男の人はひとごとを終えると、どろりとにごった目で空を見上げて、ニヤリと笑った。


 ……なんだこの人……? なに言ってるのかさっぱりわからない……。めっちゃ怖い……。こんな暑いのに、気味きみが悪くて、サブイボがすごい出てる……。


 このままこっそりこの場から逃げだそうか、なんて考えた瞬間、また、どこからともなく音が聞こえてきた。


「コウ、コウ、コウ」っていう音。


 どこからだろうと耳をますと、今度はちゃんとわかった。その音は真上からだった。

 空を見上げると、十羽じゅうわくらいの大きなトリたちが、一生懸命いっしょうけんめいはねをはばたかせて飛んでいた。かわいい。それになごむ。……なんか……めっちゃいやされる……。


 トリたちは『あべこべざか』に沿うように、夕日に向かってまっすぐ飛んでいた。少しすると、トリたちのつくったかげが降りかかってきて、ほんの一瞬だけ薄暗うすぐらさを感じた。


 突然、男の人が全身をビクッとさせた。


 トリに集中していたから、私はそれにめっちゃおどろいた……。


 頭を守ろうとしたのか、両手がかってに動いてくれたんだけど……、おどろきすぎて勢いがつきすぎたせいか、私は、自分で自分の頭をゴツンとたたいてた。

 それに、脚の力が一瞬抜けて、もうちょっとで転ぶところだったし。

 あと、「は」と「う」と「ぎゃ」をまぜたような変な声が出ちゃった。それくらいおどろいた……。


 クルマでも来てるのかと思って後ろを振り向くけど、そんなこともなかった。

 じゃあこの人はなににおどろいたんだろう、と思って目を向けてみると、男の人はさっきまでの私と同じようにトリたちをながめていた。


 そうだよね。あんなに一生懸命いっしょうけんめいでかわいいんだもん。誰だって見とれちゃうよね。


 また男の人がビクッとした。二回目だから、さすがに私はもう、さっきの半分くらいしかおどろかない。


 男の人はビクッに続けて、右腕をさっきよりも速く、だけど変わらずぎこちなく、『ウウィーン、ガシャン』と動かして、双眼鏡そうがんきょうを顔の前にもってきた。

 そして、インドのダンスみたいに、顔を正面に向けたまま、頭を左右に二回ずつスライドさせると、最後に頭を『うにょーん』と突きだして、双眼鏡そうがんきょうのぞきこんだ。


「……あっ! ああ!! あのワタリドリの腰つき……、……たまらねぇじゃねぇかよ!」


 ……なんかもう、ぜんぶ台無しって感じ……。


 男の人はいきなり、夕日のほうへと走りだした。

 たぶんトリを追っかけてるんだと思う。

 けっこう足が速いけど……、走りながら全身をビクビクさせてる……。めっちゃキモい……。それに、ゲタの音がすんごいうるさい……。


 少し走ったところで、男の人は声をあげてさわぎはじめた。


 それは、近所じゅうにひびきわたるくらいの大声だったけど、不思議とうるさく感じなかった。なんだか、広いオレンジの空に、みこまれていくような気がして。

 私はそれに、あれに近いものを感じた。夕方の五時になると街じゅうで鳴る、あのなぞの放送の、ちょっぴり悲しいような雰囲気。


「待て! 止まれえ!! ……ああ、月明かりに染まる空は青々として……夜明けまえの空のようであるな……。こら、待てと言うにぃ……! ……いや……これはっ……さては、これは、そのまま夜明けなのか?

 ならば、この月の明るさは、なんだ??

 は、はは……これはおかしい……世界そのものが、俺をだましにかかっていると、そういうわけか? ……おい! 待てと言っているだろっ! なんども! なんども! なんどでも!!」


 男の人は必死ひっしに坂道をけあがっていくけど、とうぜん飛ぶトリに走って追いつけるわけない。

 トリたちはどんどん遠ざかっていく。

 しばらくすると、男の人は立ち止まってしまった。


 てっきりあきらめたのかと思ったけど……そうじゃないみたいだった。男の人は、左腕をアンテナのように天に向かってピンとのばすと、ノイズのようなザラザラした声をあげた。


「……なにぃ?? ……俺の頭のなかでしゃべるおまえ、……さては俺の本能ほんのうだな? なに…………、なるほど、あちらが近道と? そうかそうか、……なーる、ほぅほぅ、そうか、……それはいい……。


 統計学とうけいがくこわし、ついにはらいくし、そのておのれの喉元のどもとらいついたと? ……それはシンプルにうれしいな……。……まこと吉報きっぽうというものは、きれいに殺されたばしの、その事切こときれの声のようにさっぱりしている。


 ここに来て、ゲタうらないの呪縛じゅばくからのがれられるとはな。『年がら年じゅう』、つまり今風いまふうにいえば、『オールシーズン』ゲタをきつづけたかいがあったというものだ。


 ……ぉ……おお……、天にあられる神々よ……、……感謝かんしゃもうしあげる……、……俺にせいのよろこびをさずけたもうたこと……そればかりか……それをみすみすてた俺に……もう一度チャンスを与えたもうたこと……。

 『ありがとう』。

 ……もうまよいなど皆無かいむ。あとはおのれの運命うんめいをつかみとるだけだぁっ! ……おのれぇーー!!」


 男の人は、左腕をおろしながらこちらに振りかえり、もうスピードで坂道をけおりてきた。そんで、私のとこまで来ないうちに急に方向転換ほうこうてんかんして、近くの家のにわに入っていった。

 で、そのままエンガワにあがって、そこのガラスってって、家のなかに押し入った。


 すると、ちょっとのも置かないで、何人かの悲鳴ひめい怒鳴どなごえが聞こえた。それはしばらく続いたけど、少しするとおさまって、あとにはなにも聞こえなくなった。


 パトカーのサイレンが聞こえてくるとか、誰かが家から出てくるとか、そんなのはまったくなかった。

 あんまり静かだったから、なんとなくだけど、家にいた人とあの男の人が、このから消えちゃったんじゃないか、なんて私は思った。

 まあ、そんなわけないけど。


「ねぇ、あれはなに?」、私はカラスにそう聞いた。

「オレたちには関係のないことだ」

「……。えー、ホントにぃ?」

「おまえは、こののすべてのことが、自分に関係のあるものと思っているのか?」

 カラスの声は、なんか、すごくイジワルだった。

「……いや、そんなふうには思ってないけど……、ていうか、ちょっとカンジ悪いよ、……ちょっと聞いただけじゃん……っ……」


 私は言葉の最後のあたりを、ちょっとウソ泣きふうに言ってみた。

 だけど、カラスはあやまらないし、あたふたもしないし、なんなら、さっきと少しも変りなしだった。ただじっと私を見降ろしている。そして、突然ポツリとなんか言った。


「まるで赤子あかごだな」

「は? アカゴって……赤ちゃんってこと?」

「そうだ」

「それって……わたしのことを、赤ちゃんって言ったってこと?」

「ああ、間違いない」

「違うわっ! わたしまだ大人じゃないかもだけど、……それでも赤ちゃんじゃないわっ! すこしふざけすぎでしょ……、……わたしもうハイハイとかしてないしぃ!! しかもさ! してたのだって昔だよ……だってわたし覚えてないし! 覚えてないくらい大昔のことだよ!

 ……忘れちゃってても……知ってるもん……わたし……だって、だってそうだもん……。……ママから教えてもらって、知ってるもん。ハイハイけっこうすぐにやめちゃったって……、だからわたし、ほかの人よりハイハイしてなかったしぃ!!

 ……忘れてるけど……覚えてなくたって……ぅぅ……わたし知ってるよ……ちゃんと……ぅぅ……。 ……はぁ……! もうなんなのっ……! ……ぅぅ……うぅー、……んがぁー! ハイハ――!!」

「すこし落ち着け」

「……ぁ、あんたがねぇ……!」

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