マッスル

 午後六時過ぎ、律と矢束蒼は北口から線路沿いに歩いてすぐのビル地下にある居酒屋の客となっていた。広い店内の片隅の狭苦しい二人掛けに向かい合って座り、落ち着かない様子でキョロキョロする矢束に「飲みもの」とメニューを渡す。

「……お酒は呑めません」

「別に呑まんでもいいけど。二年なんだよな? 二十歳過ぎてんだよな?」

 こくん、と頷く仕草は高校の教室の隅っこに置いても違和感がなさそうであるが。

「……何度かは呑みましたけど、美味しいと思ったことが一度もありません。苦くて、すぐ頭痛くなっちゃうし」

「苦くないやつは? こういう、カクテルとか」

「そういうのは悪い酔い方をするって聴きました」

「調子に乗ってカパカパ呑むからだろ。自分のペースでゆっくり呑めばそう気持ち悪くなったりはしねえよ」

 前髪の向こうの目を、メニューのとりわけカラフルな辺りに注いでいるのがわかった。おずおず、とスクリュードライバーを白くて細い指が差した。卓上のタブレットで、ついでにつまみもあれこれ頼んで、間も無く届いたジョッキと矢束が持つとオレンジジュースにしか見えないグラスを無言で当てる。

 マスクを下ろして、おそるおそるの感じで矢束が口を付ける。

「あ、ほんとだおいしい……」

 ぐいっと行きそうになるのを慌てて止めた。それこそ悪い酔い方をする典型だ。お通しの、小松菜と油揚げをごく適当に湯掻いて麺つゆを雑に掛けました、というものを「食いながらゆっくり呑め」と釘を刺す。一瞬、こいつをべろべろに酔わせて駅前に置いておけばまた「王子様」が釣れるかも知れんなという悪い考えが浮かんだが、律は言葉遣いこそ粗いものの性根は善良でありたいと思って生きている男である。

 飯を食う店は他にもたくさんあるが、わざわざここに連れて来たことには理由がある。

「この店に居るか?」

 ここは、九隅大生の御用達、特に体育会系サークルに所属する者が多く集う。料理のボリュームが多くて、コスパがいいのである。矢束の窮地を救った「王子様」はガタイが良かったと言うので、まあ安易な発想ではあるとは律自身も思うが、ここを選んだのである。

 腰を浮かせて店内を見回した矢束は首を振った。

「見た限りだと、いないみたいです。……なんかこう、王子様っていうぐらいだからもっとこう、お洒落なお店を使いそうな気がするんですけど」

「そいつが本物の『王子様』ならそうだろうよ」

 枝豆とイカの塩辛が届いた。食え、と促したら、こくんと頷いて小さな房を摘み上げて小さな口でちゅっと吸う。

「そいつは、あくまで『自称王子様』なわけだ。っつーことはさ、普段は俺らと同じで、ただの大学生やってんだろ」

「大学生は世を忍ぶ仮の姿であるという考え方ですか」

「どっちかって言うと、王子様の方が仮の姿だと思うけどな」

「三摩くん夢がないって言われませんか」

 うるせえよ。

 届いたフライドポテトを断りなく一本摘み上げて、お行儀良く食べ始めた矢束の頬は早くも少し赤くなっている。

「……僕は、王子様って憧れますけどね」

 二十歳過ぎの男が?

「二十歳過ぎの男が、って思ったでしょう。幾つになっても、そして男であっても、憧れていいと思います。寧ろ、男こそ王子様に憧れを抱いていいんじゃないでしょうか」

 早くも少し酔い始めているらしい矢束の舌は滑らかになっていた。

「だって、王子様って、もちろんその生まれ育ちによるところは大きいんでしょうけどもそれは一旦脇に措くとして、その振る舞いの、なんだろ、高貴さであるとか、……そう、ジェントルマンなところ、見習うべき点が多いと思うんですよ」

 身体と心の中にじんわりと広がるアルコールによって心地よく温かくなる。そしてアルコールは比重として水より軽いものであるから、浮かび上がるような感覚を齎すものだ、……なんてことを考える時点で三摩律も、ちゃんと夢を持って生きている成人男性であると言えそうだ。

「だから、仮にね、三摩くんが言ったみたいに、本当は僕らと大差ない大学生だったとしてもですよ、一瞬でも、仮にでも、ああやって王子様として振る舞えるだけの土壌があるっていうのは……、やっぱり僕は、尊敬に値するなって思います。僕は一生かかってもあの人のようにはなれないんだろうな……」

 串物が届き始めた。箸で串から解き放っていくなり、肉は矢束の口の中へ入って行ってしまうので、仕方なく律が串の根元半分の肉を食う。ゼラチンを加えて人工的にどろつかせたタレで、決して美味くもないが、矢束は文句も言わず食べている。

 矢束の言うことには一定の妥当性はあると思った。とはいえ律には王子様を尊敬する気持ちは、最大限に譲歩しても矢束の半分ぐらいしか浮かんでこなかった。

「……お前の話聴いてる限りだと、そんなもんに『憧れる』って気持ちにはならんけどなぁ」

「僕はですね」

 訊いてもいないのに、語り始める。

「自慢じゃないですが、力が全然ないんです。握力なんて、両手とも十三キロしかないですし、生まれてこの方、腕相撲で勝ったこと一度もないんです、女子にだって負けます、惨敗って言葉がしっくり来るぐらい。走らせれば転ぶし、走り幅跳びはまず踏切がぜんぜん合わないし、高跳びはバーに顔面をぶつけました。球技にまつわる各種の呪わしい思い出についても話した方がいいですか」

 頬杖を突いて聴いていたが、別に悪いもんでもない。途中で二杯目のビールをおかわりしたが、矢束のスクリュードライバーはまだ半分は残っている。

「お前が話したいならどうぞ」

「では、それについては割愛します。剣道の授業なんて地獄でした。だから、僕はずっと、ずうっと、生まれてから今日までずうーっと、馬鹿にされ続けてきたんです」

 こいつが王子様に憧れるのは、コンプレックスのせいなのだと結論付けて良さそうだ。あるいは、自身を悲劇のヒロインと定義づけるからこそ、ヒーローに憧れるのか。

「あの時だって、……あの時というのは、王子様に助けて頂いたときのことですけど、僕は自分が情けなくて仕方がなかったんです。帰り道でずっと泣きそうでしたし、家に帰り着いて玄関の鍵を閉めるなり涙が止まらなくなりました。どうして僕はああいうとき、何も出来ないんだろう。男のくせにこんなに弱いなんて! でも仮にいま、同じシチュエーションに陥ったとして、きっと僕はまた何も出来やしないんです。怖くて、震えて、おどおどして……」

 髪を掻き乱す矢束の手を見る、夏が明けた後でも白い彼の手にあって、とりわけ目を引くのは細い手首である。握力十三キロ、さっき言われたときには聴き流してしまったが、多分事実なのだろう。彼は彼の華奢な肉体をとても憎んでいるらしかった。

 だから、海溝の底からアルコールと絡んで浮かんできたような青黒く冷たい溜め息が長く尾を引いたのを聴いた後で、

「筋肉じゃねーかな」

 律は言ってみた。

「……は?」

「いや……、お前と王子様の違いって、筋肉があるかないかじゃねーかなと思ってさ」

 矢束が王子様に憧れるようになった理由の背景として挙げた、自身の情けない人生……、その端的な例として、中学の時だかそれとも高校の時のことだか判然としないが、体育の授業の話をした。運動が苦手というのは、それが歴然とした「強さ」の差のように見えてしまうものだから、自信にもなるしコンプレックスにもなる。

 しかし、矢束蒼、この小さく痩せた二十歳の男が、九隅大生であるというそれだけで尊敬する人間は、きっとたくさんいる。

 律は一浪してやっと入ったが、この男は現役で合格したようだから、それだけで律より優れていると言うことも出来る。ただ、備えている知力は表層に判りやすい形で顕れるものではないから、身体の大きさという記号に比べて敬意の対象にはなりづらい。

 であるならば、

「お前も身体鍛えて強くなればいいんじゃねーの」

 というのが、最も簡単なことだと律は思ったのだ。

「……それこそ、僕にとっては最も難しいことです」

 暗い顔で矢束は首を振る。乱れた前髪に分け目が出来て、その左目だけが覗けている。

「筋肉を付けるためには、運動をしなければいけません。僕には運動をするための体力からしてまず備わっていないんです。王子様はおろか、三摩くんぐらいの身体になることだって不可能です。トレーニングルーム、今日初めて足を踏み入れましたけど、あそこにある機材のどれを使っても僕は翌日ほとんど動けなくなるでしょうね」

 根本的に失礼なやつだということが、もうだいぶわかってきた。あるいは、弱さを自覚するがゆえにひねくれてこうなったのかもしれないが。

「俺も体力はそんなにある方じゃないし、トレーニングルーム使うようになったのは最近だ」

 ちょっと迷ったけれど、いいや、とスマートフォンの写真フォルダを開いて見せる。ボクサーブリーフを穿いた生白い裸の男が映っている。

「え、なんですかこれ気持ち悪い、なんで三摩くんのスマホには男の人のだらしない裸の写真が入ってるんですか」

「これ、俺」

 え、と矢束が口を丸く開けた。

 映っているのが首から太腿だから、律だと思われなかったのだろう。しかるに、それは律にとっては嬉しいことだ。あばらが覗けるぐらいに薄い胸板をしているくせに、腹が丸く膨らみ、弛んでいる。銭湯で自分の酷い身体に気付いた日の夜に、いましめのために撮って、トレーニングを始めた。運動のための体力がない、奇しくも矢束が言ったことは、律も実感したのだ。ちょっと走っただけで胃液が込み上げ鼻の奥からは血の臭いがして、嘘だろおい、マジかよ、どんだけ衰えてんだよ……、と愕然とした。はじめは猪熊沼を一周するのに二時間以上掛かったし、その三分の二以上はのろのろ歩いていたのだが、今では一時間ちょっとで、ほとんど休憩を挟むことなく完走出来るようになった。

 結果として、今の肉体を手にするに至った。もう一枚、矢束に見せるのは、つい数日前に撮った写真で、腹筋は、まあ教科書通り六つに割れているとまでは言わないがきちんと存在感が取り戻せたし、八枚切りの食パンみたいに平かった胸板は、まあ六枚切りぐらいの厚みにはなった。相手が矢束でなかったら見せたりはしなかっただろう、……特に女子には決して。だけれど、お前にだってこれぐらいは出来るはずだという言葉に説得力を持たせる程度の力はあると思った。

「筋肉……」

「そう、筋肉。……お前はさ、そのヒョロヒョロの身体で、運動が得意じゃない、自分が弱いと思ってる、……思ってるだけじゃねーな、実際それで嫌な思い、情けない思いをいっぱいしてきたんだろうよ。その、酔っ払いに絡まれたときもさ」

 僕は弱い、僕は何も出来ない……。

 現状は、そうかも知れない。しかし筋肉というものは、程度の差はあれ誰の身体にも備わっているものだ。矢束の身体にだってそうなのだ。

 そして、筋肉は育つ。

「酒いっぱい呑んでも、肝臓が鍛えられて酒に強くなるなんてことはありえないけどさ、筋肉は鍛えれば強くなる。ちゃんと正しいもん食って、正しいやり方で動いてってやってれば、筋肉はお前が思ってる以上に育つし」

 そして、お前に自信を与えるだろう。お前自身の肌の下、お前自身の努力によって育った筋肉が、お前にそれを与えてくれる。

「僕が筋肉を……? こんな……、三摩くんみたいにカッコいい身体に、僕が……?」

「俺のは別にカッコよくはないけどな。知り合いに加蔵っていう、すげーのがいるよ。背も高くってな。でもそいつも、鍛え始めたのは、自粛が始まったぐらいの頃だって言ってた。それまではヒョロヒョロのモヤシで」

「お、お友達のことそんな酷く言ったらダメですよ」

「そいつが自分で言ったんだよ。『このままだと自分が嫌いになりそうだった』って。一念発起して鍛え始めて、今じゃ立派になったもんだよ」

 実は、律も初めは「ようやるよ」と嗤っていたのである。そしてトレーニングというのは、いきなり成果が現れるものではない。リモート授業が続く中、たまには会わないかと誘われて、まあちょっとお茶するぐらいならそんな肩身の狭い思いをすることもないだろうと思って会ったのが、加蔵がトレーニングを開始してから三ヶ月後のことで、……見違えるほど立派な身体になっていた。かつて、どこか卑屈そうだった表情も、精悍なものに変わっていて、それを目の当たりにしたことが、律のことものちにトレーニングに駆り立てるきっかけになったのである。

 矢束は、その左眼に希望の光を映し出していた。まつげなげえな、と思いながら、律はそれを眺める。彼の見る光は、まだ遥か遠く、とても弱々しいものでしかない。しかしついさっき、ほんの数分前まで矢束蒼は自分の生きる道にそんな光が存在することさえ知らなかったのだ。

 気付けば矢束のグラスは氷だけ残して空になっていた。律もビールだけではつまらない。

「他にもなんか呑んでみるか?」

 こくん、矢束が頷いた。

 そして、初めて微笑みを浮かべて見せた。

「こういうのだったら、美味しいので、もうちょっとだけ呑んでみたいです。ねえ三摩くん、これは美味しいんですか」

「カルーアミルクか。俺は甘いもんあんま好きじゃないからなぁ……、甘いコーヒー牛乳好きならいいんじゃね?」

「じゃあ、これにします」

 律は芋焼酎を頼んだ。まだ話さなければいけない、……いや、律自身にその必要があるわけでは全くないが、それでも矢束が王子様を探したいも思うのであれば、その方向性について議論して行かなければならない。

「三摩くんは、見た目よりも優しいって言われませんか」

 大きなお世話だと思いながら、……こういうやり方はどうだろう、あるいはこういうのは……、なんて考えを巡らせる。下に弟妹がいるわけでもないわりに、昔から人の世話を焼くのは嫌いではない方である。

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