第5話 結城りさ

 どうして私は屋上にひとり取り残されているのだろう。


 風が優しく吹いていて、やけに心地いい。


 いつのまにか怒りは消え去って、冷静なっていた。


 影野太郎。


 少しだけ見くびっていたかもしれない。


 私に争う度胸なんてないと思っていたのに。


 急に凛々しくなったかと思えば、扉まで施錠して閉じ込めるなんて。


 オマケに、ポケットに入っていたはずのスマホがない。


 もしかすると、ただ教室かどこかに忘れてきただけかもしれない。


 けれど、彼が盗んだという可能性も考えられる。


 そうだとすれば彼への評価は改めないといけない。


 単なる影の薄いどうしようもない生徒だと思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないのかも。


 私は彼のことを前から知っている。


 空気のような彼を認知したのは、この学校に入学してすぐの頃。


 どいつもこいつも私に夢中で、話したことすらない相手にも好意を抱かれることが普通だった私に、影野太郎だけは靡かなかった。


 


 その日、前日のバイト疲れからか私は珍しく寝坊をした。

 家族と別に一人暮らしをしている私には起こしてくれる人などいない。

 当時から自意識の高い私は自己管理を徹底しているつもりだったけど、それが自分を苦しめている節もあった。

 寝坊したからといってルーティーンを崩すわけにもいかず、身だしなみを整えることには時間を費やした。

 家を出る頃には、いつもより三十分以上遅れていたため、早歩きをすれば予鈴にギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際だった。


 焦った私は、遅刻を回避するために歩きではなく、走ることにした。

 せっかく整えた身だしなみが風圧で台無しにされても困るため、あくまでジョギング程度。


 そして、ショートカットを図ろうと、いつもは通らない細い裏道ルートを辿ったことが運命の分岐点だった。


 誰もいない裏道はスムーズに進むことができて、走るスピードを少しずつ上げた私。

 すると、それが楽しくなってなんとなく全力で走ってみたくなったのだ。

 別に裏道なら人目に付くこともないと、そこを抜けるまでの数十メートルを思いっきり走った。


 矢先に、『バンッ』。ものすごい衝撃が身体を襲った。

 一瞬、自分がどうなったのかわからなくて、車に轢かれてしまってもう助からないのかもしれないと思った。


 けれど、意識ははっきりしているし、衝撃こそあったものの転倒したわけでもなく、


「……大丈夫ですか?」


「あ、大丈夫です! すみません!」


 気がつけば、同じ制服を着た、私よりも背の高い男性が私を抱きしめるような形で受け止めていた。


 恥ずかしくなって、急いでその場を去る私を気にも止めず、彼は歩いていた。その瞳にはおそらく私は映ってはいなかった。


 それが影野太郎との出会いだった。


 遅刻することもなく、無事、教室に到着したものの、私は登校中に起きた事故が気がかりでその後の授業に集中することはできなかった。


 影が薄すぎる彼の顔を思いだすのに時間がかかりすぎたのだ。


 ボサボサの髪でさらに前髪で目も隠れていて、黒縁メガネとだぼっとした制服のシャツ。


 印象に残るようなタイプではない。


 仮に残るとすると気持ち悪さだけだ。


 当然、彼を探すのにも時間がかかった。


 同学年の生徒に彼のことを訊いても誰ひとりとして知らなかったのだ。


 そんな幽霊のような生徒、見つけるのは至難の技。


 そして今日、たまたまBクラスの教室を通りかかったとき、同じクラスの田中たなこが誰もいないはずの教室で談笑しているのが聞こえてきた。


 何事だろうかと目を凝らして教室を覗いてみると、もう一つの人影があった。


 ぼんやりとした、存在感のないその影を見た瞬間に私は確信した。


 これまで見たことがない影の薄さだったからだ。


 ようやく辿り着けたと思った。


「見つけた……影野太郎」


 そこで私は計画を練った。

 彼に近づくべく。



 偶然を装って、田中たなことぶつかり、教室に入る。声を漏らさないために、扉はしっかりと閉めた。


 Aクラスにすら、まだ誰も生徒がいないことは確認済みで、これならイケると思った。


 学園のアイドルとして、ポジションを確立している私が、実はとんでもない悪女だと知ったら、影野太郎は無視できるはずがない。


 私は彼の存在に気づかないふりをして、彼と仲睦まじく話していた田中たなこの悪口を放った。


 最初は無視していた彼も、口を滑らせたのか反応を見せた。


 そこからは私の掌の上。


 見る見るうちに、沼にはまっていき、終いには私の奴隷にまで成り下がった。


 捕獲完了。


 これで彼という人間を知ることができるし、いいように利用できる。


 はずだったのだ。


 なのに、どうして私は今こんなところでひとり空を眺めているのだろう。


 いつしか、チャイムが鳴り響く。


 一限目がもう時期始まるらしい。


 私はこれからどうしよう。


 なぜだか、無性にひとりで屋上にいる今が心地よくて綺麗な景色に吸い込まれそうになる。


 もう少しそばで見てみようかな。


 おそらくもう授業が始まってる頃、私は屋上の淵に立ち、届くはずのない綺麗な桜に手を伸ばした。


 あと一歩踏み出せば、落下して死んでしまうだろう。


 それなのに、恐怖心こそなかった。


 まだ終わるわけにはいかない。


 私にはやるべきことがある。


 確固たる目標があるため、道に迷うことはない。


 だから、今だけは心地のいいまま、このありのままの姿で、を演じないでいたい。


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