年上の人なんだし、もっと丁寧ていねいな言葉を使ったほうがいいのかな、と私は考えた。でも、肝心かんじんのその言葉が出てこない。

 ……なんだっけ……あのほら、足をめちゃくちゃ丁寧ていねいに言うやつ……、……うーん、思いだせない……、……なんだっけぇ……。


「……お寿司すしみたいな……、……おこのきみたいな……」と私は、ベビーシッターの人の足首をつかんだまま、そうひとごとつぶやいた。

「きみ、今日は何日だ?」

 と、ベビーシッターの人は言った。すごくカッコいい声で、まるで声優せいゆうさんの声みたいだった。


 顔をあげると、ベビーシッターの人は真剣な目をして、私のことを見下ろしていた。

 いきなりしゃべりだすのにおどろいてしまって、私は『急にどうした?』と口に出しかけるけど、あわててその言葉をみこんだ。

 そんなことよりも、さっきまでの『月末げつまつ』のあらしが頭に浮かんできて、なんだか心臓しんぞうがバクバクしだした。


「…………あ、え? あ、あの……! ……あのぅー、えっと……あのあの、あのですね…………わわ、わたし、あんまりそういうのにくわしくなくてぇ、えっとその……う、うう……うんと……そのー、えっとあの……あのなんですけど、……じゃなくて……、もしかしたら、間違いかも、しれないんですけど……、……たしか月末げつまつ、……あっ……あのっ、いやっ、いえっ……、……。……三十一日だったかなぁ、なんて……思ったり、思わなかったり――」

「だよね!!」

「――ひぇえ! ごごっ、ごめんなさいっ! ……うわぁっ!」


 ベビーシッターの人の大声におどろいて、私は彼の足首から手をはなした。そして、その拍子ひょうしにバランスをくずして、そのまま地面にしりもちを突いてしまった。


 ベビーシッターの人は、私を追うようにしゃがみこむと、腕をのばしてきて、私の両手を両手にとった。てっきり、そのままひっぱって起こしてくれるのかと思ったけど、ベビーシッターの人はそのまましゃべりだした。


「ほぇ? なぜあやまる? なにをあやまることがある? きみはいい人、きみはすばらしい人。堂々どうどうと生きたらいい。……いや、生きてほしいんだよ」

「……。……は、はぁ、どうもです……。……が、がんばり、ます……?」

「それにしてもそうか……、そうかぁ……、……いやとうぜんだよ……、今日は月末げつまつ、そうさ、そうに決まっているよ……、でも、よかったぁ……よかった……。……今日はやっぱり、月末げつまつだったんだね……」

 ついさっきまで、はっきりした口調くちょうでしゃべっていたベビーシッターの人だったけど、言葉がなんだか湿しめってきた。……なんか、泣くのを我慢がまんしてるみたいっていうか……。

「……はい……たぶんですけど……」って私の声は、ちょっとだけかわいていた。

「よかったぁ、まともな人がいてくれて……。……すごく、ありがとう」

「えっ?」

あいしてるってこと」

「……。えぇ……?」

「きみのかわいい頭をほめたいから、なでなでするね?」

「……は……?」


 ベビーシッターの人はなにを思ったのか、私の頭をいきなり両手でわしづかみにすると、うらないの人が水晶玉すいしょうだまをそうするように、それか、イヌをかわいがるみたいに、わしゃわしゃとでまわしはじめた。


「ひぃっ――!!  う、うわぁあー! ちょっ、ちょっと、なにすんですか! は、はなしてくださいっ! このタイヘン!!」


 このままじゃヤバい……!! と私が思った瞬間、ベビーシッターの人は私の頭から手をはなした。そしてまた、さっきと同じように、肩をがっくりと落として、放心状態ほうしんじょうたいになってしまった。


 ……なにしてくれんねん……、ていうかタイヘンじゃなくてヘンタイだったわ……、とそんなことを思いながら、私は、爆発ばくはつしたかみを手グシでなおした。


「……もう、なんなの……、……女子じょしに向かってさ……」


 そう私がつぶやくと、ベビーシッターの人の顔に元気が戻った。

 それはなんだか、ちょっとカッコいいって思っちゃうような、やさしい表情だった。でもそれは一瞬だけ。すぐに泣き顔に変わってしまって、奥歯おくばをゴリゴリみしめながら、ボロボロと大粒おおつぶの涙をこぼして泣きはじめた。


 ベビーシッターの人は、悲しいんじゃなくて、うれしくて泣いてるっていうのは、なんとなくわかる。……でも、なんで泣いてるかは、私にはさっぱりわかんないし、なんか、そのほうがよさそうな気がする……。


 ベビーシッターの人は、けっこう長いこと泣きつづけた。たまに、まるでゲボ吐いてるみたいに、おぇおぇ言ったりしながら。たぶん十分くらいかな。


 ベビーシッターの人は泣きやむとすっきりした顔になった。そんで突然、まるで飛びあがるように、勢いよくその場に立ちあがった。


 私はそれにおどろいて、ベビーシッターの人の顔をガン見しながら、「……いきなりなんやねんっ」って口に出しちゃったけど、それは彼の声にかき消された。


「よかった! ちゃんとまわっていたんだ! ほんとうによかった……、地球は、今日もちゃんとまわっていたんだ。あは、あはは、あはははは! イヤッホイ!! コングラチュレーションズ! これは家に帰ってバンザイサンショウしなきゃ、いや、しなければならない、いいや、しないなんてことはゆるされない――」

 ベビーシッターの人はそう言うと、その場で、めちゃめちゃうれしそうな顔をしながら、体を目いっぱい使って、「バンザイっ、バンザイっ、バンザーイっ!」と三回バンザイをした。


 ……もうしちゃってるじゃん、と私が頭のなかでツッコんでいると、ベビーシッターの人は、急に夕日のほうに向かって走りだした。


 そして、人間とは思えないようなスピードで坂をのぼっていって、そのまま夕日の向こうに姿を消してしまった。


 ……足速すぎでしょ……まるでチーターじゃんか……。もしかすると、あれかもね。あの人は昔、陸上をやっていたのかも。


 自分が砲丸ほうがんげをしているせいか、ただそんなふうに思うだけで、ちょっぴりあの人に親近感しんきんかんを覚えてしまった。


 でもよく考えると、短距離走たんきょりそう砲丸ほうがんげじゃ種目しゅもくがぜんぜん違うし、そもそも走るってことなら野球やきゅうやサッカーのほうが近いくらいだし、あの人はねぼすけさんで、朝はいつも全力で走ってるから足が速いのかもしれないし、……なんでこんな気持ちになるのか、自分でもよくわかんなかった。

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