの動物ファミリーの一式だって、嫁入り道具だと笑ってあなたが私にくれたものだって。
二ヶ月ほど前に会ったとき、一番真っ先に忘れられているのが娘である自分の存在だと気がついた。いくら私があなたの娘だって主張しても聞かなかった。だから今日は他人を装って何とか母と話そうとした。
自分のことを思い出してもらいたいなんて思わなかった。
自業自得だと分かっていたからだ。
もう随分昔の話だが、私は中学に上がった辺りから徐々に素行が悪くなった。付き合う友達も自然と偏りが悪くなって、後戻りが出来ないところまで来てしまっていた。喫煙、万引き、恐喝、暴行。たくさんの人の為に母が頭を下げ、涙を流す小さな背中を何年も見た。父は早々に家を出て行った。丸山は母の旧姓だった。
高校は何とか頑張ってそこそこの場所に行ったし、大学進学を視野に入れ始めた頃には不良仲間とは一切縁が切れていたけれど、一度壊れてしまった家族の絆が戻ることは無かった。
苦労をかけてごめん、いつも悪い友達付き合いを優先してごめん、気に入っていたカフェにもずっと一緒に行けてなくてごめん
――そんな言葉が今更母のどこに届いてくれるというのだろう。
真っ先に忘れられて当然だ。今私が思い返しても悪夢のような日々だった。私のことなんか、夢のように消えてしまってくれていい。その方が、母にとってはきっと。
考えたってどうにも出来ない領域はある。私がどうにかできるのは、――母の微かな記憶の中で足掻いて生きていけるのは、これからの残された時間だけなのだ。
また、窓枠に貼り付いた麗らかな春を眺めた。
美しい季節など、自分にはもう二度と来ないだろうなんてことを、不思議と穏やかな心で思う。
ふと、私の遠い記憶に、木造の重たい扉が浮かび上がった。もう二十年近く目にしていないはずの場景だった。
あのカフェはまだ、潰れていないだろうか。
私は少しの間、固く目を閉じた。それからこちらを気遣うように伺う二人の老婦人に向かって、近所にある良いお店に、フォンダンショコラを食べに行かないかと明るく提案した。
泣きたくないのに、変に涙の混じった声をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます