第21話 向き合わなければいけないこと

 ショッピングモール内のカフェには何回か友達と来たことがあった。混んでることを想定していたが、運がよかったのか空席がポツポツと目に入る。

 店員さんから商品を受け取ると、いちばん奥の窓際のソファー席に二人で座った。天井まで届く窓にはカーテンはなく、枠のなかは空の青色がめいっぱいに塗りたくられている。空のいちばん高いところにいた太陽がわずかに傾き、光が落ちたソファーからはお日様の匂いがした。

 陽の色に染まった場所にそっと触れると、眠気を誘うような穏やかな熱が指の腹に伝わってくる。


 コーヒーをひとくち含むと、芳ばしい苦みが身体にじわりと染み込んでいった。全身を巡る大人の風味に、自ずと吐息がこぼれる。

 虚ろな目を外に向けると、駐車場を四人組の親子が横一列で歩いているのが見えた。いちばん小さな男の子が、父親の左手と母親の右手を掴んで空中ブランコのようにぶら下がっている。不安定になっている両親の足取りに、なんだか心の奥が暖かくなった。


「んんーー!」


 幸せを煮詰めたような休日の光景を、歓喜混じりのうなり声が唐突に切り裂いていった。テーブルの向かいに目をやると、あさがおの目と唇が一文字に固く閉じられていた。

 右手に持ったパフェ用の細長いスプーンは小刻みに揺れ、その味がどんなものだったのかを表現している。


「そんなに美味しい?」


「うん。ちょーおいひー」


 そう目尻を垂らして言うあさがおの口角は、たったひとくちでもう緩みきっている。ほっぺが落ちるとはまさにこういうことを指すんだろうなとその表情を見ていた。


「お兄ちゃん、それちょっと食べさせて」


「俺、まだひとくちも食べてないんだけど」


「まあいいじゃんいいじゃん」


 遠慮のない勢いで、あさがおの手がこちらに伸びてきた。パーカーのゆったりとした袖口が机につきそうだ。そこからはみ出たなめらかな肌に、陽の光が降りかかる。


「待って」


 両肘をつき、手で囲むようにしてケーキの前に壁をつくる。

 あさがおの細い指先が僕の手の甲にぶつかって止まった。


「あげてもいいけどさ、その前に一つ聞いてもいい?」


 発した声は意図したよりも神妙さを含んでいた。二人のあいだにあった仲のいい兄妹の雰囲気が、痛みを伴うような寒さに飲み込まれていくのがわかる。

 あさがおは僕がなにを言おうとしているのか気づいたようだった。伸びていた手がおずおずと戻っていく。自身を守るようにテーブルの下で指を固く結び、彼女はそこに目線を落とした。

 僕の手の甲にはまだ、彼女の爪に刺された感触が残っていた。


「いやだ」


「お願い」


「なんの話か知らないけどいまじゃなくてもいいでしょ。そんなことより早く食べようよ」


「それはダメ。家だとあさがおすぐ逃げるもん。だからお願い」


 諭すように言葉を紡ぐと、あさがおは押し黙った。窓とは反対側、彼女の顔の半分が逆光で濃い影色に染まる。そこににじんでいたのは、諦めの感情だった。


 委員長の助言が脳内で反芻はんすうしている。正直あさがおの外堀が埋まっているのかどうかわからない。もしかしたらまた急ぎすぎてしまったかもしれないと、あさがおの反応を見て不安になる。

 だが、今日ずっと一緒にいて活路が見えた気がしたのだ。僕らの心の深いところにはいまだにあの日負った傷が残っている。それにケリをつけるならいましかないと意を決した。


「俺がゲーム配信者、というかディーテだったことどう思った?」


 声が震えそうになったのは、怖かったからだ。あさがおの本心を引き出そうとしているのに、もう一人の自分が本心に触れるのを怖がっている。

 ずっと抱えていた言葉がようやく吐き出され、宙に膜を張った。周囲から切り離されたこの空間に、あのときのハチ公前の空気が蘇ってくる。濃縮された時間の流れに、思わずごくりと喉が鳴った。

 黒髪のベールが俯いているあさがおを覆い隠しているため、どんな表情なのか見えない。彼女の手のなかで生き生きと飛び回っていたスプーンが、容器のなかで物寂しげにもたれかかっていた。


 しかし、いくら待っても質問の答えが返ってくる気配はなかった。そしてこの沈黙こそ彼女の答えだと思った。口に出さないのは彼女なりの配慮なのかもしれない。壁をつくっていた手を太ももの上に置き、にじんだ汗を拭う。

 僕は妹の夢を粉々に砕いた。認めたくなくて脳内の端っこに追いやっていた現実。僕が初めにそれに向き合わなければ、きっと僕らはあの日に立ち止まったままだ。

 硬直していた肺にめいっぱい息を送り込み、足を引っ張ってくる弱気な気持ちを強引に喉の奥に押し込む。


「ごめん。ディーテは俺だったんだ。夢、壊しちゃったよね」


「……ほんとだよ」


 少しの静寂のあとにあさがおからこぼれた声は、重力に負けて落ちてしまいそうなほど弱々しいものだった。そのたったひとことに心臓がグニャリと握りつぶされ、罪悪感を含んだ液体がどっと飛び出す。

 あさがおの心境は理解していたはずだったし、覚悟はしていた。なのにいざこうして彼女の口から聞かされると、途端にその事実を拒絶したくなってしまう。

 想像上のものだった彼女の気持ちに、はっきりとした輪郭が生まれる。悪意は存在していないはずなのにお互いの言葉で傷つき合うこの空間はなんだかとても惨めで、そして残酷だ。話を避けていたあさがおに苦言をていしていたくせに、この場から逃げ出したい気持ちが脳内を支配していた。


「あのさぁ」


 想像以上にダメージが大きくて言葉を失っていると、あさがおの声が微かに耳をかすめた。



「オフ会ってさ、楽しかった?」

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