41,思い出の絵本



「――レオちゃん‼」


 シトシトと降り注ぐ雨。夏の終わりの空気が湿気を纏い、身体に張り付く。

 それでも不快と感じないのは、草木が絞める匂いがノスタルジーを奏でているからだろう。


 レオナルドは大きく音を立てながら駆け込んできたラナに、タオルを手渡した。


「ステラは自室で寝ています」

「ステラ……。湖に突き落とされたって、本当なの?」

「すいません、俺が付いていながら……」


 あの夜、レオナルドはステラに掛けられた捕縛魔法を解除し、一目散に後を追った。


 日頃から常に訓練と共にある彼が、ステラに追いつくのはそこまで難しくない。しかし厄介な捕縛魔法の解除に手間取ったのは、流石特殊魔法といっとたころか。


 タオルを受け取るも、ラナはその足でステラの自室に入る。


「ステラ? ……あぁ、寝ているの……」


 シンプルな部屋の真ん中に、一つのベッドが置かれていた。

 枕元の本棚には、ヒルおじさんから送られた兎のぬいぐるみと何冊かの絵本が置かれている。

 これは彼女が幼いときから変わらないままの、思い出のレイアウトだ。


「熱があるのね……可哀想に……」

「先程薬を飲ませて眠ったところです」


 ベッドに横たわるステラの頬は赤らみ、息が乱れている。

 ラナは近くの椅子に座ると、レオナルドに渡されたタオルでステラの汗を拭った。


「手紙、読んだわ。銀髪の男に突き落とされていたんですって?」

「遠目でしたが、あれは男性でした。髪の長さで女性かとも思いましたが、ステラを突き通した腕の太さは男性の物だ。それに身長も俺よりあったようです」

「レオちゃんがステラを追いかけてくれなかったら、きっと死んでいたわ。お礼を言わせて頂戴」

「やめてください、俺はステラを守り切れなかった」


 震える拳を、抑えるように握りしめる。

 もしあと一分でもあの場に着くのが遅ければ、ステラは今頃……。


 考えるだけでも身の毛がよだつ。


「俺がもっと強く止めるべきでした。結果的に命は救えても、危険に晒してしまった。これではヒルさんに殴られても仕方が無い」

「ヒルさんもきっと感謝するわ。それより、問題はその銀髪の男ね。何が目的でステラを湖の中に突き落としたのかしら……」

「すいません、その男を追うよりステラの救助を優先したので、何も手がかりが掴むことが出来なかった……」


 レオナルドがラナに近付くと、その震える肩に気が付いた。

 気丈に振る舞っているように見えて、動揺しているのだ。


「男は、走って逃げたのかしら?」

「いいえ、蜃気楼のように消えました。ステラが押されたのだから、直前まで実体はあったのでしょう。そこから逃走魔法で逃げたようです」

「ならステラが起きたら、その現場に行きましょう。追跡魔法を掛けてみる価値はありそうね」


 レオナルドはステラに突きつけられた紙を思い出す。


 まばらにしか読まなかったが、あの場に行くにはいくつかの条件を満たさなければ行けなかったように書いてあった。

 今となってはその条件は湖の底に沈んでいるため、明確では無い。


 そして口に出すことは無いが、レオナルドにはその男に一つだけ思い当たることがあった。


「(城に戻ったら確認するべきだな)」


 ステラの額に置いた濡れタオルを直しながら、ラナは小さく溜め息をついた。


「とにかく、このことはヒルさんにも伝えて置いた方がよさそうね」

「それなら俺が手紙を出してあります」

「まぁ、仕事が早いのね」


 穏やかに笑ってみせるが、その顔には憂いが漂っていた。

 その笑い方は、レオナルドもよく知っていた。


「それで、これが燈月草?」

「はい。湖の底で咲いていました」


 ラナが指さしたのは、ステラの枕元にある瓶だった。

 中には水が満たされており、金色に光る一輪の花が咲き誇っている。


「見つけたのね……。じゃあもうすぐ王都に戻るの?」

「はい。ステラが目を覚まし、熱が下がれば直ぐにでも帰るかと」

「寂しくなるわね」


 本心からの言葉だろう。

 もしステラが聞いていれば「やっぱりお母さんもアルローデンで一緒に暮らそう!」と言い出すだろう。


 ラナはステラの頬にかかった赤い毛を払ってやり、愛おしそうに頬を撫でる。


「ヒルさんから何処まで聞いたの?」

「全部かどうかは分かりませんが、ステラの生い立ちや、ラナさんの生い立ちを。そしてクロノスの木についても聞いています」

「そう。あの人ったらお喋りねぇ」

「勝手に聞いてしまい、申し訳ありません」

「レオちゃんが謝る必要なんて何処にも無いわ」


 そう言うラナの横顔に、一層陰りが見える。

 

 オゼンヴィルド家の事件があった日、ステラが色替えの薬を使って変装をしたことがあった。

 こうしてみると、あの日のステラと瓜二つだ。


「じゃあ私がオゼンヴィルドから追放されたと言うことも?」

「聞いております」

「そう……。ねぇ、お母様やお父様は元気かしら」

「元気です。ご存知の通り、何者かに襲撃されましたが、ステラが守ってくれましたよ」

「レオちゃんも助けてくれたのでしょう。全部聞いたわ」


 もうラナの肩は震えていない。

 レオナルドはラナの隣に立つと。苦しそうな寝息のステラを見下ろす。


「ですがラナさんのことを心配されていたようです。この間の事件でも、ラナさんへの想いが原因だったようです」

「勘当された手前手紙を出すわけにもいかないし……。ステラじゃないけど、私もお母様には心配掛けてばかりね」

「似たもの同士ですよ」


 そう言うと、ラナは少しだけ嬉しそうに笑ってレオナルドを見上げた。

 

「ふふっ……そう言われるとなんだかくすぐったいわね。あなたもこんなに大きくなって……」

「? 以前何処かでお目にかかったことがありましたか?」

「写真で生まれたばかりの頃のレオちゃんを見たことがあるのよ。こうやって従甥に会えて、本当に嬉しいわ」

「俺も、ここで会えて良かった。大叔母様に良い報告が出来ます」


 レオナルドはベッドに腰をかけ、毛布を直した。

 そんな様子を、ラナは静かに見守る。


「本当はね、私もヒルさんもステラを外に出すのは心配だったのよ。けれどあまりにも婦警さんになりたいって言い張るものだから、引き留められなくて。

 ステラの眼が、何処まで本当の諸説に沿っているかわからない。もしかしたら、いつか災いがステラに降りかかるかも知れない。

 万が一のことを考えて雲隠れまでしたけれど……この子の夢を折る理由は何処にも無かったわ」


 枕元に立てかけられた絵本を取り出す。

 そこにはついこの間、ヴォルから読ませて貰った絵本があった。


「妊娠が発覚したときは大変だったわ。大急ぎで服と少しのお金を纏めて……持ってこられた思い出の品も、この絵本くらいだったわ」

「吸血鬼とニンニク農家、ですよね」

「え、えぇ。なんで知っているの?」

「オゼンヴィルド家では、この本は装飾箱に入れられて厳重に保管されています」


 表紙を捲ろうとしていた、ラナの手が止まった。


「ヴォル……ラナさんの甥に聞きました」

「……この絵本はね、私とお母様が二人で作った絵本なの。世界に二冊しかないのだけれど……お母様はまだ持ってくださっているのね」


 愛おしそうに、その絵本はラナの胸に抱かれる。


 唯一手元に残った、大切な肉親との思い出。

 それはラナの大切な宝物だったのだ。


「本当にありがとう、レオちゃん。あなたが来てくれたから、私の心も救われたわ」

「いつか、大叔母様に会いに行きましょう。ステラと一緒に」

「そうね、時が来ればいつか許されるわ」


 ステラの枕元に飾られた燈月草が、キラリと光った。


 

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