第20話 救世主は人を乗せるのがお上手
――だ、誰?
彩風さん家のお兄ちゃんと言うからには、人違いという線はないだろう。
しかし当の本人である僕はまったく見覚えがなかった。絶対どこかであったことがあるはずなのだ。
人の顔を覚えるのが苦手だと、こういう場面で痛い目を見る。
それにしてもなぜこんなときに限ってあさがおがいないんだ。
戸惑いを見せては失礼だと、余所行き用の笑顔を試みる。だが、あさがおのように器用に表情をつくることはできなかった。口端がぴくつき、ぎこちない笑顔になっているのが自分でもわかる。
「こ、こんにちはー」
「お兄ちゃんジャム食べてくれた? 作りすぎちゃったからこの前彩風さん家におすそ分けしたんだけど」
じゃむ? その単語にふと今朝の食卓の光景が思い起こされた。言われてみれば市販のものではないジャムをあさがおが食べていたっけ。タイミングが悪く、残念ながら一度も手をつけていなかった。
知らない顔から飛び出てくる知らない話題。有無を言わさずに押し寄せてくる未知の集合体に押され、「え、えーっと」とうまく言葉を形成することができない。
かろうじて貼り付いている笑顔を、戸惑いが引き剥がしてこようとする。見知らぬ人でもコメントならすんなりおしゃべりできるのに、これが現実での話となると途端に難しくなる。
これ以上どうしようもなくなっていると、通路の奥から待ちに待った救世主様が戻ってきた。
「あー、佐藤さん! こんにちは。ジャムありがとうございました。めっちゃ美味しかったです!」
「あらー、あさがおちゃん。そう言ってもらえて嬉しいわ。そんなに喜んでくれるならまた間違えて作り過ぎちゃおうかしら」
「ほんとですか! 大丈夫ですよ。たとえ作りすぎたとしても私がいっぱい食べるんで安心してください。楽しみにしてますね!」
「ありがとねー。今日は二人でお出かけ? 仲よしでいいわねぇ」
「はいっ!」
目がしばしばと
ひととおり話し終えると、佐藤さんと呼ばれていた女性は上機嫌な様子で帰っていった。
周囲からすとんと声の塊が抜け落ちた店内は、やたらと静かに感じられた。
助かった。ホッと胸を撫で下ろすと、口をへの字に曲げたあさがおが僕をじっと見ていた。長い睫毛で縁取られた双眸が、冷ややかに細められている。
「お兄ちゃん。さっきの人誰だかわかってなかったでしょ」
「そんなことないけど。佐藤さんでしょ? うん。佐藤さん」
さっきの僕の対応は、どう見てもわかってない人のそれだったと自覚している。自覚しているからこそ悪あがきをしてみたのだが、そんな兄を見て彼女は「はいはい」と肩を落とした。
「あの人は近所の佐藤さん。昔からよくお世話になってる人。まあお兄ちゃん普段部屋に引きこもってるから、近所の人とか覚えてるわけないよねー」
嘲笑を浮かべながら、淡々と鋭利な言葉を投げてくる。あさがおの言うとおり、たまに友達に誘われて外に出るとき以外は基本部屋に引きこもっている。そのため近所の人のことはあまり知らなかったわけなのだが、同時にあさがおがこんなにも顔が広いことも今日まで知らなかった。
こういうしっかりしたところは素直に尊敬する。僕も見習って、これからは他人の顔と名前を覚えるくらいは努力しようと思えた。
カフェに向かって歩き出すと、あさがおが独りごちるように小さくつぶやいた。
「……ネットではめっちゃ元気なくせに」
「え、なんて?」
「なにも言ってないけど」
驚きのあまり反射的に反応してしまった。聞き返したのは聞こえなかったからではない。
あさがおから配信関連の言葉が出たのは、あの日以来初めてのことだったからだ。
◇
ショーケースのなかは端から端までずらっとスイーツが敷き詰められていた。砂糖でコーティングされた色とりどりのフルーツたちがてらてらと光を放っている。その宝石のような輝きは美味しそうを越えて綺麗だと思えた。
「えー、どれにしよっかなー」
あさがおはさっきからずっとこんな調子だった。反復横とびでもしてるかのような動きで、ショーケースの前を右に左にと身体を揺らしている。
「えーっと、これとー、これとー、」
「ちょいちょい。パフェ一個だけじゃないの」
ほっとくと果てしなく続いていきそうな気がして食い気味に遮る。
「えーいいじゃん。実際に見ると全部美味しそうで選べないんだもん」
「……ちなみに聞くけど、財布持って来た?」
のぞき込むと、あさがおの動きがピタリと止まった。ショーケースに前のめりになっていた身体を起こして、こちらを見据える。
すると芝居がかったようにポケットのなかをゴソゴソと探り始めた。左上を眺めているその目元には、思案げな皺が大げさに刻まれている。
なにが始まったんだろう。しばらく見ていると、その双眸が急に僕へとまっすぐ向けられた。ポケットから取り出した二つの小さな拳が、自身の胸の前に添えられる。そして閉じていた手のひらが、彼女の唇と一緒にパッと花火のように大きく開いた。
いたずらっぽい笑みを浮かべたその表情は、手品が成功したマジシャンのようだった。
「いや、『ジャジャーン! 消えちゃいましたー!』じゃなくて。ダメです。奢ってもらうつもりなら自重してください。一個までです」
あさがおにとって不都合な主張であるのにも関わらず、彼女はコロコロと喉を鳴らした。自分のジェスチャーが伝わったことのほうが嬉しかったのだろう。鈴の音みたいな澄んだ笑い声が小さく反響し、辺りを明るく色づけていく。
「しょうがないなー。パフェだけにしといてやるか」
あさがおが、僕をジトっと睨みつける。しかし不満げにすぼめた唇からは、喜びの感情がはみ出ていた。
「あっ! お兄ちゃんこのチョコのケーキ絶対好きでしょ! お兄ちゃんこれにしなよ。これにしたほうがいいよ」
そう濃厚そうなチョコのケーキを指差すあさがおの目は、人に勧めるときのそれとは明らかに異なっていた。弧を描く瞼に隠された眼光は鋭く、人のものを狙うハイエナのような
それは僕の好きなものじゃなくて、あなたが食べたいものでしょうに。
ヒシヒシと伝わってくる彼女の企みに、肩をすくめる。「ちょっと食べさせて」と言われたら最後。きっとひとくちシェアなんて可愛いもので済まないだろう。
「じゃあ、それにしようかな」
そんなことを思いながらも、僕はパフェとチョコケーキの注文を店員さんに告げたのだった。
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