やりたいこと

 私は無我夢中むがむちゅう路地裏ろじうらけめぐった。十字路じゅうじろT字路ティーじろがくるたび、左右どちらかに曲がりながら。

 坂にある路地裏ろじうらだから、もちろんどこも坂道で、のぼくだりが次々変わる。

 脚がめっちゃキツいけど、私は構わず走りつづけた。


 左右に建つブロックべいの切れ間から、ときどき、知らない家の裏口や、にわや、エンガワが見える。


 明かりのついた家に、真っ暗なままの家。あたらしそうな家に、おんぼろの家。外国がいこくっぽい家に、日本っぽい家。


 こんなにご近所さんなのに、ぜんぜん知らない家ばかりだ。

 この家すべてに人が住んでいるって考えると、それが少しだけ不思議なことに思えた。そんなのあたりまえで、そりゃそうだって感じだけど、なんだかさ、この世界は、私に関係のないことばかりなんだって、そう強く感じたから。


 でも、それで悲しくなったとかじゃなくて、私はぎゃく勇気ゆうきをもらえた。

 だってこんなにたくさんの人がいるなら、どんなに悲しいことがあっても大丈夫だし、どんなにつらいことがあってもヘーキでいられるよ。

 どんなに自分をひとりぼっちに思っても、きっとそれは、自分で自分をだましているだけなんだよ。

 こんなに人がいるなら、ひとりぼっちになるほうがむずかしいのかもしれない。


 私が知らないだけで、この世界には、ほんとうにたくさんの人がいるんだ。そして、私が思っているよりもずっとずっと、いろいろな人がいるはず。


 私とぜんぜん違う子。私と似た人。

 がんばり屋さん。ぐうたら屋さん。


 タイクツで苦しい人。自分のことが嫌いな人。ワガママな子。自由がほしい人。


 つらい人生を送ってきた人。鈍感どんかんな人。心配しいな人。パパのいない子。ママのいない子。両方ともいない子。


 好きなことを見つけた子。れ屋さん。さみしがり屋さん。好き嫌いが多い人。誰かをきずつけちゃった人。後悔こうかいしてばかりの子。逃げてばかりの子。泣いてる子。生きるのが嫌になっちゃった人。明日が嫌な子。


 はげましてもらった人。素直すなおになれない子。無口むくちな子。おしゃべりな子。勉強するのが楽しい人。運動が好きな子。明日が楽しみな子。笑ってる子。やさしい人。前向きな人。怖がりな子。強がりな子。


 めげない人。負けない人。あきらめない人。明るい人。生きるのが楽しい人。自分が生きてるのを忘れちゃうくらい、楽しくて楽しくてしかたがない人。


 こんなにたくさんの、私の知らない、私に関係ない人がいてくれるなら、私の世界は、これから、どこまででも大きくなれるんだ。


 ……そういうわけで、誰かに助けをもとめようと思ったんだけど、こんな時間だからか誰とも会わなかった。

 こんだけ走ってるんだから、ひとりくらい誰かとすれ違ってもいいと思うんだけど……。かといって、かってに人の家に入っていくのは、おこられそうでちょっと怖いし……。


 でもまあ、この路地裏ろじうら迷路めいろみたいに複雑ふくざつだから、走っていればたぶん逃げ切れると思う。

 それよりも道にまよわないかが心配。私ってこう見えて、意外と方向オンチなんだよね。


 よかったことに走るうち、私のあとを追ってくる音はだんだん遠ざかっていった。

 私はほっとして、ブロックべいに両手をついて、少しだけ休憩きゅうけいすることにした。

 息が切れて、吸ったり吐いたりするたび変な声が出た。カエルやトンビみたいな。


「……はあっ……! はあっ……! ……ぬぁ……! う、うげえぇ……! ……キュ~……、おえっ……、……! ……ピョ~……、……うっ……ピ~……、うえっ……! はあ……! はぁ…………! ……っ……、……! …………!」


 少し落ち着いてきて、私は空を見上げた。


 空はいちめん、赤とむらさきのあいだみたいな色だった。夕日はいよいよ沈むところらしい。ここからだとブロックべい邪魔じゃまで、夕日の場所がわからなかった。


 とにかく必死ひっしに走ったから、私は完全に方向を見失みうしなっていた。

 私は星座せいざとかさっぱりわかんないから、太陽が沈んだらヤバいかもしれない。


 私あれなんだよね。方向オンチなのにプラスして、距離感があんまりわかんないんだよね。どれだけ歩いたとか、これだけ進んだとかがさっぱりわかんないっていうか。

 だから、一度迷子まいごになっちゃうと、けっこう遠くまで行っちゃうことが多い。

 すぐに誰かに道を聞けばいいんだけど……なんか恥ずかしくて、なかなかそうできなかった。


 だけど、いまならもう、すんなり聞けそうな気がする。

 だから私はヘーキ、ぜんぜん不安じゃない。


 心配なのは、ママのことだった。

 少しまえから私の帰りが遅いのを心配してるだろうし、日が沈んだらきっと、もっともっと心配する。


 いますぐ近所の人に道を聞いて、全力で走ったなら、もしかすると日が沈むまえに帰れるかもしれない。そう考えて一歩みだした瞬間、後ろから、人が息を吸うような音が聞こえた。


 振り向くと、私のすぐ後ろには、あのトロッコがいた。

 その上には、暗闇くらやみに白い人影ひとかげが浮かびあがっていて、両手を大きくひろげて体をワイのかたちにしながら、風の日のヒマワリみたいにれていた。


 そして白いかげは突然、両方のこぶしをぎゅっとにぎりしめ、そのまま、むねの前で手首をクロスさせてエックスのかたちにして、「ゼットォッ!」と叫んだ。


「いや、ぜったいにエックスっ!」


 そう私がツッコんだ瞬間、白いかげはビックリするくらいはげしい動きで、ちょっとカッコいいなって思っちゃうような、変身へんしんポーズみたいなやつをしてみせた。

 そのまま三秒くらい決めポーズで固まっていたけど、かげはまたすぐに動きだし、トロッコのレバーを両手でにぎりしめると、それを左にガチャッとひいて、叫んだ。


「トロッコ問題ささいな問題!!」


 その瞬間トロッコは、電気自動車でんきじどうしゃみたいな『うにょーん』って音をさせたかと思うと、すぐに続けて、悲鳴ひめいのような音を鳴らしはじめた。それはたぶん、車輪しゃりんが地面にこすれている音なんだと思う。きっと車輪しゃりんはすさまじい速さで回転しているんだ。


 でも、トロッコはこっちに走ってはこないで、ただ、その場で少しだけ横を向いた。すると車輪しゃりんの音がもっとうるさくなった。

 回転が速すぎるせいなのか、車輪しゃりんは地面とぜんぜんみ合ってないみたいで、トロッコの底の暗闇くらやみからは……手持ち花火みたいにキレイな火花が出ていた。そのままトロッコは、ゆっくりと私に向きなおって――いきなり走りだしたっ!


 私もすぐにけだした――それからすぐに道を曲がった。それでもトロッコの音は近づいてくる。

 逃げながら後ろを見ると、トロッコは、火花をはげしくらしながら車体しゃたいをすべらし、バックとかまったくしないでせまい道を器用きように曲がって、私を追ってきていた。


「トロッコ問題ささいな問題!! トロッコ問題ささいな問題!! トロッコ問題ささいな問題!!」

「ぎゃああーー!! 誰かたすけてえー! なっ! なんで曲がれんの! 曲がるのうますぎ! どんな仕組しくみだよっ!」


 ……もうこれはダメだ、いますぐ近くの家にけこんで助けてもらおう……と思ったんだけど、こういうときにかぎって、ブロックべいは途切れることなくいつまでも続いた。

 道をなんどか曲がるうち、ちょっぴりトロッコとの距離を離すことができたけど、ぜんぜん逃げ切れる気がしない。


 ずっといる。振りかえれば、すぐ後ろに。トロッコが。ずっとずっとそこにいる。私の後ろをピッタリついてくる。


 息が切れて、満足まんぞくに息が吸えない。吸っても吸っても、体のどこかから空気がれていくみたい。でも、目の前のかどを曲がってしばらくまっすぐ進んだとき、私は、はいが痛くなるくらい、思いっきり息を吸いこむことになった。

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