第10話 注目の的

「最悪だって言ってんの!」


 怒号が響き渡り、思わず僕はうろたえた。退いた靴が砂利を蹴り、ざざっと耳障りな音が鳴る。強張った眼差しに込められた感情の熱が、僕のすべてを焼き尽くそうとした。呼吸をしているのに、酸欠になったみたいに息苦しい。なにか言わなければ。そう思い、必死に頭を回転させるも、結局唇は固まったままだった。

 この状況を作り出した原因は僕なのだ。あさがおに投げかけられる言葉なんて、なに一つない。


「私、帰るから」


 喉奥から放たれた声は地響きのようだった。細められた瞼が小さく痙攣している。

 あさがおの台詞は僕に釘を差した。こちらからの言動を、彼女はこれ以上受け付けないことがわかった。


 あさがおは駅のほうに向かって歩き出し、僕の目の前を大股で横切っていった。その光景はどこか現実味がなく、映画でも見ているようだった。呆然とする僕を置き去りにして勝手に進んでいく現実が、瞳を通じて脳内に流れ込んでくる。

 その華奢な背中に手を伸ばそうとしたときには、すでに彼女は手の届かないところまで離れていた。宙に浮かんだ手のひらに、惨めさが絡みつく。


 彼女の姿が次第に小さくなっていく。人混みのあいだをすり抜けてまっすぐ突き進んでいくあさがおに、スカートが風に揺れながら一歩遅れてついて行った。


「あのー。大丈夫、ですか?」


 傍らからふいに声をかけられ、はっと我に返る。

 先程人違いで声をかけてしまった女性が、心配そうに僕をのぞき込んでいた。


「あっ、はい、すみません。大丈夫です」


 とっさに出た言葉は本心とは真逆のものだった。ぎこちなく吊り上げた唇から、乾いた笑いが漏れる。

 気まずい空気に耐えきれず、彼女の視線から逃れるように顔を伏せた。哀れみに近い彼女の表情を、見ていられなかった。


「あのー、すみませんでした。人違いだったみたいです。変な絡み方をして迷惑でしたよね。ほんと申し訳ないです」


「いえいえ、お気になさらず。間違えた理由もなんとなくわかるので」


 そう言って彼女は自身の服装に目を向けた。青の長いスカートに、白い服。下から上まで見事にあさがおの服装と一致していた。この偶然には苦笑いを浮かべるしかなかった。


「では、私行きますね」


 周囲をぐるりと見渡すと、彼女は早口でそう告げた。

 そこに浮かんだ笑顔はおそらく社交的なものだったが、労るような優しさが垣間見えた気がした。


 僕が返事をすると、彼女はすぐに背を向けて歩き出した。星のマークが目立つ黒のハイカットが、颯爽と地面を蹴っていく。軽い足取りにも関わらず、その足音はやけに鮮明に僕の耳まで届いた。

 早足で遠ざかる彼女は、まるでなにかから逃げているように見えた。


 その瞬間、あれ? と違和感を感じ取った。なにかがおかしい。緊張が身体を締め上げる。

 慌てて周囲を見渡すと、その理由はすぐにわかった。


――静かすぎる。


 思わず声を潜めてしまいそうな緊迫した空気が、辺りを埋め尽くしている。休日のハチ公前を考えると、この静けさは異常だった。

 人がいなくなったわけではない。僕がここに来たときと変わらず人は多いが、そのほとんどがもくしていた。

 そして、まばらに飛び交っていたはずの無数の視線は、僕のもとに集中していた。


 恥ずかしい。

 浮き彫りになった感情の名を認識してしまった瞬間、血液がマグマみたいに噴き出した。体内を焼き切らんとする熱が血管を通って駆け巡るせいで、体温がぐんぐん上がっていく。初夏の風が頬をさらりと撫でるも、熱は拭いきれない。むしろその冷たさは、顔の火照りをより強調させてくるだけで鬱陶しかった。


 逃げなきゃ。思考よりも先に、そう本心が僕に告げる。

 あんな騒ぎを起こしたら注目をされるのも当然だ。さきほどの彼女もおそらくこの視線に気づいたのだ。僕も彼女に倣い、いち早くこの場から立ち去らな――


「あ! ディーテくん!」


 僕の動きを妨げるように、意識外から無邪気な声が飛び込んできた。踏み出した足が、びくりと停止する。僕の名を呼ぶほうに目を向けると、そこには一人の女の子がいた。ハチ公前の中央で、疲れきったように膝に手をついている。息が切れているのか、酸素を求めて小さな肩が上下していた。

 急な出来事に呆気にとられていると、彼女はぱっと快活に面を上げた。その視線がまっすぐに僕へと向けられる。笑顔を浮かべたその表情は眩しく、大きな黒目の奥で光がパチパチと弾けていた。

 ふいに唾を飲み込み、舌先にざらついた感覚がこびりつく。彼女はめいっぱいに口端を上げると、弧を描いた唇から嬉々とした声を張り上げた。


「ディーテくんですよね。ごめんなさい! 遅くなってしまって。出る改札間違えたらモアイしかいなくて、ハチ公さんどこー? ってなってました! たどり着けてよかったー。私、今日のオフ会めちゃくちゃ楽しみにしてました!」


 まずい。そう思ったときにはもう手遅れだった。薄い氷が張った湖に隕石が落ちる。静寂のなかで発せられた彼女の声は皮肉にもよく響いた。この場があっという間に彼女のソロトークショーの舞台と化してしまう。

 周囲の視線は一層濃度を増し、容赦なく僕の柔らかい部分を貫いた。無数に開けられた穴からドロドロとした液体が漏れていく。その黒々としたもののなかにはきっと、プライドや尊厳といった僕にとって大事ななにかが多分に含まれていた。


 さすがにこの状況下で晒され続けるのにはもう限界だった。なにも知らないリスナーは周囲の異変に気づく様子もなく、嬉しそうに小さく跳ねている。

 とっさに彼女の耳元に顔を近づけると、僕は声を潜めながら告げた。


「実はさ、あなたが迷子だって言ってたから、ついさっき待ち合わせ場所をモアイのところに変更したんだよね。だからそっちに移動しよ。ごめんね。せっかく見つけてくれたのに。言い忘れちゃってた」


「そうなんですか! ごめんなさい、気を使わせちゃって」


「ううん、気にしなくていいよ。駅大きいもんね。誰しも一回は迷子になるものだから。じゃ、行こ」


 口を衝いて出たのは、苦し紛れに思いついた嘘だった。わかりました! そう彼女は快く受け入れ、僕の前を歩いて行く。

 色素の薄い猫っ毛が、彼女の動きに合わせてぴょこぴょこと跳ねる。まったく疑う様子のないその素直さは、すでにボロボロになっていた僕の心をさらに痛めつけた。

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