記憶喪失の貴女へ贈る
朝方の桐
第1話『忘却』
「貴女が死ねば世界は終わります」
訳も分からず、駆け出した先に地面は非ず、一瞬の浮遊感のその刹那に現れた男は私の事を見下しながらそう呟いた。
「これは初回サービス、一生のお願いの前借りというやつですよ。
なので、くれぐれも後先考えない行動は謹んで下さいね」
彼は、そう言うと身体が思い出した重力に従うよりも早く私の身体を掴むと見えない大地を歩くかの様にそのまま平行移動する。
「お姫様抱っこの方がよろしいですかな?」
「このままで構いません」
腹に手を回し、まるでモノのように運ばれているが見知らぬ人にお姫様抱っこされる事と天秤にかけて彼の質問に応答する。
宙ぶらりんの手足を沿って下を見れば、落ちれば即死であろう高さである事が分かる。
「しかし貴女も災難であられる」
上からする声に意識を移す。
「何故知っている?」
「上から見ていたので」
チッと舌打ちをしたが、災難であることは事実なので否定しないでおく。
「では、あいつ等の仲間では無いんだな」
「ええ。ええ。
右も左も分からない貴女に襲いかかり殺そうとする奴等と一緒にしないで頂きたい」
「おい、本当に見ていただけか?」
「ええ、そうですが…何故?」
「私が右も左も分からないのが何故わかった」
ベンチで目を覚ました時私が一番最初に思った事は『記憶が無い』と言うことだった。
記憶が無いのに、自分に大切な記憶が欠落していると言う事だけは理解出来た。
その直後、やたらと物騒な装備を纏った男?達が現れ本能的に逃げなければと思いあの階段を駆け上がり、今に至る。
「…勘ですよ。
もしくは、私の権能と思って頂ければ」
「は?」
「んん、それすらも忘れてしまったのですか?」
その男は仮初の大地から、私にも認識できる大地(と言ってもビルの屋上だが)に乗り移るとほいと私から手を離した。
改めて私の体は重力に従い硬いコンクリートに手と膝をぶつけた。
「痛っ」
「私には貴女を助ける理由はありますが、貴女に優しくする理由は無いのでそれぐらいの傷は我慢して下さい」
「見知らぬ男に助けられても気持ち悪いだけだから構わない」
砂を払って、立ち上がり彼を見る。
「で?聞きたいことが色々と有るのだけれども?」
「そうでしょうね。
しかし、その説明は後です」
「は?」
遠くで鈍く何かが回る音がする。
「ヘリコプター?飛行機か?」
「その辺りでしょうね。
兎にも角にも、あちらは貴女を殺すことを諦めないでしょう。
ここに安息の地は無いのです…なので、まぁ多少マシな所にご案内しましょう」
「多少マシなのね」
「ええ多少です」
扉を開け、こちらへどうぞと男が不敵に笑う。
「階段を降りればいいのか?」
「ですです」
暗い、切れかけの蛍光灯が照らす階段を壁に手を付きながら慎重に降りていく。
頭では、状況整理をしようと振り返るが時折ノイズの様なモノが走り『何故』も『記憶』分からない。
何故私は追われているのか
何故私は記憶が無いのか
何故こいつはあんなタイミングで現れたのか
思考に集中し過ぎてかつ、此処が古ぼけた階段だったからだろう、足の付いた階段は決して重いわけではない体重を受けてミシッと嫌な音を鳴らした。
普通であれば、反応出来るものであったが思考に没頭していた私がその音を聞き足に命令信号を送るのよりも、足がバランスを崩す方が些か早かった。
「命を大切にしてくださいよ。
まったくもう…」
腕に掛かった静止の力を借りて、踏み外された足に再度力を入れて落下を止める。
「すまない」
「いーえ。
多分考えても結論は出ないですよ、とりあえずはゴミ箱に行きましょう」
「ゴミ箱?」
腕に掛かっていた力が離れた。
彼を見上げると、ええと逆光で見えにくいがたしかに笑ってこちらを見ている。
「このクソッタレな世界で、いらない役目を押し付けられた死ぬ事もできない廃人が集められたゴミ箱ですよ」
そう言うと、怪訝な目で見ているであろう私の横を通り過ぎて先を行く。
「貴女が思い出すのが先か、世界が終わるのが先か…歓迎はしませんが、招待はしましょう。
忘れん坊のお嬢さんの為に…ね?」
「…そりゃどーも、して貴方のことはなんと呼べばいいのかしら?」
「私ですか?」
彼はうーんと顔に手を当て傾げたあと、此方を軽く振り向いた。
「ジェームズにしましょうか」
「…しましょうってことは偽名よね」
「元々この世界の住民は名前なんてものとうの昔に無くしてますしね」
「そう」
思い出せない記憶。
ぽっかり空いたような、元から無かったとさえ錯覚してしまう今の私にはこの世界のことは何一つ分からない。
「短い間だけど、よろしくねジェームズ」
「ええ、こちらこそ」
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