第3話『夏祭り』

「なあ沙絵、今度の土曜、夏祭り行こーぜ!」

 夜、エアコンを効かせた自室で夏休みの宿題を解いていると着信があり、開口一番虎子が言った。

 相変わらず、思い立ったが吉日みたいな話の振り方だった。

『夏祭り…確か地元のは終わってるよね?』

「ああ、そっちはリカコたちと行った」

 またアイツらと出かけたのか。

 虎子の学校での付き合いには口を出さないようにしている。

 中学の3年間、私と虎子は別の部活に入り、別のコミュニティに所属していた。

 その影響は高校生活にも波及していて、私たちの友達はほぼ真逆のタイプと言っていい。

 恋人同士とはいえ、お互いの交友関係にはなるべく干渉しないようにしていた。

 まあ、それでも時々口出しをしてしまうのは、虎子が無用なトラブルに巻き込まれないか、心配だからだったりする。

 周囲にクラスメイト以上の関係は悟られないようにする。

 それが私と虎子の間で決めたルールだった。


『じゃあ、どこまで行くの?』

「電車で30分くらい行った田舎のところ。そこならクラスメイトや友達も多分来ないだろ?」

 高校受験を終えた3月、虎子に告白されて私たちは恋人同士になった。

 それから数ヶ月、虎子と外へ出掛けた回数は数えるほどしか無かった。

 地元や学校の周辺はもちろんNG。

 観光地に行く時はなるべく人気の少ないところを調べて細心の注意を払って出掛けるようにしていた。

 その事を理解した上で、虎子は私と夏祭りに行けるように小規模な祭りを調べてくれたのだろう。

 その気遣いに申し訳ないと思う反面、うれしく思う。

『……わかった。いいよ、行こう夏祭り』

「よし!……それでその……沙絵に、1つお願いがあるんだけど……」

『何?改まって』

「あ、あの…さ、沙絵の浴衣姿……み、見たいな…って」

 しんみりとした声音に頬を染めて上目遣いにおねだりをする虎子の姿が想像されて、こちらまで照れる。

『に、似合わないと…思うけど…』

「そんなことない!沙絵、黒髪綺麗だし、ソシャゲの弓使い、葵たんみたいな和服美少女になるって!」

『そ、そしゃげ?あおいたん?』

「あ、いや…。と、とにかく!沙絵は絶対浴衣似合うし可愛いから、着てくること!」

『はあ……まあ、その方がクラスメイトにバレにくいかもね』

 併せてメガネの代わりにコンタクトをして、母親にヘアアレンジもして貰えば、その確率も大分下がりそうだ。

「じゃ、じゃあ!」

 期待に満ちた声音に、くすりと笑って応えた。

『うん、いいよ』

「へへ、やったぜ!」

『その…あ、あんまり期待しないでよね』

「それは期待しての裏返しって事でいいのかな?かな?」

『違うわよ』

「いやー、でも沙絵の浴衣かぁ……うん、エロい」

『何でよ!』

「ふへへ。いやー、今から楽しみだぜ!じゃ、おやすみ~♪」

 相変わらず話を聞かないアホ虎だった。



 翌日のお昼、リビングで雑誌を読んでいる母親に声をかけた。       

『今週末、夏祭りがあるんだけど、浴衣の着付けをお願いしてもいい?』

「別にいいけど……誰と行くの?」

『友達……だよ』

「な~んだ、てっきり彼氏とデートでも行くのかと思ったわ」

 母親が冗談半分に呟く。

 私は苦笑いしながら応える。

『…お母さん、私にそんな人、居ると思う?』

「ふふ、さあねぇ…あ、そういえばたっちゃんから聞いたけど、虎ちゃん週末に夏祭りに行くって言ってるみたいよ」

『へ、へぇ~。そ、そうなんだ…』

「誰と行くのかしらね?」

 母親が私の横顔を伺うように見つめてくる。

『さあね、私に聞かないでよ。それじゃ、当日お願いね』

 私は平静を装いながら視線から逃れるようにリビングを後にした。



 夏祭り当日、私たちは会場の最寄り駅で待ち合わせをする事にした。

 浴衣に合わせて母親にアレンジして貰った前髪が、左右に分けられて普段隠れているおでこが露わになっていて落ち着かない。

 白地に薄いピンクや藍で朝顔の絵が描かれた浴衣に花和柄の巾着を持ち、慣れない雪駄をカラコロと鳴らしながら歩いた。

 うぅ、恥ずかしい…。

 今更ながら気付いたが、これじゃあまるっきりデートに気合いを入れる女子そのままじゃないか。


 待ち合わせ場所に行くと、虎子がすでに待っていた。

『ごめん、待った?』

「……」

『虎子?』

 虎子の前で水色のマニキュアをした手を振る。

 虎子は私を見つめたまま、ぽけーっと固まってしまった。

『おーい』

 反応がない。

 私はため息を1つ吐くと――ペチン!

「痛ぇっ!」

 デコピンを受けた虎子が呻いてしゃがみ込む。

『目が覚めた?アホ虎』

 私はクスクス笑いながら虎子を見下ろした。

「お、おう…てか、もうちょい優しく対応できないのかよ?沙絵は私に対していつも肉体言語なんだよなぁ」

『虎子にはそれが一番わかりやすいかなって』

「ひでぇ…」

『それに、こんな事できるの虎子だけだしね』

「そっか、私だけ……へへ…」

 虎子が急にうれしそうな反応をする。

 しまった、あんまり叩かれ過ぎておかしくなちゃったかな?

「つまり沙絵にとって、私限定のスキンシップもとい愛情表現ってやつだなっ!!照れる」

 相変わらず解釈の仕方が明後日の方向へ突き抜けていた。

 いっそ清々しいな。

 私は訂正しようとして、にひひっと笑う虎子を見ると、何も言えず、放置する事に決めた。

 ……べ、別に図星とか、そういうんじゃないんだからねっ!


 祭り会場へ向かいながら並んで話す。

『ねぇ、1つ聞いていい?』

「ん~?」

『何で虎子は普段着なのよ』

 私はむくれて文句を言う。

 虎子は白のスニーカーにダメージジーンズ、グレーのTシャツ姿だった。

 健康的な小麦色の虎子は麦わら帽子とひまわり畑が似合いそうだった。

 それはさておき、私がせっかくバレないようにしていても虎子が普段着じゃあ意味ないじゃん。

「だってよ、私が男っぽい格好してれば、コブ付きって勘違いした奴らは寄って来ないっしょ。それに、今日の沙絵は特に可愛いからな」

 そう言って、虎子は手に持ったベースボールキャップを目深に被る。普段結んでいる短い襟足は帽子の中に隠れている。

 私は頬が熱くなるのを感じた。

 でも、顔を隠そうにもアレンジされた髪では全然隠せなくて、俯くことしか出来ない。



 虎子のそういうストレートな物言いとか、本当止めて欲しい。



『か、可愛いく…ないし…』

「んなことねーよ、はわああぁ⭐浴衣姿の沙絵ちゃん葵たんに似て可愛いよう。いつもの3割増し増しに可愛いよ。沙絵ちゃんに今すぐハグしてチューしたい♪くらいに可愛いよ」

 何か微妙に某中華料理店の表現みたいのが混じっていた気がする。

 私は虎子のひょっとこみたいな口を押し退けて抗議した。

『ちょ!何恥ずかしい事を更に上書きして言ってんのよ!アホ虎ぁ!』

「へへっ、照れてる沙絵も可愛いぜ」

 親指を立てて「いいね!」みたいにする。

『…だ、だから、そ、そういうの今はいいから!』

?」

 虎子がニィッと八重歯を覗かせる。

『もう、知らない!』

 私は顔を背けると虎子を置いてさっさと歩き出した。


 そんな他愛のない話をしながら会場に着くと

いつにも増してテンション高めな虎子が私の手を引っ張る。

「沙絵!早く早く!!」

『ちょっと、そんなに急がなくても縁日は逃げないわよ』

「そうだけど、時間は待ってくんないだろ。沙絵と一緒に色々見て回りたいんだよ」

『わかったけど、その、もう少しゆっくり歩いてくれない?』

 私が雪駄を履いているのに気付いて虎子がしゅんとする。

「ご、ごめん!」

 まったく、笑ってると思ったらしゅんとして、どーせまたすぐニコニコするのだろう。

 ころころと表情を変える様は幼子みたいだ。

 私は周囲を見回してから、虎子の手を取るとそっと恋人繋ぎした。

「沙絵?」

 ぷいっとそっぽを向きながら呟く。

『ほ、ほら…転ばないように、ちゃんとエスコートしなさいよね』

「お、おう。任せろ!」

 虎子が快活に笑う。

「縁日の虎子さんの実力魅せてやんよ!」

『…何それ?』

「さあ?何だろ?」

 適当な思い付きだった。


 虎子とかき氷を食べた。

 せっかちな虎子がすごい勢いで平らげて、案の定、額を押さえ呻いていた。

 今時、男子小学生でもやらなさそうだった。


 出来立てのたこ焼きを丸ごと口に含んだ虎子がハホハホとタコみたいな口で必死に冷ます姿に笑いながら飲み物を手渡した。


 チョコバナナを食べていたら、視線を感じた。見ると虎子が頬を朱色に染めながら私の顔をスマホで撮っていた。

『何してるの?』と訊ねると「いや、何かエロいなぁと思って」と言われた。しばし考え、その意味を理解した私はスマホが入った巾着で虎子の頭を叩いた。

 アホな男子中学生みたいな思考だった。


 射的にあった虎の置物が可愛かったので、狙ってみたが、かすりもしなかった。

 がっくりする私を見た虎子がライフルを持つと、玉を連続でヒットさせてあっさりと置物を撃ち落とした。

 唖然とする私に黙って手渡す虎子に、胸がきゅんとした。


 紙袋にたくさん入った、ベビートラヤキというものを2人で食べた。

 カステラ生地にデフォルメされた虎が焼印されつぶ餡が入った、人形焼きみたいな和菓子だ。

 虎子はメガネをきらりと光らせた先生みたいな虎を、私は八重歯を覗かせて大笑いする虎の焼印がそれぞれ一番気に入った。

 特に他意は無いけどね。

 うん、いや本当に他意は無いですよ?

 大事な事なので2回言いました。


 りんご飴のあんちゃんとじゃんけんをした虎子が3戦全勝してりんご飴を3つ渡されたが、私たちはカロリーが気になって1つだけ貰い、半分ずつかじって食べた。


「へへ♪」

『何?どうかした?』

「いやー、沙絵と付き合ってから初めての夏休みに、初浴衣で初夏祭りデートとか、最高じゃん!!」

『そ、そう?ま、まあ、楽しんでくれたのなら良かったわ』

「沙絵は楽しくねーの?」

『ま、まあ……楽しい、けど。というか、そ、そういう事っていちいち言わないといけないの?』

「んー、別に強制はしないけどさ、私はそういうのを口にするようにしてるだけだよ。なんつーか、言葉にする事で相手に伝わるだけじゃなくて、自分でも気付かなかった気持ちを理解したり出来る気がするんだよな」

『気付かなかった気持ち……』

「ま、言いたい事を言ったほうが単純にすっきりするからってのもあるけどな」


 へへっと虎子が笑う。

 その笑顔を見て、得心したような気がした。



 そうか、そんな性格の虎子だからこそ、私は好きになったのかも知れない……。



 胸がきゅっとして熱くなり、恋人つなぎをした虎子の手を痛いくらいにぎゅっと握っていた。

「痛っ……さ、沙絵?」

 指先の痛みに、こちらを振り向いた虎子が、私の視線にハッとする。

 神社の裏庭にある、人気のない池の前まで一緒に来ると、見つめ合い――1度だけ、濃厚なキスをした。

 虎子が私を胸に抱きながら、髪をすくように撫でる。

「……」

 撫でながら、虎子のもう1つの指が、うなじから鎖骨のあたりへとそっと這ってくるのを感じた。その時、夏祭りの大会本部よりメインイベントの花火の打ち上げ時間を知らせるアナウンスが流れてきた。

 私たちは目を見合わせて苦笑すると、高台にある神社の展望台を目指して歩き出した。


 昔建てられた社の階段は急勾配で、慣れない浴衣に雪駄を履いた私は虎子に手を引いて貰いながら一歩一歩ゆっくりと登っていった。

「沙絵、大丈夫か?」

『うん…ごめんね、迷惑かけちゃって』

「バカ、何で沙絵が謝るんだよ。私が沙絵に浴衣見たいってリクエストしたんだからむしろ謝るのは私の方だ」

『…そう、だけど…』

 運動の出来る虎子なら、これくらい平気で登って行くのだろう。

 体力のない自分に腹が立った。

 高台の途中にある長椅子に腰掛けると虎子が「飲み物を買ってくる」と走って行った。

 私は荒い呼吸を整えるように、深く息を吐き出すと、巾着からハンカチを取り出して額や首筋を拭いた。

 階段から複数人の足音が聞こえた。

 闊歩する足音から複数の男たちであることがわかる。

 男たちと目が合った、気がした……。

 ゾッと、悪寒のようなものを感じて、私はスマホを取り出すと虎子へメッセージを送った。

 目を閉じると、意識を潜めて男たちが通り過ぎていくのを祈るような気持ちで待つ。


 その足音は私のすぐ側で止まった。

 冷や汗が首の後ろを伝う。

 そっと目を開くと、金髪でオールバックにした男が私の顔を無遠慮に覗き込でいた。

 ギョッとして反射的に顔を引いた。

「ねぇねぇ、キミ、今1人?」

 軽薄な声で男の1人が声をかけてくる。

 へらへら笑う男の左耳にドクロのピアスが揺れていた。

 血の気が引いて、息がつまる。

 私は聞かなかった事にしてサッと俯いた。

 すると隣にいた男が口を開く。

「バカ、オメー女の子ビビってんじゃん!だからオレが声かけるって言っただろぉ。ごめんなぁ、うちのタク、目付きマジ怖ぇからよぉ」

 そっと顔を上げる。

 隣に立つアッシュグレイのツンツン頭が口元に愛想笑いを浮かべながら、でも目は笑っていなかった。

 ツンツン頭が頭の上から爪先まで舐めるような視線で見つめてくる。

「へぇ~……結構かわいーじゃん」

 今までに体験したことのない視線に晒される不快感と恐怖がない交ぜとなり、身震いした。

「ねぇちゃんオレらと遊ぼうぜ」

 3人の中で一番がっしりとした体躯の坊主頭の男が無遠慮に手を伸ばしてくる。

 肩に触れ、そのまま鎖骨や首筋の辺りをざらざらとした野太い指先が撫で擦る。

 ゾワリとして、背中から嫌な汗が滲み出てくる。

 男たちに取り囲まれると、壁のように視界が覆われる。周囲に助けを求めようとしても、鳩尾の辺りを押さえ付けられているように息が詰まり、呼吸すらままならなかった。

 胸の辺りに鉛のようなものがずぅんと居座り、胃がぎゅうっと絞られるような痛みを覚える。


 虎子…虎子……。

 心の中で、彼女へ助けを求める。

 金髪の男がふいに振り返り、目を凝らすと隣にいる茶髪の男の肩を叩く。

「なぁ、何かあいつこっちへ向かって来てないか?」

「あん?」

 茶髪が面倒臭そうに振り返る。

「ん?男か?こっちへ、まっすぐ向かって……な、なあケンちゃん、何か変な奴がきてるぜ!」

 茶髪の声が坊主頭に呼びかける。

「あぁっ?!んなもんテメーらでどうにかすりゃいーだろーが!邪魔すんなやっ!!」

 男の突然の怒号に皆がビクリとする。

「わ、わかった!」

 2人の男たちが駆け出した。

「おめぇ、名前なんてーの?」

 坊主頭が訊ねてくる。

 口をなんとか開くも、言葉は出て来なかった。

 くぐもった音がして、金髪と茶髪が何者かの一撃に次々に倒されていた。

「なんだぁ?」

 坊主頭の男が異様な雰囲気を察知したのか振り返った。

 視界が開ける。

 こちら向かってくる彼女の姿があった。

 ゴウッ――私の耳元を一陣の風が吹き抜けた。

 まなじりを決して駆け抜けるその姿は獰猛な獣のようだった。

「うらあっ!!」

 駆け抜けた勢いのまま咆哮し、飛び膝蹴りが坊主頭の頬を強襲した!

 ゴツ――という鈍い音と、ゴギッという骨と骨がぶつかり合うような音がした。

「い……でぇっ!!」

 男がドスンと尻餅をつく。

 その顎に拳が一閃――撃ち抜いていた。

 男の体がぐらりとして、頭から地面に倒れ込んだ。

 その間、僅か数秒の出来事であった。

「はあ…はあ……!」

 荒い息づかいと共にゆらりと虎子が立ち上がる。

 額は汗でびっしょりと濡れていた。

 それだけこの一撃には虎子の強い想いが乗せられていたのだとわかった。


「いてて、な、何だよあいつ!いきなり殴りかかってくるとか、マジでイカれてやがる!」

 金髪と茶髪の男がヨロヨロと起き上がり、じりじりと後退していく。

「…おい」

 虎子が金髪と茶髪を睥睨へいげいする。

「は、はいぃっ!」

「お前ぇら、こいつ連れて、どっか失せろ」

 虎子が、ゴミを見るような視線で坊主頭を見下ろした。

「りょ、了解ッス!連れていきまッス!!」

 坊主頭を引きずるようにして男たちは去っていった。


 その後ろ姿を見送ると、その場に虎子がぺたんと座り込んだ。

『と、虎子……』

 恐る恐る、彼女の側へと近寄る。

「沙絵…ごめん、遅くなって…」

 私は首を振って、虎子の髪をそっと撫でた。

『ありがとう、虎子…』

「ごめん……うぅ……」

 虎子がぐずぐずと泣き出してしまう。

 膝をついて彼女を抱き締めると、その肩が小刻みに震えている事に気付いた。

 彼女は幼い頃より空手を習っていた。

 でも、今日みたいな出来事は初めての経験だろう。

 しかも相手は自分より背の高い男たちだ。

 私は怖くて怖くて呼吸をすることすらままならなかった。

 空手の経験があるとはいえ、突然現れた男といきなり戦うなんて怖いに決まってる。

 彼女だって、私と同じ女の子なんだから…。

『こっちこそ、ごめんね虎子……』

 私のせいで怖いを思いさせちゃって。

 彼女を抱きしめながら、夜空を見上げた――そこにはいつか見た月と星空が瞬いていた。



 ――そう、あれはまだ私たちが小学生低学年の頃……。

 虎子の母親に連れられて、私たちは夏祭りに来ていた。

 私と虎子はお神輿の近くを横切った時、お神輿を追いかける一群に巻きこまれて、虎子のお母さんと離れ離れになってしまった。

『ほら、行くよ』

 私は泣きじゃくる彼女に手を差し出した。

「うぅぅ……グスッ……」

 なみだにぬれた手をにぎりながら、歩き出す。

「ママぁ……」

 弱々しい声。

 私はうつむきそうになる気持ちを振り払うように夜空を見上げた。

 夜空には宝石を散りばめたような星々とやさしい光を宿した月があった。

『ほら虎子、空を見上げてごらん』

 彼女がそっと顔を上げた。

「……きれい……」

 その横顔にほほえみながら、そっと頭をなでた。

『大丈夫、きっとすぐに会えるよ』

「うん」

 虎子がこくりとうなづいた。

 と、スピーカーがキーンと耳ざわりな音を立てた後にアナウンスが流れてくる。

「……えー、大会本部よりお知らせします……て、ちょ!お母さん?!」

 何だ何だと周囲の人々も視線をアナウンスに

 集中する気配があった。

「コラアァ~ッ!アホ虎~!!あんだけ手を離すなって、いっただろ~っ!!早くこっちに来いやあ~っ!!」

「ひぇっ?!」

 虎子がひめいをあげる。

『あはは、アホ虎だって』

「うぅ……帰ったらぜったいにおしりひっぱたかれるよぅ……」

『私もいっしょにあやまるから。ほら、行こう!』

 私は彼女とつないだ手をぎゅっとにぎった。



『落ち着いた?』

 私たちは長椅子に並んで腰掛けていた。

「うん。…ごめん、沙絵を置いていかないで一緒にいるべきだった」

『もうその話はおしまい。何もなかったんだから』

 と、夜空に大輪の花が描かれ、少し遅れて胸に音が響く。

『あ、花火』

「もう始まっちゃったか!」

 私は立ち上がると虎子に手を差し出した。

『ほら、夏祭りのメインイベント、一緒に観るんでしょ。最後までちゃんと、エスコートしてよね』

「あ、ああ!」

 私たちはゆっくりと石段を登り始めた。



『ちょ、ちょっと……何が隠れ絶景スポットよ、アホ虎』

 声を潜めて虎子を小突く。

「だ、だってよぉ……ネットに書き込みが……あ!……」

 そこでようやく虎子が理解した。

『アホ虎、ネットに書き込みがある時点で、そんなの公式ページに掲載されているのと同じようなもの。こんなの隠れ絶景スポットでも何でもないわ。それよりも……』

「……んん……好き……」

「…んっ、ちゅ……」

 虫の鳴き声に混じって、あちらこちらから艶っぽい声が聞こえてくる。

「てゆーか、公然のイチャラブスポットだな」

 虎子が頬を染めながら呟いたのだった。



          *



 私と沙絵は黙々と家路の道を歩いていた。

 結局、あの後私たちは花火よりも周りの雰囲気が気になってしまい、早々にその場を離れて帰りの電車に乗ったのだった。

 ……本当は、花火を背景に沙絵とキスをするはずだったのに……。

 時刻は間もなく夜9時になろうとしていた。

 沙絵との別れの時間が迫っていた。

 まだ、別れたくないな……。

 と、沙絵がピタリと立ち止まった。

 視線の先に小さな公園があった。

 沙絵が横目でチロリと見つめてくる。

 熱に浮かされたような視線。

 それは彼女の甘える時に魅せるサインだった。

『ずっと歩き通しで疲れたな、ちょっと休んで行こうか』

「え、ええ。そうね……」

 公園に入ると、すぐに沙絵の頬にキスをした。

「ちょ、ちょっと、虎子」

『大丈夫、こんなところに誰もいやしないよ』

「もう…虎子、がっつき過ぎ」

 口では文句をいう彼女だったが、その声は温かかった。


 田舎の町の小さな公園には、私たち以外に誰もいなかった。

 小さな東屋があり、隣同士座る。

 星空を見上げていると、彼女が私の肩に寄りかかってくる。

 潤んだ目元にスッと引かれたアイシャドウの粉が妖しく光り、ドキドキする。

 彼女の耳元で甘く囁く。

『沙絵…大好き』

「私も好き。……ね、ねぇ虎子ぉ……」

 とろけるチョコのような甘い声にたまらず、彼女の耳を甘噛みする。

「あ……や、やめ……ひぁっ……」

 沙絵が弱々しく抵抗の声を上げる。

 私は甘噛みを終えると、彼女の頭を優しく撫で擦る。

『沙絵の浴衣姿、可愛い』

「もう、それは十分わかったから」

『初めて見た時、可愛すぎて尊死しかけた』

「とうとし? 何それ?」

『え? マジで知らないのか? んー、まーつまり、私が言いたいのは、沙絵たんマジ天使、マジカワユス♪ もう沙絵たんが私のヨメとか、うれし過ぎて天に召されちゃう~っ!!てな感じッス』

「いや、マジ天使辺りから意味不明なんだけど……ていうか、よ、ヨメになった覚えはない!」

『でも、私のヨメになる予定はある? あるよね? あるって言って!

名前を呼んで! ほらほら!!』

「あーもー、うっとうしいわ! アホ虎っ!!」

『ぎゃっ!』

 本日2回目のデコピンをお見舞いされたのだった。


「ね、ねぇ……ほ、本当にここでするの?」

『中は綺麗みたいだし、問題なくね?』

「綺麗とかそういう問題じゃないんだよ!」

 私たちは公園の多目的トイレに来ていた。

 トイレは新しく設置されたばかりなのか、リニューアルされたのかはわからないけど、新品のように綺麗だった。

『まぁ、私は星空の下でもいいけどねー』

「通行人に見られたらどうすんのよ、アホ虎!」

『夜の田舎にそんな人いないっしょ。てゆーか、バレたらバレたで見せつけてやれば相手も配慮して去って行くだろ』

「だから、そういう問題じゃないんだよ、アホ虎ぁ!」

『じゃあ、止める?』

「……イヤ」

『素直なことで』

「う、うるさい!……こ、こうなったのも、あ、アホ虎のせい…なんだから……せ、責任……取ってよ、ね」

 耳を綺麗なピンクに染め上げながら、上目遣いで見つめられる。

『……』

 後ろ手に入り口の引き戸をそっとロックした。

 彼女の目の前に立ち、沙絵の熱い視線を受け止める。



 その瞳に溶ける煌めきは――夜空の星々のように美しく――故に儚げで――私の胸に熱い奔流を生み出すのだった……。



『沙絵……愛してる……』

「うん……私も…」

 目を閉じた彼女にキスをする。

 始めは唇を触れ合わせるだけの軽いキス。

 何度か繰り返すうちに、上唇や下唇をチロチロと舐め始め、次第にそれはついばむような甘噛みへと変わる。

「んっ……ふぅっ……」

 次第に荒く、甘い息づかいへと変わっていく。

 もっと、沙絵の乱れる姿をみたい……。

 舌で唇を押し退けて無理矢理突っ込む。

「ん?!…んむっ……」

 驚いてやや身を退こうとするが、私は彼女の後頭部に手のひらを添えて逃がさない。

 そのまま舌で舌を締め付けるように絡め取る

 こくんと、沙絵が私の唾液を飲み込んだ。

「んっく……は、ぁっ……と、虎子ぉ…」

 トロリとした瞳で沙絵が見つめてくる。

『沙絵…可愛いよ』

「うん…も、もっと……」

 微笑むと、私は彼女の後ろへ回り込む。

「と、虎子?」

『ほら、そこに鏡があるだろ。よーく見て見なよ。沙絵、すげぇエロい顔してる』

「そ、そんな…こと……んっ」

 言い終わる前に、彼女のうなじに口づけをすると、そのまま舌を這わせながら、右手を浴衣の共衿ともえりに手を伸ばした。

「あ……と、虎子…」

 これからの行為を察した沙絵の声。

 そこには期待と不安、そして溺れることへの悦びが確かに感じられた……。

『沙絵……最後に夏祭りの思い出、刻んでやるよ……』

 沙絵の指先が、私の左手を恋人つなぎしてぎゅっと握ってくる。

「うん…虎子……して……」

 右手の指先が沙絵の柔肌をさわさわとゆっくり這うようにして、ブラの隙間へと滑り込んだ……。



          *



 家に帰ると、母親に見つかる前に自室に駆け込んだ。

「沙絵、何時だと思ってるの! ちゃんと遅くなるなら連絡しなさいって言ったでしょう!」

『ご、ごめんなさい』

「もう、心配したんだからね! ほら、髪直してあげるから早く降りてらっしゃい!」

『はーい、すぐ行く』

 私は乱れた浴衣を脱ぎ捨てて、私服に着替える時に、姿見の前で一度手を止める。

 エアコンの冷気に冷やされて、たかぶっていた意識が徐々におさまり始めていた。

 右胸のあたりに触れる。

 そこには、虎子によって付けられた、キスマークがあった。


『……夏祭りの思い出、刻まれちゃった♥️』








 虎子、夏祭り誘ってくれてありがとう。

 私、今、すっごく幸せだよ⭐








―――――――――続く―――――――――

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