第19話 バッドなタイミング

 座席に座ってスマホをいじるあさがおのつむじを視界の端に、電車の揺れに身を任せる。車窓のなかを通り過ぎるのどかな風景を眺めていると、野球をしている小学生くらいの子どもたちが目に入った。

 視線を阻むものはなにもない、広々とした河川敷の球場。試合中なのだろうか。電車のなかからでもその様子はよく見え、いまにも「ばっちこーい」と溌剌はつらつとした声が耳に届いてきそうだった。


 改札を抜けると駅の構内は土曜日ということもあり多くの人であふれていた。行き交う人らが手にぶら下げている多種多様な袋は、駅に隣接されているショッピングモールでの買い物の成果だろう。店内は生活用品やファッション類だけじゃなく、雑貨やエンタメコーナー、飲食店も充実しているため客層は老若男女幅広い。学生にとっても定番の遊び場となっていて、僕も何回も来たことがあった。

 そのショッピングモールの奥にあるのが、今回の目的地の映画館だった。


「あー、ついさっき上映されちゃったみたい。ほら」


 映画館にたどり着くと、入口に立てかけられていた上映スケジュールを指差してあさがおが言った。彼女の後ろからのぞき込むと、薄桃色の爪の先に記されていた数字はつい数分前の時間だった。


「ほんとだ。調べてくればよかったね。で、次は?」


「えーっと次は……。あーだいぶあとだ。いまやってるのが終わるまでないね」


 あさがおは立て看板をすっと下になぞり、次の上映時刻に困惑混じりに唇をゆがめた。


「うーん。どうしよっか」


 急に現れた手にあまるほどの時間に、なにかいい案がないかと思考を巡らせる。頭のなかはグルグルとやかましいのに、二人して考え事に集中しているせいで妙な沈黙が漂っている。

 映画館の入り口で固まる二人の男女。その光景はきっと傍から見たら不可思議なものだったに違いない。


 考えたところで、特にやりたいことは見つからなかった。判断はあさがおに委ねようと静寂を破り、質問を投げかける。


「なにか買い物の用事とかある?」


「買い物ねえ。いま特に欲しい物とかないしなー」


「ならモールのなかのカフェとかファミレスで時間潰す?」


 僕の提案にあさがおは腕を組んだ。エッジの効いた悩ましげなうめきが、真一文字に結ばれた唇から微かに聞こえてくる。

 傾いていた彼女の頭がさらに傾き始め、徐々に地面との距離が近くなっていく。彼女の脳は思考が膨れ上がるにつれて重くなる仕様なのかもしれない。つややかな黒髪がさらさらと垂直に垂れ、のれんみたいになっている。

 このままだと倒れてしまうんじゃないか。支えようと手の伸ばしたそのとき、「あっ!」と彼女は声を張り上げた。不意打ちで伸びる背筋に気圧けおされ、思わずのけぞってしまう。

 妹の後ろに立っていただけなのに、なんで僕は振り回されているんだろう。彼女は胸の前でパチンと手を合わせると、名案が思いついたと言わんばかりの素早さで振り向いた。


「私、モールのなかのあのカフェに行きたい! 期間限定のパフェがめっちゃ美味しかったって友達が言ってたの思い出した。私もそれ聞いて食べたいと思ってたんだよね。まだあるかな。早く行こっ」


 見上げるその表情は晴れ晴れとしていた。まんまるな黒目の奥で、好奇の光がほとばしっている。


「じゃあそこに行こう」


「よし。決まり」


 了承するやいなやあさがおはスタートダッシュを切り、僕の横を通り過ぎていった。判断の速さに呆気に取られてしまう。

 振り返ったときには、僕と彼女の距離はだいぶ広がっていた。白いスニーカーにくっついている小さな影が、おしゃれな模様に舗装された道の上を楽しげに跳ねている。来たときに比べて軽やかな足取りに、女の子にとってのスイーツの偉大さを実感した。

 これじゃまるで映画がおまけみたいだな。

 そんなことを思いながら、置いて行かれないようにと、彼女の背中を追いかけた。


  ◇


 モールのなかはほんのり冷房が利いていた。じわりと汗ばんでいた身体には、この涼しさが心地よい。家を出るときはちょうどよかった服装も、この日差しのなかだと暑くなってきていたので助かった。


「私、お手洗い行ってくるからちょっと待ってて」


 そう言ってあさがおは、出入り口付近のトイレに向かっていった。雑踏のなかに一人取り残され、近くにあったベンチに腰をかける。冷房によって冷やされたベンチに手を置き、長いため息を吐き出した。

 初めて一人になったことで、慢性的に緊張していた身体が緩んでいく。この状況に僕は少し疲れていた。


 いまの僕らを傍から見たら、休日に二人で遊びに出かけている仲のいい兄妹に見えるのだろう。しかし二人の間には、例のオフ会をきっかけに生まれた大きな亀裂が依然として残ったままになっている。現状はこの亀裂の上に簡易的な橋を架けてなんとかやり過ごしているにすぎない。

 このまま僕らはずっとお互いの顔を伺いながら、表面的な会話を続けていくことになるんだろうか。徐々に離れていく心の距離を埋める術も見つからず、その様子を対岸から呆然と見つめることしかできない。


 配信の話にさえ触れなければ今日のようにこれまでどおりの関係に近づいていくかもしれない。だが、それだとディーテとゴッドアフロの関係は犠牲になってしまう。

 もう完全に元に戻ることはできないのかもしれない。寂しくてやるせない気持ちが胸の奥を侵食してくる。やはり彼女にとって、実の兄に想いを馳せていたことなんて黒歴史以外のなにものでもないのだろう。

 配信を見ていた事実を完全になかったことにしたいという心理は、僕にも痛いほど理解できた。


 しかし、そう考えれば考えるほど、今日のあさがおの行動は僕の理解の範疇を超えていた。いきなり映画に誘うなんていったいどういう風の吹き回しなのだろう。

 外にいることを忘れて脳内に閉じこもっていると、突然溌剌はつらつとした声が僕の頭に降り掛かってきた。


「あらっ! 彩風さん家のお兄ちゃん。久しぶりねー。こんなにおっきくなってー」


 顔を上げると五十代くらいの女性が大きな笑顔で僕の前に立っていた。予想だにしない出来事に思考が彼方へ飛んでいく。


――だ、誰?

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