第15話 手切れ金

 僕の部屋から廊下をまっすぐ進んだ突き当り左の部屋。そこがあさがおの部屋だった。カスタードクリームのような暖かな色をした木目調のドアが目の前にそびえ立っている。その左には一階へと繋がる階段があった。

 取っ手に手をかけ、強引にスライドさせる。ガラゴロと鳴り響いた音は、なんとも耳障りなものだった。引き戸が反対の壁にドンとぶつかると同時に、パソコンを見ていたあさがおが僕を視界に入れる。その面持ちは不気味なほどけろっとしていて、僕が来ることは想定内といった様子だった。


「さっきのなに? どういうつもり」


「ねえ、ノックぐらいしてよお兄ちゃん。デリカシーない人はモテないよ?」


 イスを回転しながら、彼女はこちらに身体を向けた。冗談じみた非難をするその口元には、ニヤリと嘲笑が張り付いている。兄を舐め腐ったようないつもどおりの笑顔。その表情に、漠然とした不穏さが全身をなぞった。僕に主張するように見せつけるその笑みは、なんだか作り物のようだった。


「さっきの投げ銭、あれはなんなの?」


「なんなのって、【お詫び】ってコメントしたでしょ? ほら、私オフ会ドタキャンしちゃったからさ、ちょっと申し訳なかったなーと思って。あっ、もしかしてお兄ちゃんコメント読まないでスルーしたなー?」


「お詫びって……。いや、だとしてもあんな金額どう考えても異常でしょ。だいたい投げ銭ってタダじゃないって知ってるよね。バイトしてるわけでもすごく裕福なわけでもないんだから、大丈夫じゃないよね? しかもあんな、投げ捨てるみたいに……」


「投げ捨ててなんかないし、大丈夫だから送ったんだよ。お兄ちゃん心配しすぎ。ていうかさ、そもそも私のお金なんだからどう使ってもいいでしょ? それによく考えてみてよお兄ちゃん。お兄ちゃんに投げ銭が届いたってことは、あのお金はお兄ちゃんのものになるってことだよ? それってすごくいいことじゃん!」


「全然いいことじゃないよ。あれじゃまるで……」


「まるで?」


 一方的に別れを告げる手切れ金みたいじゃないか。そう言おうと思った台詞は喉に阻まれ、結局出てくることはなかった。

 否定と肯定。そのどちらだとしても、彼女の反応を見るのが怖かった。


 基本的に投げ銭は、送り主の想いが強ければ強いほどその金額は高額なものになる。つまり、あの五万という数字はあさがおの心情をそのまま数値化したと言っても過言ではない。

 リスナーとしての関係を切るための投げ銭だったとして、僕にその行為を否定する資格はなかった。彼女にそこまでさせる原因をつくったのは、僕だったから。


 なにも言えずに立ち尽くす僕に、あさがおは机の上に置いてあった空のペットボトルを持って近づいてきた。ラベルが読めないほどに潰されたそれは、駅でしか売ってないような天然水だった。

 重さから開放されたイスが、くるりと空を切る。視界がひらけた机上には卓上カレンダーが置いてあった。今日の日付が書かれた小さな枠。そこに大きな花丸が描かれているのが見え、とっさに顔を伏せた。

 意図しないところで彼女の心根に触れてしまい、喉の奥で小さな悲鳴が弾ける。


 くしゃりと頬をほころばせ、彼女が語りかける。


「ま、普通に考えたらびっくりするか。急に妹から投げ銭が送られてきたら」


 気を抜くと一瞬で静寂が襲いかかってくる空間に、クツクツと喉を鳴らした声がはっきりと輪郭を持つ。水と油のようで、その愉快げな声音はひどく浮いて見えた。


「まとめると、今日はオフ会ドタキャンしてゴメン! 投げ銭はそのお詫び、ということです。以上! この話はもうおしまい!」


 そう声を張り上げると、彼女は持っていたペットボトルを僕の胸に押し付けてきた。

 パジャマの袖口からのぞく細い手首が、青白い光を飛ばしている。柔らかな前髪が目元に影を落とし、伏し目がちなその瞳は隠れて見えない。


「お兄ちゃん来たついでにこれリビングに捨ててきてよ。それじゃ、私もう寝るから。おやすみ」


「ねえ、ほんとは大丈夫じゃないよね」


「は? いや、だから大丈夫だって。しつこいな。お兄ちゃん、人の懐事情に踏み込みすぎるのはあまりよくないよ?」


「そう、じゃなくて」


 ひしゃげたペットボトルを受け取ると、ぐしゃりと空虚な音が手のひらに伝わった。

 せぐり上がる熱が、喉を燃やしている。震えている肺に無理やり空気を流し込み、そして告げた。


「あさがおさ、ディーテの正体が俺で辛い思いをしたんじゃないの?」


「え……」


 僕の言葉に思わずといった様子で、あさがおが顔を上げた。

 近くで見て、初めて気づく。僕を映し出すそのまん丸な瞳は、ほのかに赤く染まっていた。

 充血した白目に、腫れた目元。ほんの数分ではこんなふうにはならない。これは長い時間をかけて感情を流した痕だった。


 視線が重なったのはほんの一瞬だった。こちらの視線に、あさがおがハッと息を呑む。慌てて目を逸らすと、彼女は背を向けて奥の机のほうに戻っていった。

 彼女は再びイスに座り、こちらを見据える。そこに浮かんだ表情は、いつもどおりで塗りつぶされた形だけの笑顔だった。


「お兄ちゃん、なに言ってるの? びっくりはしちゃったけど、全然大丈夫だよ」


 絶対嘘だ。そうわかってもなにも言えなかった。

 ベッドの上の掛け布団が、乱暴に丸まっている。枠からはみ出た部分が床の上に垂れ下がり、その近くのテーブルの下にはあの青いスカートが投げてあった。この空間には彼女の悲しみの名残がまだ至るところに存在している。ペットボトルを握りしめる。折り曲がってできた鋭利な角が、手のなかにチクリと嫌な痛みを与えた。

 とてもじゃないが、「また配信に戻ってきてよ」なんて言えなかった。


「いつまで女の子の部屋にいるつもりなの? 私もう寝たいんだけどー」


 考えあぐねている僕に、あさがおがやんわりと退室を促してくる。深刻さを感じさせない間延びした声には、明らかな拒絶が含まれていた。

 にこやかに弧を描く瞼の奥で、夜色の双眸がギラリと光を放つ。


「お兄ちゃん。おやすみ」


 言い聞かせるように紡がれた言葉は、なんとも重たい響きをしていた。空気が一瞬でひりつき、素肌が怯えたようにざわめく。

 彼女の威圧を前に、結局僕は「おやすみ」と同じ言葉を返すことしかできなかった。


 ドアを閉めた途端、袋小路に入ったみたいに視界が一気に狭くなった。一人になった僕を静寂が包み込む。がっくりと吐き出したため息がつま先に絡みつき、縛られたように僕はそこから動けなかった。



 そしてこの日を境に、【ゴッドアフロ】の文字がコメント欄に現れることはなくなった。

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