第18話 コメント欄で話題の映画

「おはよー」


 目をこすりながら絞り出すように喉を震わせる。

 リビングには家族全員が揃っていて、僕が来たのは一番最後だった。いまだ寝ている半分の意識を、もう半分の意識で支えながら自分の席へと向かう。

 四人がけのテーブルは、広げられた新聞によって面積のほとんどが占拠されていた。それをじっくりと読んでいる父の斜め前で、あさがおはパンに赤色のジャムを塗っている。手に持った瓶にはなにも表記がないため、なんの味かわからない。

 食卓に漂うパンの香ばしい匂いに、気分が暖かくなっていくのがわかる。力という力がすべてイスへと預けられ、目を閉じてしまったら最後、また眠ってしまいそうだった。


 昨日は早く帰宅したはいいものの、結局いい案が思い浮かぶことはなく現状維持に終わってしまった。嫌な予感がして衝動的に帰ってしまったが、委員長からもっと具体的に話を聞いておくべきだったかもしれない。

 一緒におでかけするなんて言葉で聞いたときには簡単そうに思えた。

 だがいざ実践してみようとするとこれがなかなかハードルが高い。最後にあさがおと二人で外に遊びに出かけたのなんて、もうだいぶ昔だ。

 どこに行ってなにをするかという問題より前の、どうやって誘うかという段階ですでにつまずいていた。


 さっきから上瞼が下瞼を追っかけ回している。眠い。あと少しで閉じそうになるのをなんとか踏みとどまっていると、その隙間にテレビの映像が潜り込んできた。

 CM中なのだろうか。個性的な映像たちが、空っぽの頭を通り抜けていく。秒間隔で移り変わっていくそれらを眺めていると、ふと聞き覚えのある映画のタイトルが脳内に引っかかった。


『大ヒット上映中!』


 もはや使い倒されすぎて価値を失ってしまった「大ヒット」という定番のフレーズ。しかしいまCMで流れた映画は最近SNSなどで話題になっていたものだった。

 そして、それは僕の配信でも例外ではない。


【ディーテあの映画見た? めっちゃ面白かったよ】

【ネタバレ踏む前に早く見てきたほうがいいぞ】

【感想雑談枠待ってるから】


 かなり面白いのだろうか。配信のたびに、早く見ろと急かされていたことを思い出す。


 これだ。


 この映画にあさがおを誘えばいいんじゃないか?


 ひらめいたのと同時に血流に活力が乗ってくる。ぐるぐると頭が冴えていき、瞼が完全に開かれた。

 やるべきことが決まればあとはそこに向かうだけ。

 含みを一切持たない自然な声が出るように、頭のなかでチューニングを合わせる。ふっと呼吸を整え、覚悟を決めて口を開いた。


「あのさぁ」


 耳がすくい上げたその声は、僕にしては高音で女の子のようだった。

 なにか異変が起きたのかと喉を触るも、すぐにその声はあさがおが発したものだとわかった。満遍なくジャムが塗られたパンを頬張りながら、パチリとした瞳をこちらに寄越す。


「さっきの映画のCM見てた?」


「う、うん。最近結構話題になってるやつね」


「お兄ちゃん見に行くの?」


 シミュレーションどおりの会話が行われている。しかし発言者が逆になってるせいで、そのズレにたどたどしくなってしまう。


「面白いって聞くし、見に行こうかなって思ってたけど」


「じゃあ、お昼食べてから映画館に行こ。どうせ暇でしょ?」


「まあ暇だけど、なんでそんな急に」


「私もこの映画見たかったし、どうせ行くならお兄ちゃんと一緒に行けば奢ってもらえるかなって。ほら、私お兄ちゃんにお金あげて絶賛金欠中だから」


 一緒に映画を見に行く、という第一関門が僕の意識外で勝手にクリアされていく。かろうじて返事はできているものの、彼女の意図に理解が追いついていない。そもそも第一声でつまずいた時点からお手上げ状態だった。

 テーブルを占拠していた新聞がバサリと音を立てる。朝陽。そう父が僕の名を呼んだ。新聞を見ていた目線が、僕を捉えている。


「おまえ、妹から金を巻き上げてるのか?」


「いやいや違うって。これには深い事情があって」


「どんな事情があったらそんなことになるんだ」


「えーっと、それは……」


「ごちそうさまー」


 なんとか言ってくれとあさがおに目配せをする。しかし彼女は見捨てるように席を立った。僕の視線が、その澄ました顔の横を虚しく通り抜けていく。


「おいおい、ここでいなくなるのはやめてよ! 誤解だって説明してよ!」


 悲痛な叫びが、朝のカラッとした空気のなかで儚く響いている。

 我関せずを貫くあさがおは食器を片付けると、不自然な真顔を貼り付けたままリビングから出ていった。


「ねえ、あさがおってば!」


 ドアが閉まる直前。一瞬だけ隙間からのぞき見えた彼女の表情は、いたずらっぽい見慣れたものだった。


  ◇


「じゃ、行ってくるね。夕ごはん前には帰ってくると思うから」


 母にひとこと声をかけて玄関に向かうと、すでに靴を履いていたあさがおが玄関で僕を待っていた。

 カジュアルな白いスニーカーに、色素の薄い水色のジーパン。上に着ているクリーム色のパーカーは、華奢な彼女の身体をそのまま丸呑みしてしまうんじゃないかと思うくらい大きい。サイズを間違えたんだろうか。彼女は僕を視界に入れると、なぜかムッと眉間に皺を寄せた。


「お兄ちゃん、そのパンツもう履かないでって言ったじゃん。カーゴパンツって女子ウケ悪いんだよ」


 彼女の指摘を受け、自身の足元に視線を落とす。このカーゴパンツと呼ばれたズボンは、あのオフ会の日にも履いていたお気に入りのズボンだ。


 女子ウケ。

 僕にとってなじみのないその単語を舌の上で転がしてみる。そんな視点はいままで気にしたことがなく、ヒヤリとした嫌な感触が残った。

 気にしてこなかった理由を考えようとするも、悲しい気持ちになりそうな気がしたのですぐに思考を停止させた。


「この前黒いスキニーあげたでしょ。それ履いてきてよ」


「あーあれね。買ってきてくれたのはありがたいけど、全然サイズが合ってなくて履くのやめたんだよね。もう足がキュッてなってさ」


 思い返すとついおかしくなってしまう。笑い声混じりに説明していると、あさがおの顎からはなぜか徐々に力がなくなっていった。

 あんぐりと開いた口から、ため息と一緒に驚愕がこぼれ落ちている。眉間にできた山はさらに高くなり、親族に決して向けてはいけないような軽蔑の目をじつの兄に向けた。


「なに言ってんの。あれはもともとそういうもんだからね。そっち履いてきてよ」


「え、そうなの」


「そうなの。だから早く」


「はい」


 僕はお兄ちゃんだから妹の言うことはすんなりと受け入れてあげる。決して立場が弱いからとかそういうことが理由ではない。


「あっ、でもそういうあさがおだってそのパーカーサイズ合ってないんじゃない?」


「これもそういうもんなの! つべこべ言ってないで、早く着替えてきてよ!」


「はい。すいません」


 軽快にくるりと踵を返し、無駄のない動きで自室へと駆けていく。軍隊さながらの素早さだった。

 道中にちらっと視界に映り込んだ窓の外には、あのオフ会の日を彷彿ほうふつとさせる青空が広がっていた。澄んだ空気をサンサンと照らすその日差しが、今日はお出かけ日和だよと、心地よい熱を運んできている。

 もしかしたら僕ら兄妹のどちらかに晴れ運があるのかもしれない。

 そんなことを思いながら、タンスの奥から黒いズボンを取り出した。

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