追想

第11話 八瓦 里弦


 放された者は、その小さな、不完全な胎児の輪郭だけを徐々に浮かばして、体の空白に映る入る記憶に首を永遠に伸ばして、顔の空白を埋める様に見ていた。頭の中央が微かに静電気の様なか細い小さな光が脳の輪郭を浮かべる様に光り始める。


 そこは小屋と呼ぶにはあまりにも質素で、物置小屋か道具置き場を彷彿とさせる汚らしい小さな部屋の中だった。

 少年は、カーペット替わりであろう、かびだらけボロボロのダンボールの上で母親と思われる細身の女性に抱き付いていた。

 しかし、その少年に抱き付かれた母親は、カサッカロンと音を立てて人形の様にそのまま押し倒されてしまった。見れば、母親は、ミイラの様に干乾びて既に亡くなっていた。


 その様子に何も感じない。寧ろソレがあり溢れた光景なんだと簡単に受け入れられた。


 放された者は“この少年は誰なんだ?”と疑問を浮かばした。だが、疑問は、まるで風船の様に浮かび、体から離れていく様に消えていった。


 そんな母親の胸に顔を埋める少年は、息を殺して肩を震わしながら泣いていた。そんな少年を覆い隠す様に影が部屋の外から伸び入って来た。


 目を向ければ少年の父親が立っていた。軍服を着た父親は、泣き寄る少年を抱きしめて優しく声を掛けた。「里弦りつる……」


“一体何を見ているのだろう?”や“自分は誰なのだろうか?”


 また、幾つかの疑問を風船の様に浮かばした放された者は、少年の父親の言葉に、今見ている、その少年が自分自身なのだと、不思議と理解した。

 まるで、パズルのピースがはまって行く様な感じだ。走馬灯なのかと一瞬、思いはするが明らかな違和感は消える事は無かった。

 “いや…何か変だ。走馬灯ってのは、記憶に無い事を思い出すものなのか? 今見てる物は、走馬灯とは全く違う、何やら…洗脳、再教育の様な”


 その考えも成す術無く、風船となり消えていく。それでも、自分は、里弦りつるじゃない、と言う考えは、尽きなかった。同時に自分が里弦なんだと言う感覚は、確かな物として残っていた。


 ───父親は、政府の人間だった。


 だが、里弦は、政府の施設で保護される事無く、一般民と同じ様に暮らしていた。父親は、毎回小屋に戻って来ると、政府の食料を持ち出しては、里弦に与えていた。見つかればただでは済まない事は、父親も承知だった筈だ。


 “怖い…”


 この体が乗っ取られる様な───「父ちゃん、オレも連れてって、せーふ、の施設で暮らそうよ」放された者の不安を消す様に里弦が声を出した。


 政府には、孤児を保護する施設があり親子を泊められる程度の居住室は、それなりにあった。幼いながらその事を理解していた里弦の質問は、ごく普通の物であった。しかし、父親は「そうしたいのだけど…」と言葉を濁していた。


 里弦は、いつも一人だった。父親は、仕事に行けば数日、長い時一ヶ月近く帰って来ることは無い。

 息も詰まる程の孤独の中、家族の温もりを求めていた里弦は、父親の持ってきた食料を少しずつ食べていた。


 “これ以上は、見たくない”


 寄生虫に痛み無く、体の中を食い荒らされてる様な不快感だ。放された者は、体を引き剥がそうとした。しかし、剥がれる事はおろか、体の空白は、頭と癒着していた。


 そんなある日、里弦は、革命軍テロリストに捕まってしまった。自分の父親が政府の関係者だと言う事がバレてしまったのだ。


 父親は酷く後悔、葛藤して、里弦を助けようと出向く最中。

 革命軍テロリスト内では、政府に対する見せしめとして、里弦をどうするかの議論が行われていた。


 冷たく暗い部屋の隅で里弦は、ストレスからか、高熱を出し、その小さな体は、蕁麻疹が全身に広がっていた。


 “止めろ…俺は、里弦この子じゃない…! 俺は、俺は…誰なんだ!? 消えていく…自分が、消えていく……!”


 自分を思い出そうと掘り起こそうとする全てが一瞬で───忘れ消えていく恐怖や不安すらも────藻掻けば藻掻くほどに放された者は、本当の自分を忘れ、体から離れて行くのを感じる。


 逃げようとする里弦だが、無情にも、細いその左足は折られて、膝を切られた挙句、剥き出しになった半月板を削り取られた。痛みの中、気を失いそうになりつつ助けを泣き叫ぶ里弦の腕に無理矢理、注射器が刺された。


 父親が里弦に元に辿り着いた時、里弦は、瀕死の状態だった。銃を落として駆け寄り、ベッドの上の里弦を抱きしめる父親は、泣き崩れて、ただ只管ひたすら謝っていた。しかし、その背後から後頭部に向けて銃口を突き付けられた。


 そこには、いつの間にかボロボロの軍服を着た男性が立っていたのだ。


「悲しいなぁ。家族の為とは言え、政府自分達に背くなんて。これでこの世界の何処にもお前の居場所は、無くなった。オレもお前と同じ人間だ。地獄までの案内なら務めてやるよ」


 父親は、その言葉に怒る事も無く────むしろ安心したかの様に小さく頷いて振り返った。ガスマスクを外して咳き込みながら涙を拭うと、銃口を向ける革命軍テロリストの男性を見つめた。


“止めろ…止めてくれ…!”


 放された者は、遂に自分が誰で何者なのか、完全に分からなくなっていた。そして、微かに残っていた元の自我も今まさに、風船の様にその体から離れようとしていた。


「……その子は助かる。だから、安心して逝け───」ダァン!!


 その銃声が鳴ると同時に風船は離れ、放された者は、頭を上げて人の腕を咄嗟に伸ばした。伸ばした手は、誰かに掴まれ引っ張られる。その一連の流れはあまりにも一瞬に過ぎ去り、目の前を黒が覆った。


   ◆


 目を開ける。最初に見えたのは、天井の青白い照明だ。霞んだ視界、朦朧とした意識の中、鈍い動きで周りを見渡す。隣に誰も居ないベッドが4つ横並びに並んでいた。微かなアルコールと薬品の匂いにここが医務室なのだと直ぐに分かった。


「ぁ……ぁぁ」声を出そうとするが酷く喉が枯れて、下手に大きな声を出せば喉が裂けそうに思えた。


 放された者は、里弦になっていた。

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