夕日はだいぶ沈んでしまっていて、その頭だけをのぞかせていた。あたりはいよいよ薄暗うすぐらくなっちゃって、夕方はそろそろおしまいみたい。街の合間あいまにかすかに残るオレンジ色も、そのほとんどが消えかけていて、夕日が世界をらしているなんて、もう言えないくらい。


 それでも、夕日を直接見ていると充分じゅうぶんまぶしい。ずっと見つめていると、オレンジ色が目に焼きついて、しばらくとれなくなりそう。

 なんとなくだけど、夕日のいちばん真っ赤な光や、昼間の太陽の真っ白な光よりも、このぼんやりしたオレンジのほうが、ずっとしつこそうな気がする。


 夕日から目を切って視線をさげると、坂道を少し進んだ先に、なにか落ちているのに気がついた。ベビーシッターの人が落としていったものだと思う。たぶんだけど。


 私はハイハイして、それに近づいた。


 それは手のひらサイズのちっちゃな紙で、よく見てみると、名刺めいしだってことがわかった。……これがうわさに聞く、名刺めいしか、……大人はみんな、かならず持ってるっていう……。


 私は正座せいざになって、名刺めいしを手にとってみた。


 名刺めいしは横長で、文字も横書きだった。助かることに、すべての漢字かんじに、丁寧ていねいによみがなが振ってあるみたいだった。


 名刺めいしのいちばん上には、



  おおきな株式会社かぶしきがいしゃ あかちゃんベイビー

  ベビーシッター卸売業おろしうりぎょう



 と書いてあった。


 ふーん、おっきな会社なんだぁ。それに、やっぱりあの人はベビーシッターの会社の人だったんだね。


 会社の名前の下には、ちっちゃな文字で、



  宴会部長えんかいぶちょう



 って書いてある。


 ……エンカイ? ……エンカイってあれだよね。お酒をいっぱい飲んで、みんなでいっしょにあばれるやつ。


 ……あの人、ぱらってるような感じしなかったけどなぁ……、……いや、やってることは充分じゅうぶんぱらいみたいだったけど……、ぜんぜんお酒くさくなかったし、顔も赤くなかったもん。私はなぜか、ちょっとだけ、つまんないなって思った。……なんだよ、宴会部長えんかいぶちょうっていって、名前だけじゃんか……、みたいな。


 『宴会部長えんかいぶちょう』って文字の下には、名前が書かれていたんだけど、それを見た瞬間、私はちょっとおどろいた。なぜってそこには、私のパパとおんなじ名前が書かれてあったから。

 苗字みょうじも、下の名前も、漢字かんじも、読み方も、すべてがぴったり一緒だった。


 でも、べつに、おどろかなくてもいいんだよね。だって、同じ名前の人なんて、きっと、なかにはたくさんいるんだろうからさ。


 私は顔をあげて、夕日をながめながら、思った。

 もしあの人がパパだったら、……なんか、ちょっとやだなぁ……、って。


 私は名刺めいしを短パンのポケットにしまった。明日にでも交番こうばんとどけようと思って。


 「よしっ」と私は立ちあがり、クルミのところに戻っていった。


 クルミのからはバラバラにくだけていて、……中身のほうは、完全にペチャンコになっていた。おこのきなんてレベルじゃない、もんじゃ焼きよりも……、……いや、薄皮うすかわクレープよりもつぶれてる……。


 しゃがみこんで、クルミの中身をかき集めようとしたけど、……アスファルトの表面ひょうめんいているぷつぷつの穴に、完全に入りこんじゃってて、つめでひっかいてもまったくとれなかった。


 私は息を止めながら、ゆっくりと顔をあげて、カラスさんを見た。

 カラスさんは、やけに無表情になって、私のことをガン見していた……。


「……ご、ごめんね」と私はカラスさんに言った。

「べつにいいよ」

「……いいんだ」

「ああ。クルミは世界じゅうにあるんだから」

「……北極ほっきょくにも?」


 クルミをこんなにしちゃったから、てっきりおこられるんだろうと思っていたのに、あんがいあっさりゆるしてくれて、それでほっとして、なぜかこんな質問をしちゃったんだけど、それでも私は、けっこう真剣に質問をしていた。


 だって、あんなに頑丈がんじょうるなら木も丈夫じょうぶそうだし、北極ほっきょくにクルミの木がえていてもおかしくないかもって思ったから。


 でもカラスさんは、私の真剣な質問を無視むしした。


 無視むしされてちょっとムッとしたから、「ねぇってば。……じゃあ南極なんきょくには?」とイジワルっぽく言ってみた。

 ……言ってから私は思った。……完全にぎゃくギレだって……。……それも、カラスさんは、少しもおこらないでくれたのに……。


 ……だけど、なんかもう、いまさら『ごめん』って言えなかった……。……ていうか、いつのまにか私、めっちゃイジワルな顔してカラスさんを見ていた……。……心のなかでは、『ごめんね』って思ってるんだけど……なんか、どうしても体が言うことを聞いてくれない……。


 ……そんでとうとう私は、両目を見開いて、『おいこら、なんか言ってみろ』みたいな顔しちゃった……。

 するとカラスさんは、遠い目をしながら、ポツリとなにか言った。


「ヘンペルのカラス」

「んっ? えっ? なんて? ペルペル? ペルペルって言った? ペルペルってなに? ねえカラスさん! ねぇ、ペルペルってなに? あ! わかった! あたらしいフルーツでしょ? そうでしょ、ぜったい! ねぇ! カラスさん? そうなんでしょ! それもみなみしまのやつじゃない? ねえ! ねぇってば! ちょっと、ねぇってばあ!」

「黙れ」

「……え……。……ひどくない? ……なんで、……なんで……?」

近所迷惑きんじょめいわくですよね」

「……た、たしかに」

「ですよね」

「……うん。ごめん」

「ふむ」

 ……ハム? なんでここでハムが出てくるの? と、私が混乱顔こんらんがおをしてみせても、カラスさんは知らんぷりで、首をまわして身づくろいを始めてしまう。


 急にあたりが暗くなったような気がして、私は後ろに振りかえった。


 夕日はいまにも沈みそうで、かろうじて頭のてっぺんが見えているだけだった。


 私はまたくるりと後ろに振りかえり、カラスさんを見た。


「あのさ……ホントは、クルミ食べたかったよね……? ほんとうにごめんね……、……クルミをこんなにしちゃって……。……ほんとうにごめんって思ってるんだけど……、……わたし、そろそろ帰らなきゃ。……帰りが遅いと、ママが心配しちゃうから。うちのママさ、見た目のわりに、意外と心配しいなんだよね」

「見た目は、あまりあてにならない」

「……そうかもしんないね」

「ときにむすめよ。『心身問題しんしんもんだい』というものを知っているか?」

「なにそれ? めちゃめちゃ最新さいしんのなぞなぞ……みたいな? ……てか、ホントにもう帰らないと。……あのさ、その……なんか知んないけど…………ひさしぶりに楽しかったよ。ありがとね、カラスさん」

「ちょっと待て。話はまだ始まってさえいないぞ」

「……ふふ、ごめんねカラスさん。もうすこし話していたいけどさ。わたし……帰らなきゃいけないんだよ、自分のいえに」

「おい、待てコラ。オレのクルミを返せ。いますぐ弁償べんしょうしろ」

「……こわっ……さっきと話違うじゃん……こわい映画のこわい人みたいじゃんか……。……そうだ、あれだったら、今度また来てよ。今日のわせをするから。めてたおこづかいで、クルミり買っとくよ。……それじゃ! またねっ!」


 私は、カラスさんに『バイバイ』と手を振って、またまた後ろに振りかえり、夕日に向かって走りだした。するとすぐに、後ろから声がかかった。


「行くなー! おまえにはまだはやい! はやすぎる!」


 ……ついさっき、物事ものごとにすぎることはないって言ってたじゃん……と思いつつ、カラスさんどんだけ構ってちゃんなんだかわいいなと思って足を止めかけるけど、頭のなかに、私の帰りが遅いのを心配するママの顔が浮かんで、私はけっきょく、そのまま走りつづけた。


哲学てつがく永遠えいえんに終わらないんだぞ!」


 ……あのカラスさん、ありえないくらい構ってちゃんだっ……、……永遠えいえんとかヤバすぎでしょ……。

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