18,遠くない過去の衝撃
「……はい、そこまで」
誰もいない静かな図書室で、ジェラルドの声だけが響いた。
その合図に、ステラは持っていた羽ペンを机に落とす。
「随分書けるようになってきたじゃないか」
「手がっ……手がぁっ……‼」
「大げさだ」
早速始まった就職対策講座。
覚悟を決めていたが。思っていた以上にスパルタな講座だった。
今まで生きてきた中で、論文など書いたことない。
いつも手にあるのは拳ダコだが、このままではペンダコまで追加されてしまうだろう。
ステラはもう何も見たくない、と机の上に伏せてしまった。
「論文の書き方は覚えておいた方がいいぞ。昇格試験でも必要になってくるからな」
「就職した後もですか⁉」
「当然だ。お前だって上に行きたいだろう?」
「そりゃ、いつかは」
「だろ。それに入ってからの数年はいいが、その内に直属の上司から昇格試験は受けろと絶対に言われる」
夢への道のりは相当厳しい。
ステラの目がほんのちょっぴり濁った。
「警察なんてな、一生勉強がつきまとってくるもんだ。筋トレばっかりじゃ国民は守れんぞ」
「ジェラルド副署長も死ぬ程勉強したんですか?」
「死ぬ程ではないがな。それなりに勉強はした」
元々頭のいい人間はこれだから‼
叫びたくなる衝動を抑えた。
「それにこれくらいで死ぬ程、とは言えないな」
「今ジェラルド副署長と勉強している分は、私が生まれてから今まで勉強した分と同じ量くらいです」
「筋トレと座学配分の下手くそが過ぎるぞ」
「うぅ……身体を動かしたい……」
窓の外を横目で見る。
空気の入れ換えのために開け放たれている窓の向こうでは、王国騎士団志望組が模擬戦を繰り広げていた。
叶うことなら今すぐ座学など放り出して、混ざりたい。
「……わかった。じゃあもう一科目終わったら、俺達も組手をしよう」
「えっ⁉」
「ただし! ちゃんと点数取れよ!」
「取ります取ります! どの教科ですか⁉」
両手を上げ、身体の全てを使い喜びを表現する。
「好きなの選んでいいぞ。……その好きな教科ありませんっていう露骨な顔はしまえ」
「じゃあ……人文科学……」
「頑張れ! これが終われば組手、警察に受かれば祝いに肉をたらふく食わせてやる!」
「やります! 自分、物凄く頑張ります‼」
「次はレオナルド皇子の出番ですよ」
「あぁ」
木の陰で涼みながら、図書館を眺めていたのはレオナルドだった。
自分の出番が終わったデルマが、木剣差し出す。
受け取った木剣は、普段自分が腰から下げている物より遥かに軽く、少々物足りなさを感じる。
「何を見ていたのですか?」
「いや、珍しい光景だと思ってな」
「あ! ステラ・ウィンクル……‼」
校庭から見える図書室の窓際で、赤い頭の少女が机に囓り付いていたのだ。
そういえば、いつかの長期休暇にデルマはステラを自分の別荘へと誘ったんだったか。
「なぁ、デルマはあいつを好きなんだろ?」
「んなっ⁉ っいだ‼」
藪から棒な質問に驚いたデルマが、足の上に木剣を落とした。
何処かで見たようなコメディアンな動きだ。
「ぼ、ぼぼぼぼくは別に‼」
「いや、キャンプの時も何回かあいつの顔見て赤くなっていただろ」
「それはあいつの髪が赤いから‼」
「流石のあいつも発光はしてないな」
「ぐっ……!」
顔を真っ赤にしたデルマが押し黙る。
「なんであいつのこと好きになったんだ? そんなに接点無かっただろ」
「好きとかじゃなくてですね!」
一呼吸置いて自分の胸に手を当てた。
そして観念したように、ゆっくりと話し始めた。
「……入学したばかりの頃、ステラ・ウィンクルに助けられたことがあったんです」
少しだけ仲間の輪から外れた。
レオナルドと一緒に腰を降ろし、図書室を眺めながらポツリポツリと話し出す。
「家から出た経験がない僕は、当時ホームシックになっていたんです」
「そういえば、そういう奴もいたな」
泣きながら荷物を纏め、実家に戻るクラスメイトを何人か見た。
「僕も帰るとは言い出しませんでしたが、その一人でした。飼っていた猫に会いたくて会いたくて……」
「猫」
「猫です。猫はいいですよ! モフモフのお腹に、プニプニの肉球。ミステリアスでツンデレで距離感が程よい感じで、気まぐれがたまらない‼ 自由気ままで我が儘のようですが、実は寂しがりなところも魅力的! 媚びないくせに無視されたくない、気高いと思ったら、じゃれついた時の可愛さのギャップ‼」
「落ち着け」
「おっと失礼」
今までない熱量に、圧倒された。
知らない一面を知ってしまった、まさかデルマがここまで猫好きだったとは。
熱く語る猫愛を遮り、その続きを促す。
「確かあれは、移動教室の途中だったと思います。移動中に廊下から空を見上げたら、猫が木の上で鳴いていたのです」
「猫が高い木から下りられなくなるのは、よくある話だな」
「仰る通りです。まさしくその状況でした。それで僕はいてもたってもいられなくて、木に登ったんです」
「お前も意外と行動派だよな」
「猫に関わる時だけです‼ 実家の猫によく似ていたから放っておけなくて。登って捕まえたまではよかったんですが、今度は僕まで降りられなくなってしまったのです」
似たような展開の話を何処かで聞いた気がする。そうだ、オリバーが地元で流行っていると言っていた雑誌の連載の展開だ。
「途方に暮れていたら、下から女性の声が聞こえてきたんです」
『何やってんの?』
『えっ⁉』
女性というにはあどけなさ過ぎた。
入学式でも一際目立っていた赤髪の少女が、こちらを見上げていた。
咄嗟のことにデルマは言葉が出ず、腕の中の猫が変わりに返事してくれた。
『ニャー……』
『もしかして降りられなくなっちゃった?』
『ニャー!』
『そのっ! 僕は別に困っているわけじゃ……! って聞きたまえ!』
デルマに向けて話しかけているというより、猫に話しかけていたようだ。
猿のようにスルスルと木に登り、デルマの横に座った。
『ほい』
『な、なんだ?』
『手、出して』
同じ歳の女の子の手にしては、固い手だった。
戸惑いながら手を取ると、少女はすぐに立ち上がる。
『猫を離さないでね』
『えっ、えっ⁉』
何をするかと思えば、デルマの手を握ったまま枝から飛び降りたのだ。
反射で目をきつく瞑る。
『うわぁぁぁああ‼』
『大丈夫だよ、怖がらないで!』
覚悟していた痛みが襲ってこない。それどころか風が心地いい。
そっと目を開いた。
『浮いている⁉』
『これは私の魔法だよ!』
二人がゆっくりと地面へ足を着けた。
腕の中の猫は満足そうに一声上げると、デルマの腕から飛び降りて何処かに走り去った。
『よかったね、猫に怪我がなくて』
『ああ……』
初めての経験だった。
あんなにゆっくり落ちたのも、木から飛んだのも。
『じゃあね!』
『あ……』
あまりにも驚きすぎてお礼すら言えなかった。
「……と、いう訳です」
「あいつらしいな」
それがずっと心残りだったデルマは、ようやく長期休暇を目前にして話しかけられたのだ。
「それでお礼も兼ねて別荘に誘っただけです。恐らく彼女はそんなこと覚えていないでしょうけど」
デルマの視線は図書室のステラに釘付けだ。
急にステラが両手を上げたのが見えた。
「なんだかやる気を出したみたいですね」
「露骨にな」
死んだような顔が一変した。
背負っていた暗い空気が吹き飛び、瞳が輝いている。
「単純な奴だからな。大方ご褒美を目の前にぶら下げられて元気になったんだろ」
まさしくその通りである。
向かいに座るツーブロックの男が呆れたように笑いながら、ステラを見守っていた。
「……見たことある顔だな。何処でだったか……」
「確か子爵家の長男では? 何度かパーティーで見かけた気がしますね」
「そうだったか?」
であれば、自分も何処かで挨拶をしているのだろう。
なんせ話す人数が人数なので、殆ど覚えてはいないが。
「最近、アルローデン警察署の副署長に昇格したとか聞きました。カルバン先生の同級生という噂もありますね」
「副署長? あいつの講師にそんな上層部が出てくるのか?」
「まぁ、今の警察は……」
「あ――……」
デルマが言い淀み、レオナルドは察する。
この続きをステラが聞けば、ナックルを装着して襲いかかってくるだろう。
「……なんにせよ! ステラ・ウィンクルにも頑張って欲しいものですね!」
「違いないが……」
折角努力しているのだ、水を差すようなことは止めよう。
レオナルドは木剣を今度こそ受け取り、自分の立つべきフィールドへ向かった。
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