第12話 それでも進む日常
部屋のドアを閉めた直後、緊張の糸がぷつりと途切れてうつ伏せに崩れ落ちた。栓が抜かれたみたいに一日の疲れがどっと噴き出し、意識がおぼろげになっていく。床と重力に挟まれた頬はぺしゃりと潰れ、肺もうまく膨らまない。そこから逃れようとするも、手足はだらりとしたまま言うことを聞かなかった。
フローリングの上には今朝のファッションショーのなごりがあり、無造作に広がった衣服たちが身体を優しく包み込んでくれた。
力が抜けていくように瞼が落ちる。闇の奥に浮かんだのは、ほんの少し前の駅前での光景だった。
楽しかった。来てよかった。オフ会に来てくれた二人のリスナーは、別れ際にそう言ってくれた。そのとき見せた笑顔は、一日一緒に過ごしてきたからこそ本心からのものだとわかった。オフ会は成功したと言っていいだろう。正直僕も楽しかった。
あのときの僕は、リスナーに楽しんでもらわなきゃと自分のことは二の次で躍起になっていた。だが思い返せば、逆にリスナーに楽しませてもらっていたような気がする。
結局オフ会をいいものにしたいと思っていたのは僕だけじゃなく、参加者も同じようにそう思ってくれていたのだ。今更気づいた真実に、胸がぽかぽかと暖かくなる。
衣類を巻き込みながら、ぐるりと仰向けになる。窓の外はすっかり暗くなっていて、白い天井は藍色に染まっていた。
くるぶしからかかとに指を這わせ、一日中履いていた靴下を脱ぐ。開放された指のあいだを乾いた空気が通り抜け、日中の熱を失ったその冷たさにぎゅっとつま先を丸めた。日が昇っているときは過ごしやすいが、五月初めの夜はまだ肌寒い。
確かにオフ会は成功した。そしてそれは間違いなくゴッドアフロさんが僕を勇気づけてくれたおかげでもあった。
しかし、そう思ってしまうと途端に苦渋が込み上げ、どうしようもなく息苦しくなる。感謝を述べようとしてもこの気持ちの行き場はもう無くなっていることに気づいていて、胸に留めることしかできないのが辛い。
きっといまの彼女は、僕のどんな言葉も受け付けないだろう。なんとかしたい。そう思うけれど、僕の存在そのものが原因なのだ。彼女になにもできないことを実感し、鬱々とした影が心を塗りつぶしていく。
「ごはんできたよー。降りてきてー」
階段下のリビングのほうから、母の声が微かに聞こえてきた。僕の部屋は一階のリビングから一番遠いところに位置している。そのため、おそらく呼んだのは僕じゃない。母の声量から察するに、階段上がって突き当り左の部屋にいるあさがおを呼んだのだろう。
しかし、彼女の部屋のドアが開かれる気配はまったくなかった。
力を振り絞りながら、のっそりと立ち上がる。周りがうっすらと見えるほどの静かな光が、不安を照らし出すように室内に明暗を浮かび上がらせていた。
リビングに向かう途中、あさがおの部屋の前で足を止めた。氷の膜に触れるみたいに、こわごわとドアを二回ノックする。
「……あさがおいるの? ごはんだってさ」
心のどこかで期待していた。いつものように「はーい」と間延びした声が返ってくるんじゃないかと。しかしそれは結局、責任から逃れたいためだけの楽観的なものに過ぎず、当然期待どおりにはならなかった。
夜色が蝕む廊下に弱々しく反響する自分の声が、罪悪感を助長してくる。でもその一方で、内心ほっとしている自分もいた。彼女が出てきたところでどんな顔をしたらいいかわからなかった。
きっとあさがおにとって、そして僕にとっても、このドアは最後の防波堤なのかもしれない。この一枚の隔たりの向こうにうごめいている闇を受け止めきれる自信がなかった。そして、そんなふうに怖気づいている自分に辟易した。
◇
「せっかく美味しくできたのに」
テーブルの向かい側に座っていた母が、料理をつつきながら愚痴をこぼしている。結局あさがおは食卓に来ることはなかった。父はまだ帰ってきてないため、母と二人での夕ごはんになる。
「もうすぐ降りてくるんじゃない? わかんないけど」
母のなかでは、あさがおは現在お昼寝中ということになっている。だが、彼女はおそらく起きている。憶測でしかないが、僕が食事を終えてここからいなくなればすぐに降りてくる気がした。もしあさがおが先にリビングに来ていた場合、僕だったらそうしていたと思うから。
彼女が僕を避けていることに、皮肉にも僕自身も助かっている。そう自覚してしまうと、舌の上にざらりと不快な味が絡みついた。湧き上がる嫌な想像を、白米と一緒に飲み込む。これ以上思考を進めたら危ない気がする。気持ちを紛らわそうと、意識を食卓へと向けた。
玄関で匂った出汁の香りの正体は筑前煮だった。鶏肉やごぼうにれんこんなど、見るからに味が染みた茶色のなかでにんじんのオレンジとエンドウの緑が映えている。
普段は絹さやだった気がするが今日はエンドウなんだ。そんなことを思いながら口に入れると、その爽やかな香りが鼻から抜けていった。鶏肉は歯がすんなりと通り、水分がしっかり保たれているのがわかる。
「どう? 美味しいでしょ」。そう感想を求められたので思ったことをそのまま言うと、らしくない行動だったのか母は驚くような素振りを見せた。
「そうでしょ」と得意げな笑みを浮かべる。
気を紛らわすための話題だったはずなのに、ふいに見せた母の表情にあさがおの面影を感じ取ってしまった。
こうして僕だけが日常に戻っていると、あさがおに申し訳なくなってくる。彼女はまだ非日常に取り残されている。
「あさがおっていつ帰ってきたの?」
我慢できなくなってしまい、つい自分から話題に出してしまう。
「そうねー、昼過ぎに帰ってきたかな。もっと遅くなると思ったんだけど」
「なんか言ってた?」
「いや? すぐに部屋に入ったから話してないよ。好きな人に会いに行くんだと思ってたけど、早く帰ってきたしたいした用事じゃなかったみたい」
そう言った母の表情は、とても残念そうに見えた。なんでこんなこと聞いたんだろう。知らないほうがよかった。喉が炙られたみたいに熱くなる。
なにしても動揺が外に漏れてしまいそうで、相槌すらできずひたすらに咀嚼を続けるしかなかった。
◇
お風呂で火照った頬を机の上に預けると、その冷たさがのぼせた意識にくっきりとした輪郭を与えた。時計の短針はもうすぐ九時に届きそうだ。上体を起こし、配信の準備を始める。
湯船のなかで悩みに悩んだ末、予定どおり配信をすることにした。リスナーの脅しが効いたわけじゃないが、多くの人が今日の話を楽しみにしていると思うと自ずとその選択に至った。
そもそも昨日配信すると言っていたのだから、やらないわけにもいかなかったのだが。
『オフ会行ってきたぞ! 二十一時から始めます!』
ついさっき投稿した僕のツイートが画面の中央で光っている。いつもと同じノリを心がけた文章。それなのに上澄みだけをすくったような軽薄さがにじみ、ビックリマークは不自然に浮いて見えた。取ってつけた感満載で、ちょっと揺すったらポロッと落ちてしまいそう。
投稿したときにも思ったが、読み返してみてもやっぱり薄情な気がしてくる。机の端のスマホの画面は依然として真っ黒なままだ。諦めと微かな期待を抱きながらスマホを開くと、LINEの通知が来ていてグワッと血圧が高まった。
しかし、蓋を開けてみれば企業アカウントからで、感情の急降下にぐったりと肩を落とした。
あさがおとのトーク履歴を開く。
今日の配信では当然あさがおとの出来事を話すつもりはなかったし、いまの心境は隠し通すつもりだった。
ただそうなると、普段どおりのテンションを装って配信をすることになる。なんとなくそれはあさがおへの当てつけになるような気がして、せめてその旨を伝えておこうと事前にLINEを送っていた。
今日配信すること、なぜするに至ったかということ。そして、よかったら来ない? と緑色の文が右側に連なっている。
既読の文字はついていないが。
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