第11話 オフ会のゆくえ
「ディーテくんが一番乗りですか?」
鉛のような足を無理やり前に出しながら歩いていると、隣にいたリスナーが問いかけてきた。
「そう、みたいだね」
言い淀んでしまったのは、脳裏にあさがおの姿がよぎったからだ。彼女は誰よりも今日を楽しみにしていて、誰よりも早くこの場に来ていた。
でも、彼女はもうここにはいない。戻ってくることも絶対にないだろう。口に出してしまった途端に、見て見ぬふりをしていた予感が自分のなかで確定したものになる。
たったいま彼女の存在をなかったことにしたのは自分なのに、言葉を紡いだ舌は苦く、やるせなさがへばりついていた。
「どうしました? もしかして具合よくないですか?」
落ちていた視線を上げると、不安そうな表情でのぞき込むリスナーと目が合った。
具合は最悪だった。オフ会を続行するほどの気力なんてもうない。あさがおの叫びと表情がシミみたいに脳内にこびりついているせいで、平然を装うのもやっとだ。
はっきり言って、早くこの場から逃げ出したかった。どうやって抜け出そうかと、つい隙を探してしまう。適当に理由をつけてお開きにしようかな。
しかし、なにかに後ろ髪を引かれるようで、踏ん切りがつかなかった。慌てて頬を緩め、感情が表に出てこないように微笑みで蓋をする。
「ううん、ちょっと緊張しちゃって。ついにオフ会始まるんだなって」
「ディーテくんもですか! わかります。私も緊張しちゃってて、朝から心臓のドキドキが治まらないんですよね」
自分の鼓動を確認するように、彼女は両手を自身の左胸に押し当てた。
一呼吸置いて、彼女は続ける。
「でも、それ以上にすごくワクワクしてるんです。ディーテくんや他のリスナーさんたちと会えるの、今日までずっと楽しみにしてきたから。ディーテくん、配信の雰囲気と変わらず優しそうな人で私嬉しいです。オフ会、楽しくなるといいですね!」
屈託のない笑顔に、心臓がドキリと音を立てた。心の奥から汲み取った透明な湧水のようなキラキラした言葉が、僕の淀んだ感情を大きく波立たせる。白い歯をちらりとのぞかせ、彼女は足取り軽やかに前へと進む。空気を包む柔らかなくせ毛が、動きに合わせてふわふわと上下に跳ねていた。
励ましてるわけでも、お世辞を言っているわけでもない。その姿からあふれているのは、あまりにも純粋な感情だった。
彼女は僕のなかに渦巻く負の感情をまったく知らないから、こんな表情を僕に向けることができるのだ。ハチ公前での悲劇の渦中にいた僕と、なにも見ていないリスナー。僕らのあいだには、大きな溝がある。
しかし、この隔たりは僕にとって本当に悪いものなのだろうか。
ふと、一つのメッセージが記憶から呼び起こされる。
『大丈夫ですよ! 私、ディーテくんに会えるだけで幸せなので、例えどんなハプニングがあろうと楽しめる自信しかないです! だから心配せずにディーテくんもめいっぱい楽しんでください。それがリスナーにとって一番重要なことです!』
ゴッドアフロことあさがおが送ってくれたリプ。このひとことが背中を押してくれなければ、いま僕はここにいなかったかもしれない。
――オフ会の成功は僕に懸かっている。
リプを受けて何度も唱えたこの言葉は、決してゴッドアフロさんだけに向けたものではなかったはずだ。僕は参加者全員に楽しんでほしくて、そう意気込んだのだ。
もし、僕がここで逃げ出したらオフ会はどうなってしまうのだろうか。考えるまでもない。確実にオフ会は失敗に終わる。そしたらいま、期待で胸を膨らませている二人のリスナーは、深い傷を負ったまま帰ることになるだろう。あさがおと同じように。
僕の行動は、もう僕だけのものじゃなくなっていた。オフ会が始まる。楽しみにしてきたリスナーが目の前にいる。
いま、僕がいちばん目を向けなきゃいけないのはなんなのだろうか。
スマホを取り出し、遅れてくると言ったリスナーに連絡を入れる。送った文章は中止の連絡ではなく、集合場所変更の連絡だ。意識に映り込むあさがおの残像から目を逸し、意を決して口を開いた。
「ゴッドアフロさん、急用が入って今日は来れないってさ。残念だけど」
未練がましく発せられた声が、アスファルトの上にべちゃりと落ちる。あさがおが戻ってくる可能性を、僕は自分の言葉でゼロにした。その代償が、喉元を重く締め付けている。
だけど、僕はもう誰も傷つけたくなかった。失望させたくなかった。あさがおが傷ついた姿を見て、僕自身もひどく傷ついた。その痛みをもう味わいたくなかった。
「だからさ、今日は三人だけど、ゴッドアフロさんの分もめいっぱい楽しも!」
身体を蝕むいろんな感情を吹き飛ばしたくて、威勢よく声を張り上げた。
急な大声にリスナーが大きく目を見開く。そのぱちりとした瞼は次第に弧を描き、はい! とこちらに負けないほどの大きな声で答えた。
二人の声が、辺りに反響している。トラウマのようにいつまでも脳内を占拠していたあさがおの残像は、もう手の届かないところまで遠のいていた。
駅へと向かう小さな背中から目を逸し、目の前のリスナーに焦点を合わせる。まっすぐに向けられた満面の笑みに、僕の選択は間違いじゃなかったとそう思うことにした。
◇
玄関のドアをゆっくり開けると、醤油ベースの出汁の香りが僕を出迎えてくれた。もう夕ごはんどきだ。鼻孔に馴染む香りに、日常に戻ってきてしまったことを実感させられる。
なぜか物音を立てるのをためらわれ、恐る恐るドアを閉めた。ぼそりとつぶやいた「ただいま」が、鼻先で散り散りになり空気に溶けていく。
靴を脱ごうとすると、乱暴に脱ぎ捨てられているベージュの靴が視界に入った。花のボタンが付いた口の大きな薄い靴が、左右ともにあらぬ方向を向いている。他の靴が綺麗に並んでいるなかで明らかに異質なそれに、身体の内側がざわめく。
僕はこの靴の意味を知っている。真空パックで閉じ込めたみたいに、この空間にはあさがおの心境の残り香がいまだ漂っていた。玄関をなりふり構わず駆けていく彼女の幻影が、僕の前を横を通り抜けていく。苦しみと悲しみでごちゃごちゃになった彼女の横顔は、僕をひどくやるせない気持ちにさせた。
彼女の靴を拾い上げ、僕の靴と一緒にそろえる。たったそれだけでいつもと同じ日常の風景に変わる。
しかし、その光景は僕の目には歪んで見え、心が晴れることはなかった。
自室に向かう足取りはやっぱり慎重になってしまった。いまはとにかく僕の存在を誰にも知らせたくなかった。
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