第61話 来訪者
その音に最初に気づいたのは、耳のいいイヨだった。
「なにか来る!」
戦いの終わった玉座の間では、ミカンが全員に回復魔法をかけたところだった。回復術師(ヒーラー)としても超一流のミカンの魔法は、失血死寸前だったライムの体も、ほとんど元に戻していた。
ただ魔力切れ状態は変わらず、最後の魔法源を振り絞っての回復魔法だった。ミカンは座り込んで放心状態となっていた。
そのミカンが飛び起きた。
「上です!」
そのミカンの言葉に、全員が上空を見上げる。空の玉座の真上だ。
表現しがたい音が近づいてきて、空間に小さな穴が開いたのが見えた。
その穴は内側から膨張するように大きくなっていき、暗黒の球体となって、玉座の間の天井付近を覆った。
緊迫した表情でそれを見る騎士たちの前で、黒い球体から2つのものが落下してきた。
小さいほうは、そのまま床に落ち、大きいほうはゆっくりと玉座の上に下りていくと、そのまま玉座に腰かけた。
「レンジ!」
「魔王!」
みんなが口々に叫んだ。
魔王セベリニアの巨体がうつむいたまま玉座に腰かけ、その前に這いつくばるようにしてレンジが倒れていた。
その姿は、まるで魔王に破れた勇者そのものだった。
だが、倒れていたレンジが顔を上げ、腕をついて上半身を起こすと、魔王を見上げたまま、声を振り絞るにようにして言った。
「かっ……た。かった。……勝ったぞ!」
魔王は動かない。
「レンジ!」
セトカが、ライムが、バレンシアが、全員がレンジの元に駆け寄った。
「倒した、のか?」
セトカが、レンジを抱きかかえて魔王を見上げた。魔王はうつろな目をしている。まったく微動だにしていなかった。
「ああ……」
レンジはセトカに抱き起されながら、右手に握っていた方位磁石のようなものを見つめた。
それは、気がつくとマントの内側のポケットに入っていた物だった。
セベリニアとの戦いの決着の後、レンジは白と黒の世界から弾き出された。レンジがセカンドと呼んでいた自分の第2の意識から、ファーストと呼ぶ本来の意識へと主体が戻ったのを感じた。
そこは様々なものが歪んでいる、異空間だった。魔王が扉の先に用意していた空間だった。そこに、レンジと魔王の体が眠っていたのだ。意識を取り戻したレンジはそこから出ようとした。だが、上も下もわからない空間で、どこに出口があるのかも判然としなかった。
焦るレンジの懐で、なにかが光った。マントの内側のポケットに、方位磁針のようなものが入っていた。
あの時だ……。
レンジはセベリニアが、相撲でもいいぞ、と言って抱きついて来たことを思い出した。あの時、彼女がこれを入れたのだ。
それは、光を放ち、異空間の中の特定の座標を指し示していた。
レンジはその光の指す方を目指して飛んだ。空気がドロドロとしていて、ただいるだけで力を奪われていくような感覚があった。
レンジはその中を、魔王の体を運びながら進んだ。全知記録回廊でもう1人の自分が死んだ魔王の体は、抜け殻だった。いわば魂が死んだのだ。二度と目を覚ますことはない。
それでもレンジはその体を捨てて行かなかった。
(みんなに、見せないとな。魔王が死んだ証拠を。そうでなきゃ、北の国の人々は安心して生きられない)
運びながら、そんなことを考えていた。しかしそれは言い訳だと、自分でもわかっていた。
捨て置けば、時の止まったこの異空間で、魔王の体は永遠にさまよい続けていただろう。
それを、選べなかったのだ。
甘さとも言えた。死した者への敬意とも。
レンジは力を振り絞って、異空間を脱出するために飛び続けた。
「生きてる。心臓が動いてるぞ」
イヨが叫んだ。全員が魔王に向かって身構えた。
「待て。待ってくれ」とレンジが言った。
「もう死んでいるんだ、魂が。これは、その抜け殻だ」
「しかし!」
剣を構えるセトカの肩を叩いて、レンジは進み出た。
「俺がやる」
レンジが杖を構えた。その顔には、疲れや喜び、悲しみや哀れみ、様々な感情が渦巻いていた。
その時だった。
レンジたちの後方に、突然なにかが出現した。なんの前触れもなかった。
とっさに振り向くと、いつの間にか床に描かれていた魔法陣の上に、3つの人影があった。
『少し、待つがよい』
真ん中に立つ人物が言った。魔王のように、様々な人間の声が重なっているような声だった。
「なにものだ!」
セトカが叫んだ。
「嘘でしょ。もう終わってよ!」
ライムが杖を突き出しながら悲鳴を上げる。
『そう構えるな。お主らにはなにもしやせんよ』
そう言った老人は、くたくたの緑色のローブにくたくたの緑色の三角帽子を身に着けていた。いまどき珍しいくらいの魔法使いのオールドファッションだ。
長く白いあごひげを優雅に撫でながら、老人は言った。
『セベリニアを倒しおったか……』
その老人の横を、もう1人の人物が通り過ぎた。青いスーツを着た、長身の男だった。年齢は40代くらいだろうか。貴族然とした身なりの、男前だ。
スーツの男は、カツカツと革靴の音を響かせながら、玉座のほうへ歩いた。
セトカたちの横をすり抜ける時、レンジが声を引きつらせて言った。
「全員動くな」
言われるまでもなく、その場の全員が感じていた。そのスーツの男から感じたプレッシャーは、さきほどまで対峙していた魔王のそれを上回っている。
「2秒で、ミミズに変えられるぞ」
レンジが押し殺した声でそう呻くと、後ろから白いひげの老人が笑いながら言った。
『ひょほほほほ。2秒もかかるものかよ』
スーツの男は、そんなやりとりに見向きもせずレンジの脇を通り過ぎると、玉座に腰かける魔王の足元に立った。
そして、その足にそっと触れると、感傷に身を任せるように目を閉じた。
やがて目を開けた男は、手を離し、踵を返すと再びレンジたちの横を通り抜けて魔法陣のところに戻った。
『なんじゃ。もう行くのか』
老人の言葉に返事もせず、スーツの男は、来た時と同じように魔法陣の上から消滅した。
『なんとも淡白なやつじゃ。魔法使いのくせになんにも喋らんと……』
ぶつぶつと非難めいたことを言う老人に、もう1人の人物が言った。
『君が喋りすぎなんだよ。魔法使いのくせに』
老人をキミと呼んだのは、青い髪の男の子だった。12歳くらいだろうか。白いローブを身に着けている。美少年だ。
『先輩に言われてはしょうがないのう。昔は、魔法使いは喋るのが仕事じゃと思うておったが』
そんな不思議なやりとりを、息を飲んで見守っていたレンジたちだったが、おずおずとミカンが進み出て、怯えながら口を開いた。
「あのぅ。もしかして、あなた様は、魔術師ギルド『灰の夜明け』のグランドマスター、キノット様ではありませんか?」
その言葉を聞いて、バレンシアが言った。
「キノットっていったら、例のレベル200とかいう、西の国の魔法使いか!」
老人は笑い出した。
『ひょほほ。儂がレベル200であったのは、100年も前の話じゃぞ』
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