第43話 重なる世界、そして


 レンジの目の前には、見たことのない光景が広がっている。

 白と黒の幾何学模様が、床を、壁を、天井を覆っていた。そこが現実ではないことはわかる。だが、それが想像や幻覚の類などではなく、確かな実感を持って自分自身が存在する、別の世界とでも言うべき場所なのだということもまた、わかるのだ。


 同時に別々の場所に、自分が存在するという体験に戸惑い、レンジは本能的に、王宮の客室にいる側の自分の意識の大半を、遮断した。

 脳がショートしそうだったからだ。


 レンジは白黒の廊下を歩き始めた。すぐに、右へと曲がる脇道があった。そちらを覗いてみると、同じような廊下がずっと続いているのが見えた。

 通り過ぎて進むと、今度は左側に脇道があった。また同じような廊下が続いていた。

 真っすぐに進んでいると、突き当たりにたどり着いた。左右に廊下は続いている。レンジは左に曲がった。白黒の廊下だ。どこまで行っても、同じような光景だった。

 頭がくらくらした。

 

 ふと、壁に扉がついていることに気がついた。扉はたくさんあった。どの扉も形が違っている。

 あ、と思った。

 魔神回廊の第4層で見た扉がそこにあった。お宝の匂いを感じながらも、先を急いだために開けることができなかった扉……。

 心のどこかに残っていたそれが、今、目の前にある。よく見ると、人生ではじめて潜入したダンジョンである、ねっこ洞窟の深部で見た扉もあった。

 結局開けることなく通り過ぎた、そんな心残りの扉たちが、無限に続く廊下の壁に並んでいた。

 まったく見たことのない扉もある。無数に、扉は存在していた。

 レンジは、その中のひとつに手を伸ばそうとした。

 しかし次の瞬間、視界の端に、人間の姿を見た。


(あの子だ)


 夢で見た女の子。また遊ぶ約束をしたあの子。長い髪の毛が、曲がり角に消えていった。

 レンジは走った。走って追いかけた。

 いつの間にか、自分が子どもになっていることに気づく。

 いくつもの扉を通り過ぎ、廊下を曲がり、女の子を追いかけた。走っても走っても、追いつけない。女の子は、後ろ姿しか見えなかった。その足取りはスキップをするかのようにふわふわと軽やかだ。


(待って)


 レンジは白黒の廊下を走り続けた。


 何十回目かの分かれ道にやってきた時、片方の道の先に、女の子がいた。その子は、廊下に並ぶ扉の一つに手を伸ばして、ドアノブを引っ張り、開けた。

 そして、両手を背中に回して、いたずらっぽい仕草で、その場でくるりと回ると、また廊下の先へと去っていった。

 レンジは女の子が開けた扉の前まで来た。

 扉の向こうには、見覚えのある空間が広がっていた。レンジは、吸い込まれるように、扉の中に入った。


 そこは、レンジの家の屋根裏部屋だった。

 元々、祖父の書斎だった部屋で、祖父の死んだ今では開かずの間になっている。はずだが、今、レンジが足を踏み入れた部屋には、床に埃一つない。床がきしむ音がした。静謐な場所だった。

 レンジは天窓を見上げた。満天の星空だった。真っ暗な部屋に、夜空からのかすかな光が射し込んで、幻想的な光景だった。

 星の海に、懐かしい星が見えた。祖父が死んだ日、はじめて目にした星だった。新しく生まれたその星は、ほかのどの星よりも明るく輝いて見えた。

 その星が、今あの時と同じように頭上に輝いている。ふいに、星はチラチラと明滅した。

 星から、真っすぐに地上へと伸びる、光の筋が見えた。それはレンジの顔の横を通って、部屋の奥へと伸びている。

 レンジはその光の筋の先を追いかけた。

 そこには、本棚があった。祖父の所蔵している本が置いてある本棚だ。光の筋は、その本棚の右下を指している。

 レンジはそっと近づき、しゃがみこんだ。一冊の本に、光の筋が当たって、暗闇の中に背表紙が浮かび上がって見えた。レンジはその本を指でなぞり、静かに引き抜いた。





「レベル、205……」


 レベル測定器を見つめながら、ライムが言った。


「はあ? なんだそりゃ」


 動かなくなったレンジを揺すっていたバレンシアがその手を止めて、呆れた声を出した。


「205って、お前……。んなわけねえだろ」


 ライムはハッとした顔をして、測定器のアンテナをベッドの上のセトカに向けた。


「レベル1」


 表示された数値を読み上げてから、ライムはセトカを見た。


「セトカあなた、レベル1になってる」


 茫然とした声だった。


「ああ……わかってる」


 毛布に包まったままで、セトカはうなづいた。


「全部吸われたってのか! この野郎に」


 バレンシアが激昂した。

 マーコットもレンジの唇を解放して、セトカに抱きついた。


「団長! れ、レベル1になってしまったのでありますか!」


「痛たた。マーコット、痛い。力を加減してくれ」


「おいおい。マジかよ団長」


 イヨとビアソンも心配そうな顔でセトカのそばに来た。

 だがライムだけは、固まったまま動かないレンジを見ていた。


「レベル6+レベル199で、205……。ロス無しで、レベルドレインしたんだ……」


 ライムは茫然としてそう言った。


「レベル200が、人間の到達点じゃなかったって言うの?」


「レベルはともかく、ライム。このレンジの野郎はどうしちまったんだ。全然反応がねえぞ。これやばいんじゃねえのか」

 

 バレンシアがレンジの頬をペシペシと叩いた。


「サキュバスの秘薬の副作用とかでさあ」


 バレンシアがそう言った時、ふいにレンジが動いた。


「ああ。ごめん。まだ慣れてなくて。聞こえてたよ」


「うおっ。おどかすなよ」


 しゃべりはじめたレンジだったが、その目の焦点はまだ合っていない。


「れ、レンジ。大丈夫か」


 セトカがその顔を両手で挟んで覗き込んだ。


「説明することが、色々あるんだけど、とりあえず、先に片付けるよ」


 レンジは、目を見開いたままそう言って、右手の人さし指を立てた。


「な、なにをする気でありますか?」


 全員の目線が、レンジの指先に向かう。

 すると、次の瞬間、不思議なことが起きた。

 広い部屋をほのかに照らしているランプの明かりが、すべてその指先に吸い込まれていくのだ。

 いや、明かりだけではない。部屋を包む闇までも、すべて指に向かって吸い込まれていた。

 まるで巨大な質量を持った重力源がそこにあるかのようだった。


 息を飲んでその現象を見守るみんなの目の前で、レンジはうつろな目をしたまま、小さく口を開いた。


「オメガボルト」


 バッシャアンッ!


 激しい音とともに、窓の外が光った。無数の雷が同時に落ちたような衝撃と、光だった。


「な、なんだ今のは?」


 バレンシアが目を押さえながらうめいた。みな、同じような反応だった。

 ただ、ライムだけが、それが魔法だったことを感知していた。


「オメガ……ボルト?」


 ライムは唖然としてそうつぶやいた。

 レンジが指を下ろす。その瞳に、光が戻りつつあった。


「ぼ、ボルトの上位魔法……それも、オメガって」


「なに言ってんだライム。オメガっていやあ、おまえ」


 バレンシアが指を折って数え始める。


「アルファだろ、ベータ、ガンマ、イプシロン、ジータ、イータ、シータ……」


「数える必要ないわ」


 ライムがレンジを見つめたまま、震える声で言った。


「最終階梯魔法……」


 やがて両手の指を折り返しながら数え終わったバレンシアも、「マジかよ」と言ってつばを飲んだ。


「第24階梯魔法だってのか、今のが」


「そんなもの、人間の歴史上存在していないわ。古代魔法王国時代でも、第18階梯までしか記録がない。それでさえ、何千年も前に消え去った、ロストマジックよ」


 その時、床に置かれていたライムの鞄から音がした。ピーピーという甲高い音とともに、鞄が光っている。


「緊急通信!?」


 ライムはすぐさま鞄に飛びついた。そして中から、光っている大きな水晶玉を取り出した。

 水晶玉から声が聞こえる。


『こちらブラボー! アルファ聞こえますか。お姉さま!』


「こちらアルファ。聞こえてる。どうしたの。なにがあった」


『監視中のスライムの群れに異変。今、鳥を飛ばしています』


 バレンシアたちがベッドから下り、ライムを囲んだ。


「なんだ。例のお前の妹弟子たちか」


「そうよ。ジョン王の湿地帯を監視してた子からの通信」


『湿地帯のスライムに雷が落ちました。それも、空が落ちて来たのかと思うくらい、いっぺんに。あんなの見たことない!』


「落ち着いて。鳥の目は、こっちにも映せる?」


『やってみます。暗視補正はそっちでお願いします』


 ライムが水晶玉に手を当てて魔法言語を唱えると、空中に映像が浮かび上がった。真っ暗だ。ほとんどなにも見えない。激しい雨の音がする。嵐の中のようだ。

 稲妻が走った。その瞬間、見下ろしている地表が見えた。湿地帯から、白い蒸気が上がっている。


『全滅! 全滅しています。スライムが、全部、死んでる!』


「なんですって?! こっちは一部しか見えない。確かなの?」


『見渡す限りのスライムが、全部蒸発して消えてます。雷に撃たれたんだとしか考えられません! どうしてこんなことが……』


 バレンシアが吼えた。


「おい、ライム! これは本当に起きていることなのか。スライムが全滅って!」


 ライムはベッドの上のレンジを見た。まだ彼の目はうつろだ。


「超範囲魔法でやったのね。あなたが。ここから、どうやって?」


 その時、さらに水晶玉から甲高い音がした。


『お姉さま! こちら東部監視中チャーリー!』


「今度はなに?」


 ライムの問いかけへの返信が来る前に、続けざまに水晶玉から音がした。


『北部監視中、エコー!』


『西部戦線監視中、フォックストロット!』


 一斉に、通信が入り始めた。


「なにが起こっているの……?」


 ライムは、よろけて後ずさった。


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