キャリー

 嫌いではないのだが、好きでもない。

「えーっなんでぇ、嫌です嫌ですまだ帰りません、もう一軒、ね、もう一軒行きましょうよう」

 九隅大学の最寄駅である猪熊駅北口。午後九時を回った辺りには酔いも回って騒がしい大学生が、帰るの帰らないのと言い合っているシーンは珍しいものではない。だから律と矢束もまた、病禍を経て、「新しい日常」どころか以前のままの形で戻ってきた風景を形成する要素の一つとなっていた。

 北口には駅と各方面へのバス停を繋ぐペデストリアンデッキがあり、駅から吐き出された通勤客にとってこの浮かれた大学生たちの存在は目障り極まりないはずだ。矢束が王子様に救い出されることとなった一件も、形を変えて今日もいつどこで起きてもおかしくない。だから駅で張っていようとさっき律は言って、矢束も「意外と冴えてますね」なんて嫌な言葉で同意してくれたのだが、そこから十分もしないうちに、……具体的には長い時間をかけてほとんど氷も溶けたカルーアミルクを飲み干した辺りから、矢束の酔いはもう一段階進んでしまった。

 酒に弱くて、ビールではすぐに頭が痛くなると言っていた矢束である。生まれて初めて心地よい酔い方をして、アルコールとチークダンスを踊っている気持ちなのだろう。

「行かねーよ馬鹿。っつーかお前さっき『明日一限からだから九時にはおうちに着きたいです』つってたじゃねえかよ」

 八時前ぐらいの段階で「もう一軒行ってみるか」と誘った律への返しがそれだったのだ。

「知りません、知らないです。……えぇ? 誰ですかそんなこと言ったの、ドン引き。僕が一限からなのは確かです。倫理学です。三摩くんは」

「文学史。山城教授の」

「じゃあそんなもん出なくていいです。僕去年履修しました。試験の前に過去問見せてあげます」

「つっても、休み多かったらそもそも単位取れねえだろうがよ」

「前期何回休みましたか」

「一回も休んでねえ」

「じゃあ大丈夫です、三回まではセーフ」

 気が弱い分だけしっかりした男なのだろうと勝手に考えていたのだが、現状の矢束はゆるゆるである。髪の毛もぐしゃぐしゃであるし、マスクは店を出てからもずーっと外しっぱなしだ。

 困ったな、というよりは、

「ああもう……、めんどくせえなお前は……」

 という気持ち。矢束はへらへら笑いながら律の腹やら胸やらをシャツの上から好き勝手にまさぐり、

「あーそうだ、そうだそうだ、三摩くん僕に筋トレ教えてください出来るだけ楽に逞しくなれるのがいいです、あの王子様ほどでなくてもいいので。三摩くんレベルでいいです」

 面倒くさいのみならず失礼極まりない話であるが、酔っ払いを叱り飛ばすほど意味のないことはないだろう。

 さてどうするか……、困惑して立ち尽くす律の背後から、

「もし。そこの人」

 若い声、しかし妙に老人っぽい語り掛けがあった。

 振り返ったところにいたのは、律よりも、軟体生物と化した酔っ払いの矢束よりももっと小さな、中学生である、……と思った。恐らく百六十もないであろう背の低さ、それでいてバランスの取れた顔の小ささ、真っ黒で癖のない髪、白のカットソーを痩せた身体に絡み付け、左肩から右の腰にサコッシュが貼り付いている。塾帰りにしては身軽だ。

「突然申し訳ありません。お連れの方、大変ご機嫌がよろしいご様子でいらっしゃいますね」

 高いけれど、声変わりはしている。癖のない前髪の掛かる細い眉に二重瞼、黒いマスクに覆われてやはり顔の下半分は伺えないものの、判る範囲だけで言えば優美な顔立ちをしている男だ。

 特徴的なのは、涙袋の目尻側が少し紅く染まっていることで、だとするとこの人物も酒気を帯びているのかも知れない。しかし立ち姿も喋り方もしっかりしていた。

「はぁい、ごきげんでーす、うふふふふぅ」

 話題が自分に向いていることに気付いたのだろう、言われなくてもわかるわいというレベルの上機嫌さで反応した矢束に、涙袋の紅い男は眉一つ動かさず、「それは大変結構なことです」と頷いた。

「ところで、あなたは」

 また律の胸やら腹やらをまさぐり始めた矢束に辟易しながら、どこかしら慇懃無礼な感じを与える男に顔だけ向ける。

「なんすか」

「つかぬことをお伺いしますが、こちらの方のお宅がどちらか、ご存知でいらっしゃいますか」

 本当につかぬことだ。

「まあ……、どこの駅かは知ってますけど」

「それは結構。それなら、あなたが責任を持って送って差し上げることが出来るというわけですね」

 は? と律が声を返すより先に、

「あー、それいい、いいですねいいですねぇ」

 矢束が歓声を上げた。

「そうだそうだ、そうすればいいんですよう、三摩くんいっしょに僕んちくればいいんです、ほんでもってぇ、僕に筋トレ教えてくださいっ」

「あなたは、筋トレに興味がおありなのですか」

 矢束に負けず劣らず貧弱な身体付きの男はそこで初めて表情を動かした。と言っても、少し眠たげでありながら微かな険を感じさせる目を、僅かに大きく丸くしただけだが。

「なかったんですけど、今日からあるようになりました。だから、僕はね、いまに、この人ぐらいの身体になりますよ、なってみせますとも。そんでもって、いつかはね、僕も、王子様になるんです!」

 小さな拳を作って、細い手首で持ち上げて天に突き上げる。

「王子様、そうですか。それはとても素敵ですね」

 男はまた表情を動かした。それはたぶん、笑ったのだと思う。矢束があまりに滑稽なことを言ったものだから、なんだかガラスで出来ているみたいに見えたこの男も、心を羽ぼうきでくすぐられたような気持ちになったのではあるまいか。

「でしょう、素敵でしょう、僕はやりますよ、素敵になってみせます、見とってくださいね!」

「はい、楽しみにしています。ご無理のない範囲で頑張ってください」

 これ以上矢束をはしゃがせておいてはいけない。この赤涙袋はどうやら本当に矢束のことを案じて話し掛けて来たようで、またそれ以上でも以下でもなかったらしく、

「では、これにて。ご機嫌よう」

 と気障ったらしい仕草を嫌味に感じさせない優雅さで身を翻していった。仲間がいるのかと思ったが、しばらく歩いた先で立ち止まって、ぼんやりとこちらを眺めている。これでは律が矢束を置いて帰るようなことは出来かねるし、矢束がまた怖い目に遭いかねない……。山北台までは往復でも十分程度だし、面倒くさいことこの上ないがそれぐらいしてやってもいいか、と善良なる律は溜め息ひとつで覚悟を決める。

「ほら、行くぞ、……自分で歩け」

「おんぶしてください」

「しねえよ!」

「僕もうかれこれ五年は誰にもおんぶしてもらってないですよ、昔はみんなしょっちゅうしてくれたのに! なんで!」

「知らねえよ……」

 なかなかここまで「へべれけ」という言葉が似合う状況に陥る者もレアではあるまいか。

 俗説の域を出るものではないが、という前置き付きで作品研究の講義で教授が言っていたことが思い出される。

 ……「へべれけ」って言葉がありますねぇ。あれは、ギリシャ語の「ヘーベーエリュケ」から来たっていう説があるんですね。これは「ヘーベーのお酌」って意味です。ゼウスとヘラ、この二柱の間に生まれたヘーベーにお酌をしてもらったもんで、嬉しくなって何倍もおかわりをして酔っ払っちゃったって言うんですねぇ。ああそういえば、いま私は二柱って言いましたけど、神様を柱で数えるのはこの国特有の……。

 ヘーベーというのは後にヘラクレスと結婚したということだから、女神である。お酌をされてついつい呑み過ぎてしまったいうことは、きっとグッドルッキング女神だったのであろう。律は女神ではないし、まあノーマルルッキングであればいいと思っているのだが、矢束はこの通りのありさまである。

 山北台にはすぐ着いた。一人で勝手に笑っていた矢束は、今度は勝手に「ねむいです」とほざき出した。

「ねえ、三摩くんおんぶしてください。おんぶ。もう歩きたくありません」

 不快な酔い方ではない。いちいち突っ込むのがちょっと面倒くさいぐらいで、「こいつと酒を呑むのは今回だけにしといた方が良さそうだな」とまでは思わなかった。病禍が世界を覆ってからというもの、どんな内容であれこの時間まで誰かと喋るなんてことは一度もなかった。自覚はなかったが、なんだ、俺も人並みに寂しいなんて思ってたのかなぁ。

 ……などと考えながら、結局背中を貸してやっている。軽い身体だった。

「ありがとうございますねぇ。あ、そっちです。改札出て、階段降りて」

「……待ておいお前どこまで俺に運ばす気だ」

「ぜひともおうちまでお願いします運転手さん」

「運転手じゃねえわ。金取るぞ」

 大体、人をおんぶしたままどうやって自動改札を抜けろと言うのか。当然のように律は周囲を行き交う人々からの無遠慮な視線を浴びることにもなっている。なお、改札は有人窓口で駅員の手を煩わせて抜けることとなったし、運転手としての報酬は「そういえばこの間、実家からお酒が送られて来て、でも今日呑んだのみたいに美味しそうじゃないので、だから、僕は呑まないので三摩くんにあげます」という矢束の申し出を飲むことにした。居酒屋で聴いたが、この男は酒どころの出身だ。

「そこ、右に曲がって、……白いアパート、三階建ての、二階です」

 おんぶで十分余り。さすがに疲れて足腰がだるくなって来たし、汗もかいた。酒を受け取って帰ったらもう一回シャワーを浴びようと心に決めて、各フロア四部屋あるうちの一番奥まで辿り着いたところで、

「はーい、ありがとうございましたぁ」

 と背中がやっと軽くなった。矢束は少し酔いも醒めた様子である。元よりジュースみたいなカクテルを二杯しか呑んでいないのだから、へべれけ状態になるにしても瞬間的な話ではあろう。

「いいとこ住んでんだな」

「そうですねぇ、わりと言われます。仕送りがあるので。どうぞ、麦茶が冷やしてあります。報酬の、まあ消費税だと思ってお納めくださいな」

 鍵を開けて、招かれるまま上がる。玄関から短い廊下にかけて、矢束が点した灯で、広くはないが新しく、またよく片付いていることが判る。

 廊下の左手にドアが二つある、ということはバストイレ別なのだ、羨ましいことである。廊下突き当たりのドアを開けると八畳ほどで、正面奥の南向きの窓にベランダ、左手前に広々としたベッド、右手前には一口の電熱コンロと、独り暮らしサイズの冷蔵庫、そして右奥には机と本棚。

 いい部屋だ。

「どうぞ、適当に座ってくださいね。床に直接だと痛いので、そこらへんのクッション使って」

 麦茶は彼が冷蔵庫から取り出したポットからグラスに注がれ、卓袱台の横に転がっていたクッションに尻を乗せて座った律の前に置かれた。

「よく人が来るのか」

「三摩くん意外と鋭いって言われません?」

 クッションは二つある、グラスも二つ、そしてベッドは、痩せた矢束が独り寝をするには贅沢な広さである。

「ちょっと前まで、よく来てた人がいたんですよね」

「彼女?」

 前髪は、いまは元の通り厚ぼったく目に降りている。マスクは家に着くなり外していた。半分見える時点で整った顔であることは判るのだから、そういう相手がいたことに驚きはない。歳上だったんではないか、なんてことを何となく想像していたが、「これですお酒」と箱入りを差し出す。

「おっ……、お前これ」

 暁星点描、という銘。

 おんぶの礼に出すようなものではなく(タクシー代に換算したって七百円程度である)現実的に矢束が役立てられそうな方法としては、

「単位が足りなくてゼミが取れんとかなったときに酒好きの教授に差し出すようなもんだぞ……」

 というものが思い付く、

「これ、焼酎ですよね?」

「日本酒だよ」

「そうなんですか、違いがよく判りませんけど、僕が呑んでも美味しいと思わないに決まってますし、幸い単位にも困ってませんので」

 もちろん律も、何せ一浪してまで入った大学である、よほどのことがない限りは休みはせず、もちろんサボったこともない。

「そんなに高級なものなんですか……、ふーん……」

「惜しくなって来てんじゃねえよ、もう貰ったからな」

「いいですよ、僕には使い途なさそうですから。でも、……日本酒って美味しいんですか」

 こいつには、多分味は判るまい。いや、律自身もそんなに判るわけではない。日本酒の美味さが判るようになるためには、たぶん、いまの倍は生きて、いろんな酒と親しんで、という人生経験を積まなければならないのだろう。

 じっと木箱を、髪の向こうの目で見つめた末に、

「……僕も一口だけ呑んでもいいですか」

 なんてことを、矢束は言い出した。

 ここで難色を示したなら、きっと矢束は「三摩くんってケチ臭いって言われませんか」なんて言うのだろう。言われたって別にいいのだが、開けたからにはきっと律だって呑みたくなる、これは人情というやつだ。

 一合で「タクシー代」に釣りが来る。

 麦茶を空にしたグラスを洗い、木箱の中から現れた白くて美しい瓶の封を解き放つ。ほんの一口分だけ、グラスの底に垂らしたものを鼻をひくひくさせて嗅いで、「うわーすごいお酒臭い」と暁星点描に極めて無礼なことを言う。本当は呑む資格のない口に、舌に、そうっと吸うようにして呑む矢束から目を逸らして、律はその驚くほど華やかな馨を楽しんでいるうちに、酒の方から呑んでと強く求めて来たのを感じた。そんなこと、あるはずがない……、しかし抗いがたい欲に戸惑っているうちに、気付けば舌の上に丸く甘い味が膨らみ、あっという間に消えてしまった。喉から心臓に掛けてが切なく熱くなり、か細くも確かな余韻が、ファンシーな言い方を選ぶならほんの小さな妖精のように顔の周りをふわふわ舞っていた。

 今まで口にしたどんな酒よりも美味である、という感動に震えそうになるのと同時に、律は軽い絶望に苛まれることとなった。俺がこんなに美味い酒を次に呑むのは、いったいいつになることやら。ほんの数ミリリットルとはいえ矢束に呑ませたことを後悔したくなった。

 と。

 消え入りそうだった余韻が、パッと強い光を伴って瞬いた。

「三摩くんは、美味しいんですか? これ」

 不思議そうに言って首を傾げる。その顔が、天井を背にして目の前にあった。どういうことかを瞬間的に把握するためには、恐らくもう少し冷静な、具体的には素面の脳が必要だったのだろう。

 矢束に押し倒されている、ということを理解するには、……去っていったかに思われた暁星点描の余韻が再び鮮やかに戻ってきた理由をまた考え、この男の唇によってそれが齎されたのだと気付くためには、もうさほど時間を要することはなかったけれど、反射的に払い除けるにはあまりにも、……あまりにも、その味も馨も甘美に過ぎた。

 それでも、まずこう問わなければいけないだろう。

「何してんだお前」

 矢束は静かに笑っていた。前髪が垂れて、律には彼の全貌が逆光の中でよく見えていた。頬はまだ紅いし、双眸はこれまで何度か見てきた中でも一番優しい形になっていることが判った。

「……嬉しかったんですよ、すごく、すごーく嬉しかったんですよぉ」

 その気になれば矢束の身体ぐらい容易く跳ね除けることが出来るはずだ。ただ、そこまで器用ではない律には、必要最低限のダメージだけを矢束に与えるのみに留めることは恐らく不可能だろう。

「僕、ねぇ、すごく嬉しかったんです。三摩くん、僕ともっと仲良くしましょうよ」

 こいつは。

 こいつは……。

 甘ったるい声で言う男の顔を見上げて、律はただ戦慄しているほか出来なかった。「LGBTQ+」という言葉が頭をよぎった。あんまり否定的なことを言ってはいけないのではないか、なんてことを思ってしまう時点で物の見方がフラットとは言い難い律であった。彼らに対してのみならず、あらゆる差別とは無縁でいなければいけないのであるが。

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