第2章 配信者 と リスナー

第 9話 最悪な偶然

 足元に大きな穴が開き、真っ逆さまに落ちていく。

 地上の光はあっという間に遠のき、視界を闇が覆い尽くした。しがみつけるものは周りになにもない。そもそも、抗おうなんて思えなかった。無気力に開かれた指のすき間を、風が空虚に通り抜けていく。

 深く落ちていけば行くほど闇は濃くなり、その圧力に頭が締め付けられた。息が苦しい。嘲笑われているような不快感が、肌の表面にずっとまとわりついている。闇はどこまでも続いていく。その深さはどこか永遠を思わせた。


 いったいどれほどの時間が経ったのだろう。交差する僕らの視線のあいだを、時間を煮詰めたような空気がどろりと流れている。周りの人の動きがスローモーションに見えた。夢のなかに似ていて、どこか現実味がない。この空間だけ世界から切り離されたみたいだ。お互いの一挙手一投足がやたらと鮮明に感じ取られ、息をするのも憚られる。


「なんで、ここに……?」


 先に沈黙を破ったのは僕だった。動揺に震える声は、なんとも弱々しかった。目の前のあさがおの存在に、いまだ理解が追いついていない。

 どうしているの? なんのために? 湧き上がる疑問が、答えを求めて脳内を飛び交っている。


 ただの偶然かもしれない。あさがおも用事があると言っていた。たまたま待ち合わせ場所が同じだっただけだ。そう思い込もうとするも駄目だった。彼女の口から出た「ゴッドアフロ」のひとことが強く耳に引っかかり、そうやすやすと僕を逃がそうとしなかった。

 それにこの服装だ。着飾られたその装いは、明らかにDMに記されたものと一致していた。今朝見ているのだから、もっと早く気付けたんじゃないか。そう自分を責めそうになるが、こんな想定外を事前に気づくことなんて不可能だった。

 あさがおがなんでここにいるのか。その答えはもう目の前にある。しかし、それに触れてしまったら最後、すべてが崩壊してしまいそうで目を逸してしまう。

 あさがおの顔が苦々しくゆがんでいく。

 悲痛に揺れる彼女の瞳に映る僕もまた、彼女と同じ顔をしていた。


「ううっ……」


 苦しげに喉を鳴らし、あさがおはその場にうずくまった。鷲掴みするように両手で顔を覆い隠す。指の間から漏れる痛々しいうめきが、僕の心臓を締め上げた。脇目もふらずにしゃがみ込んだせいで、スカートが地面にべたりとついている。脳内に浮かぶ、純真な青色が汚れていくイメージ。記憶のなかのあさがおの笑顔が、かき消されていくようだった。


「あ、あさがお……?」


 アスファルトの上で小さく丸まっている彼女に近づき、おずおずと声をかける。

 しかし、周りの音などまったく聞こえていない様子だった。膝に手をつき、目線を低くする。震える肩に手を伸ばすと、乱れた前髪のすき間から彼女の声が微かに聞こえてきた。


「なんでなんでなんでなんで」


 消え入りそうな声音に、思わず手を引いてしまった。言葉に混ざったガラス片のような感情の棘が、僕の身体のいたるところを突き刺す。無数の鋭い痛みに顔が引きつった。

 誰に聞かせるでもない。彼女はただただ自問自答を繰り返す。


「なんでお兄ちゃんがいるの? 偶然? いや、でも、ゴッドアフロって……。じゃあなに? え、ディーテくんってまさか……」


 知らないはずの僕のネット上での名前を、彼女が口にする。やはりゴッドアフロさんの正体はあさがおだった。目を逸らそうとも否応なしに突きつけられる真実に、自我がくらくらする。

 そして彼女はここにディーテに会いに来たのだ。それはつまり……。


 脳内に浮かび上がるのは、これまでのあさがおの台詞だった。


『ちょー大事な用事』

『早く起きちゃっただけ。……楽しみすぎて』


 そして今朝見せた、あの華やかな笑顔。好きな人に会いに行く。そう母が言っていたように、彼女からあふれ出ていたのは間違いなく恋心だった。昨晩からの謎の上機嫌。その理由はすべて、今日この場に向けたものだったのだ。

 彼女の荒々しい呼吸が、徐々に嗚咽へと変わっていく。その声に乗せて、あさがおの心境が僕のなかへとなだれ込んでくる。

 彼女が大切にしていた宝物のような気持ちが、粉々に砕けていく音が聞こえた。


 彼女が吐き出す問いに、なにも言えなかった。正解を伝えたところで、彼女を救うことはできない。もう全部壊してなにもなかったかのように一からやり直したい。

 だが、もう手遅れだった。約三年。二人がここにたどり着くまでに、あまりに多くの時間を費やし過ぎた。


 強く握りしめているせいで、彼女の前髪はぐしゃりとひしゃげていた。綺麗に整えられていた数時間前の光景を思い出し、込み上げる嫌な冷たさに内蔵が窮屈に縮む。その姿はとても痛ましく、見るに耐えられなかった。


「だ、大丈夫?」


 引っ込んでいた手を、彼女の肩に乗せる。触れたら壊れてしまいそうな細さに、心臓がどきりと跳ねた。

 彼女の手から力が抜けていき、その顔があらわになる。緩慢な動きで顎を持ち上げると、彼女は表情を変えないまま僕に視線を寄越した。涙を溜め込んだその双眸は、白い部分が真っ赤に塗りつぶされている。

 あさがおは感情がよく顔に出る。僕に向けられた彼女の感情は、憎悪だった。


「……最悪」


「えっ」


 肩に添えた僕の手を、彼女は乱暴に振り払った。拒絶を込めた力強さに、僕の右手が虚しく落ちていく。

 拳を握りしめ、彼女は立ち上がった。その拍子に、瞳を覆っていた分厚い水の塊がすっと彼女の頬をなでた。憂いを帯びた線が、また一つ増える。喉を震わせながら息を吸い込むと、彼女はギラリと僕を睨みつけた。



「最悪だって言ってんの!」

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