そうして、私の願いはかなえられた。


 そのちっちゃなインコが家に来てから、目に映る世界が、なんだか別物べつものになった。光ってるみたいで、ポカポカしてて、ずっと夏が続いているような感じだったし、夜になってもずっと太陽がのぼっているみたいでさ。


 彼女が家に来てからしばらくのあいだ、その姿をながめているのが楽しすぎて、頭からあることがすっかり抜け落ちていた。


 ある夜。


 ベッドに入って、……あーそろそろ寝ちゃいそう……ってときに、急にそのことを『思いだした』。というよりも、私の感覚としては、『発見はっけん』っていうほうが近いような気がした。

 だってその瞬間に、頭の上にカミナリが落ちてきたような衝撃しょうげきがあったから。もう大発見だいはっけんって感じだよ。


 ベッドの上で上半身を起こすと、自然とひとごとがこぼれた。


「そうだ……名前、……名前つけてあげないと、……名前……名前……、……そうだよ……そうじゃん……、名前……名前……名前名前……名前……」


 その日は月が出ていなくて、それに私は豆電球まめでんきゅうをつけると眠れない人だから、部屋は真っ暗だった。

 そんななかで、けっこう長いことぶつぶつ言っていたから、もしほかの誰かが、ドアのすきまから私のことをのぞいていたとしたら、めっちゃ怖かったと思う。……この子、とりつかれてるんか? みたいな感じでね。


 だけどその日はちょっと夜ふかしをしていて、もう眠くて眠くてしかたがなくて、私はベッドに入りなおして目を閉じた。


 それなのになかなか寝つけなかった。

 眠いけど眠れないのがずっと続いた。


 かといって、もう起きることもできなかった。まぶたが少しもひらかなくて、頭がずっしり重くて。ただ、ずっとずっと、どんな名前にしようかってことだけが、頭のなかをぐるぐるとめぐった。


 そのせいなのか、その夜は変な夢をみた。


 夢のなかの私は、スーツを着てネクタイをめていて、知らない街のなかをずーっと歩きつづけていた。

 それで、すれ違う人たちはみんな、私のことに気がつくと、『これはこれは……!』ってな感じに、あせってるとうれしいのあいだみたいな顔をして近寄ってきて、ポケットから名刺めいしをとりだして、それを私にさしだした。


 で、私のほうも名刺めいしを渡すのかといえばそうじゃなくて、なぜだか私はそのときだけヤギになっていて、ニッコリ笑っている相手に思いっきり頭突きをして地面に押し倒して、そのまま手に持っている名刺めいしうばってムシャムシャ食べた。


 すると相手はなぜか、「これは失礼いたしました……!」とあやまったり、「出なおしてまいりますっ!」とごまかし笑いを浮かべたりしたかと思うと、あわてて立ちあがって、その場から走り去っていった。それも、けっこうな全力疾走ぜんりょくしっそうで。短距離走たんきょりそうかってくらいに。


 そんな感じで私は、街じゅうをほっつき歩きながら名刺めいしを食べつづけた。

 でも、いくら名刺めいしを食べても、ぜんぜんお腹がいっぱいにならなくて、それどころか、食べれば食べるほどお腹がへっていった。


 その夢のなかで私は、かなりの時間をすごしたはずなんだけど、そのあいだじゅう、あたりの景色はずっと夕方だった。

 目に映るものすべてが赤茶色で、みんなかげといっしょで、誰の背中も迷子まいごみたいに不安そうだった。


 夕日は景色の終わりにのっかったまま、少しも動かなかった。


 たぶん、なにかがうまくいかないんだ、なにか失敗しちゃったんだ、もしかすると、どこかがひっかかっているのかも、だから思いどおりに沈めない、でも夕日は、ぜんぜんあせったりする様子もなくて、ただじっとしていた。


 たぶん、あきらめちゃったのかも、たぶんさ、私が見ていたのは、がんばってがんばって沈もうとして、やれるだけのことをして、それですっかりあきらめちゃった夕日だったんだよ、きっと。

 だってさ、現実の夕日よりも、なんだかずっとずっとさみしそうな感じだったから。


 そんな世界にいたんだから、お腹がいっぱいにならなくても、不思議じゃないのかもしれない。

 止まった世界なんだから、私の体が止まっていても、少しも不思議じゃない。

 あきらめちゃった世界なんだから、おかしなことが起こったって不思議じゃない。

 だって、あきらめちゃったら、誰だって投げやりになっちゃうよ。いつもはやらないことをしちゃっても、それは少しも不思議じゃないよ。

 ただ、それが世界にひろがったってだけのことなんだよ。


 はじめましてをして、ただそれで終わりで、そこから少しも進まない。物を食べても、ただそこで終わりで、あとはどこかへ消えちゃうだけ。


 街の人はみんな、私を見つけるまでは、ぼーっとした顔をして、ふらふらと歩いていた。


 人形にんぎょうみたいな顔。クラゲみたいに街をすべって。おんなじような表情。つまずいても、転んでも、誰かと肩をぶつけても、おこらない、なんにも言わない、痛がらない。ビー玉みたいな目。


 歩くたびに背筋が、植物のくきみたいにくねくね曲がる。お面みたいな顔。両腕を、ブランコみたいに、ゆらゆらたらして。写真みたいな顔。


 ほっぺたはゆるゆるなのに、少しも楽しそうじゃない。白い顔で、生きていないみたいで、サイコロよりも無表情なくらい。


 きっとみんな、歩き疲れておかしくなってるんだ。


 みんなみんな、行きたいところや、やりたいことも忘れて、それを忘れたことさえ忘れてしまって、なにも考えないで、ずっとずっと歩きつづけているんだ。


 私は、そのなかのひとりでしかなかった。だってさ、私だってなにも考えていなかったから。

 私もきっと、誰かがそばにいないときは、みんなと同じように、ぼーっとした顔して、ふらふら歩いていたんだ。けど、私がほかのみんなとひとつだけ違ったのは、ヤギに変身へんしんすること。


 ヤギたちの目はいつでも眠そうで、目を大きく開けていてもとろんとしてるふうだし、草をムシャムシャしてるときも、なんだかムニャムニャ言ってるみたい。


 ヤギの目は眠りの目。


 街のみんなはいくら時間が流れても、少しも眠そうな様子を見せなかった。同じ人をなんどか見かけたりしたけど、眠るどころか、休憩きゅうけいとかさえしていないみたいだった。


 たぶん、夕日が沈まないから、家に帰れないんだ。


 きっと、あの夕日がこっちを見ているあいだは、どんなに歩いても、誰も家には帰れないんだよ。


 暗くならないから眠くならないし、なれなくて、歩いた疲れがたまっていくだけ、疲れて、疲れすぎちゃって、自分のことも、好きなことも、やんなきゃいけないことや、大切な人のことも忘れて、もう、あれこれ考えるよりも、うんうんうなって昔のことを思いだそうとするよりも、歩いて歩いて、歩いて疲れているほうが楽に思えて、じっさいにそうなっちゃって、だからずっと、ずっと歩いて、歩いて、いつまでもそうして、だから、あんなふうになっちゃったんだよ。


 なんにも考えないで、歩いて歩いて、歩く人に。


 私のほうは、ヤギに変身へんしんするたびに、ちょっぴりずつだけど眠くなっていった。

 少しずつ体から力が抜けて、そのうち立っていられなくなって、気がつくと道路のまんなかに横になっていて、私はもう、目を開けていられなかった。

 息をするたびごとに、まぶたの裏に映るオレンジ色が、ゆっくりと火が消えていくように、真っ黒に変わっていった。

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