第21話 死なせはしない


 ガギィンッという、凄まじい音と衝撃が、燐光を散らせながら、レンジの顔を叩いた。

 すぐ目の前に、死神の鎌があった。

 刃物のように尖った鈍色(にびいろ)の爪。


(魔神の、手!)


 レンジは目を見開いた。

 彼と、その爪の間に、もう一人だれかがいた。その人物が、剣を構えて、魔神の爪を受け止めていた。


 ちりぢりに舞うほのかな燐光に照らされて、彼女の赤い頬が見えた。その頬に刻まれた、変な顔の鳥が。


「この頬の印にかけて! あなたを!」


 剣が、魔神の爪をはじき返した。剣を握り直す彼女の赤い髪の毛が、炎のように逆巻いていた。


「……死なせはしない!」


 その瞳までもが赤く燃えていた。


「マーコット!」


 女騎士は、闇の向こうにそびえる巨大な影に向かって、飛び掛かった。

 ギィンッ!という剣戟の甲高い音。続けざまにそれが幾度も聞こえた。やがて、ギャアアアッという不気味な声が響いたかと思うと、周囲を包んでいた闇が晴れた。


「アタランティア……」


 すべての光石に青い光が戻っている。

 視界の晴れたその先には、たった一人で魔人アタランティアに斬りかかるマーコットの姿があった。


「もう1体いたなんて!」


 さっきまでの2体と、仮面のような顔の模様が違う。しかし、それ以外はあの魔人そのものだった。

 マーコットは、矢継ぎ早に繰り出される左右合わせて20本の腕の攻撃を、凄まじいスピードでかわし、受け流し、はじき返していた。


 レンジは我に返ると、マーコットに向かって自分の知る限りの補助魔法をかけた。

 俊敏性アップ。腕力向上。耐久力上昇。視界拡大。

 ええと、ええと、それから……。


 レベル6である自分のバフなど、焼け石に水のようなものかも知れないと思った。でも、そうせずにはいられなかった。


「マーコット、頑張れ!」


 最後には叫んでいた。


 気がつくと涙が出ていた。涙が、止まらなくなっていた。

 彼女の運んだ命の息吹が、レンジの体を駆け回っていた。


 ふいに魔神の一番上の腕が、二本ともくるりと円を描いた。

 マーコットが振り向いて叫んだ。


「伏せて!」


 とっさにその言葉通りにしたレンジの頭上を、巨大な火球が飛び去っていった。

 やがて背後から爆発音。


「ああっ」


 マーコットのくぐもった声が聞こえた。

 彼女の足元に、地面から泥のようなものが飛び出して、それが金属製の靴ごと右足の甲を貫いていた。


 マーコットは足を引き抜くと、レンジのところまで飛びずさった。


「勝てません」


 短くそう言った。その頬や、首筋、肌が出ているあらゆる場所から、彼女は血を流していた。


 魔神はゆっくりと近づいてこようとしている。弱った獲物をいたぶる獣のような動きだった。


「4層まで逃げれば……」


 レンジがそう言いかけたが、マーコットは「逃げきれません」と言った。


「じゃあどうしたら!」


「大神殿で、仲間と合流するしかない」


「そんな!」


 大神殿では今も、セトカたちがあの魔物の群れと2体の魔神を相手に、決死の戦いを挑んでいるのだ。

 そこに、もう1体の魔神をつれて逃げ込むというのか。


「できねえよ」


 レンジはうめいた。

 無性に悔しかった。この状況をどうすることもできない自分が。


「行くんです! 団長を、仲間たちの力を信じてください」


 マーコットは魔神を背にして、レンジの頭を両手で抱えた。真っすぐに見つめるその瞳には、絶望の光は見えなかった。


「ね?」


「あ、ああ」


 レンジはうなづいた。


 マーコットは振り返ると、腰につけた小物入れからなにかを取り出した。


「合図したら、私について走ってください。全力で」


 そして、近づいてくる魔神の前で手を地面に振り下ろした。


 バフォンッ。

 という音ともに、真黒な煙幕が地面から吹き出した。それが魔神の姿を覆い隠す。


「今です!」


 マーコットは走り出した。そして魔神の横をすり抜ける。レンジもあとに続いた。

 煙幕のなかで、ガキィンッという金属音がした。立て続けに、2度、3度。

 レンジは目をつぶって走った。

 走っていると、闇の中であれほどレンジを嬲った死の、冷たい腕が、どこか遠くにいったように感じられた。



 地の底とは思えない石畳のうえを、レンジは必死に走っていた。

 後ろから追いすがる魔神の攻撃を、マーコットが剣で弾いている激しい音が、間断なく聞こえている。

 いま前から魔物の群れに襲われたら、終わりだ。

 ゾッとする考えが脳裏に浮かぶ。とっくに息が上がっているが、生きるか死ぬかだ。冷たい空気が喉に刺さる。つらい。きつい。


 やがて背後から金属音が聞こえなくなる。

 ハッとして振り向いたが、マーコットは無事だった。すぐにレンジの横につく。


「あいつ、目的地に、気づい、たな。はあはあ」


「ええ。逆に、そこまで追い込む気でしょうな」


 魔神は距離を保って追いかけてきているが、攻撃は止んでいた。大神殿まではあと数ブロック。

 魔神は舗装道のうえを蛇体をくねらせて進んでくる。獲物を追い込もうという冷徹な意思を感じる。のっぺりとした白い顔が、まるで笑っているように見えた。


「嫌なことを言ってもいいでありますか」


 マーコットは満身創痍だったが、それでもレンジよりはまだ体力がありそうだった。貫かれた足をかばいながら、懸命に走っている。


「聞きたく、ないけど、なに?」


「……魔神は、あの3体目で最後なのでありましょうか」


 レンジは、一瞬目の前が真っ暗になりかけたが、すぐに「あ、いや、これは勘だけど」と言った。


「あの祭壇の、うしろの壁画。3つ首の龍。あれは、山脈に住む、ドワーフ族の伝承に出てくる、彼らの、先祖らしい」


 ちらりと魔神を振り返って、走るペースを落としながらレンジは続けた。


「俺も昔話でしか知らないけど、山のドワーフたちを生んだ始祖龍は、やがて彼らを残し、地の底に消えたとかなんとか。……3つの首の龍の伝説。山の底で掘り起こされた、異界の入り口。そこから現れた蛇体の魔神……」


「繋がっていると?」


「わからないけど、魔神はきっと3体だ。そうでなきゃ、終わりだよ」

 

 ようやく、元来た大神殿が見えてきた。

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