第40話 虹を見たかい


 レンジは、子どものころから、魔法の才能より腕っぷしのほうが強かった。マーコットに負けはしたが、腕相撲が強かったのも本当だ。動体視力や反射神経も良かった。しかし、それらの才能をまったく磨くことなく、ひたすら魔法の修練に打ち込んで、今があるのだ。

 すべては祖父がレンジを魔法使いにしようとしたからだった。そしてそれは、占い師クレメンタインの予言が導いた、世界を救う英雄へと至る道だったのではなかったのか。

 そんなことを考えながら、レンジの心は冷えていった。


「ライムの見立てでは、我々がレベルアップに全面協力しても、レンジ殿のボルトが北のスライムを討ち漏らしなく安定して狩れるようになるまでは、3カ月か、あるいはそれ以上かかるということだった」


「3カ月……」


 さらなる追い打ちに、レンジは絶句する。


「じゃあ、もうどうやったって無理じゃん。スライムは、もうすぐそこまで来てるんだぜ」


 レンジは投げやりに言った。城の塔から見える青い海原のようなそれが、脳裏によみがえった。

 セトカは毛布から顔だけを出してレンジを見つめた。


「いや、たった一つ方法がある。私は……そのために来た」


「なんだよ。わけがわかんねえよ」


「我がデコタンゴール王国には、ある古の秘薬が伝わっている」


「いにしえの、ひやく?」


「そうだ。今から数百年前に、当時の王がサキュバスロードを来客として歓待した返礼に、授けられたという薬だ」


「サキュバスって、あの淫魔とかいう魔物か。人の精気を吸うとかなんとか」


「そう。そのサキュバスの秘薬を飲んだ者は一度きり、サキュバスの秘術『レベルドレイン』を使えるようになるというのだ」


「レベル、ドレイン……」


 その言葉を聞いて、レンジはようやく話の全体像が見えた。そしてセトカがやってきた理由も。


「それをパウアマレロ様のお力添えで、王家から頂戴したのだ。そなたには、食事の際にワインに混ぜて飲んでもらった」


「人の体を勝手に!」


「すまん……。もうわかったと思うが、レベルドレインは、男女がまぐわうことで効果を発揮するものだ。レンジ殿は……その、ハレンチなので、嫌がらないかと……」


「どおりで、ギンギンになってるわけだぜ」


 レンジは毛布の上から息子を見た。透け透けの女子が隣にいるというこのシチュエーションに、もうぐつぐつになったマグマが実のところ、ちょっと漏れていた。


「ひとつ、訊いていいか」


 レンジが少し近づいて、セトカはビクリとした。戦場での凛々しい姿とはかけ離れた反応だった。


「なんで団長のあんたなんだよ」


「れ、レベルドレインは、どれほどの効果があるのかよくわかっていない。一説によれば、吸ったレベルの3分の1や、5分の1、あるいは10分の1しかレベルアップできないという。一度しか使えない秘薬なのだ。失敗は許されない。この騎士団で、一番レベルが高いのが私だ。だから、私の役目だ」


「だからって」


「聖白火騎士団は!」


 ずっとおどおどしていたセトカが、語気を強めた。


「100年以上続く、伝統ある騎士団だ。設立から現在に至るまで、歴代の団長がそのバトンを繋いできた。私も先代の団長からそのバトンを託され、非力ながら頑張ってきたつもりだ。私がいなくなっても、副団長のバレンシアがいる。他の班長たちがいる。私は力足らず、団員たちを死なせ、団を半分にしてしまった。その責任は、取らないといけないと思う。私は、次の者たちに、バトンを渡したい。だから私が、その……て、適任なのだ」


 語尾が、もにょもにょとなった。セトカは毛布に半分顔を引っ込めた。


「後悔はねえのかよ。レベル200なんて、俺から見たら雲の上のそのまた上の、はるか彼方の存在だよ。その歳でさ。どんな努力をしてきたか、気軽にわかるなんて言えねえよ。それなのに、本当にいいのかよ。消えちまうんだぜ。あんたが培ってきた力が」


「そのために、私は強くなった。そのために、私は生まれて来たんだ。今は、そう思える。どれほどの力があっても、剣士の私には、5兆匹のスライムは倒せない。レンジ殿に、私の蓄えた力が渡り、それを成すことができるなら……本望だ」


 セトカは、毛布の中に、顔を全部引っ込めてしまった。

 レンジはその毛布の膨らみを見つめた。その毛布が震えているのを。

 それから、天井を見た。なんだか知らない、偉そうな天井画があった。天地創造とでもいうのだろうか。神が杖を天にかざしている。

 体を起こしていたレンジは、セトカと同じように毛布のなかに潜り込んだ。またセトカがビクリとする。

 レンジはしばらく目をつぶっていた。

 ふいに、室内に光が走った。

 部屋には大きな窓がある。その外からの光だ。そして、間髪入れずに、雷鳴が聞こえた。


 ガロガロガロガロ……。


 部屋は、再び闇に沈んだ。

 雷鳴の余韻が消え、レンジが耳を澄ますと、かすかに雨音が聞こえた。いつの間に降っていたのだろう。


「晴れてたのに」


 レンジがそうつぶやくと、毛布の中からセトカが言った。


「夜半から降り始めたようだ。嵐になりそうだな」


 レンジは卑屈に笑った。


「雨男は俺だな。昔からそうなんだ。大事な時にはいつもそうだ。子どものころはよくそれでいじめられたよ。なにしろ、じいちゃんが、『雷を呼ぶ者』だったからな」


 再び、稲妻が走った。そして雷鳴。


 しばし沈黙が訪れる。


「虹を、見たかい?」


 レンジが静かにそう言うと、毛布から恐る恐るセトカの顔が出てきた。


「虹?」


「1週間前もさ、こんな雨で。それが上がってから、虹が出たんだ。ああ、そうか。あの時はまだあんたらは、ネーブルへ来る途中で、魔神回廊の中か」


 セトカは小さくうなづいた。


「俺、パーティをクビになったんだよ。ちょうどスライムを狩ったあとだった。空に、虹が出ててな。不吉の知らせは、これかって思った。でも、そのあと、あんたらが来て、俺を冒険に連れ出した。色んなことがあったよな。仲間が死んだし、俺も死にかけた。5兆匹のスライムを、俺だけが倒せるって聞かされたし、やっぱり倒せないって言われたし、やっぱりやっぱり倒せるかもって話になった……。あの虹は、このどれを知らせてたんだよって、思うと、なんだか可笑しくてな」


 セトカは不思議そうに言った。


「虹は、不吉なのか?」


「違うのか? 俺たちの国じゃあ、そうさ」


「私たちの国では、虹は、不吉ではない。逆に、なんというか、見ると、なにかいいことがありそうな、そんな気がする」


「国が違えば……だな。でも、そっちのほうがいいや。雨上がりに虹を見て、なにかいいことありそうだなって思えるほうが、よっぽど楽しいよな」


 それから二人は黙った。


 雨の音が大きくなった気がする。

 セトカが上半身を起こした。

 ランプの明かりに、そのしなやかな身体が浮かび上がった。


「あ、火傷が……」


 セトカは、魔神の魔法で全身に火傷を負っていたはずだった。それが今はその痕跡もなくなっていた。


「ああ。宮廷付きの回復術師に治してもらったんだ。その……そなたが、少しでもその……元気になれるかなと思って」


 セトカはあいまいな言い方をした。


「綺麗だ」


 レンジはセトカを見て言った。セトカは、はっ、と息を吐いた。


「いいのかよ。デートに誘うだけで、ハレンチなんだろ」


 レンジがセトカに近づいた。


「こ、この際仕方がない」


 レンジの顔が近づき、セトカは一瞬反射的に逃げそうになったが、意思の力で踏みとどまった。


「結婚を前提とかなら、いいのか」


 レンジがそう言うと、セトカはきょとんとした。


「結婚、してくれるのか?」


「えっ」


 レンジのほうが驚いた。


「いいの? 結婚」


「そ、そなたが結婚してくれるなら、私の不道徳な行為も許される!」


 セトカは興奮気味にそう言って、すぐに頬を赤らめた。


「あ、そ、そなたが、嫌じゃないなら……」そう言いかけて、ハッと目を見開く。


「あ、でも私はまだ団を抜けられない。孤児だった私たちには、市民権がないんだ。だから結婚もできない。正規団員として10年働かないと市民権を取り戻せない。それまでに、あと2年くらい、ある。それからでも、いいか?」


「いい。全然いい。待ちます待ちます。こっちは15年も人生を棒に振ってた男だぜ」


「ホントに、ホントに約束してくれるんだな」


「ああ。結婚しよう」


 レンジは、もう限界だった。マグマが飛び出しそうだった。

 さらにセトカに近づく。とてもいい匂いがした。


「わ、わたし、その……は、はじめてだから、や、やさしく」


 セトカはどもりながら言った。その言葉を聞いて、レンジは理性が消え去っていくのを感じていた。


『おいレンジ。これは必要な儀式なんだ。気に病むことはねえ』


『いいから、はやくヤッておしまいなさい。はやく』


 陰茎と陽物が口々にそんなことを言っていた。


「あの、レンジどの? 目がちょっと怖……」


 レンジは、セトカににじり寄った。


「あのあのっ。なんか、バレンシアが言ってたの。レンジどのはその、大きいって。わたし、はじめてだから、よくわかんなくて、とにかく、あの、や、やさしく、して、ください」


 はい、もう無理です。


 そこから、レンジの記憶はない。


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