第 6話 スキナヒト
あさがおが家を出てから二時間が経った。外出直前の彼女は一段と上機嫌そうだった。
「いってきまーす」と声を弾ませて、彼女はスカートを翻しながら春の陽気に溶けていった。よっぽど楽しみなのだろう。小さな身体からは、キラキラしたオーラが絶え間なくあふれ続けていた。
僕はこのリア充特有の眩しさが苦手だった。勝手に自分と比較して悲しくなってしまうから。普段の僕ならば、このワントーン明るいあさがおを前にした途端目がくらみ、最悪の場合塵になっていたかもしれない。
だが今日に限っては僕もオフ会という大イベントを控えていた。その事実は自然と心に余裕をもたらし、陰りのない本心で「いってらっしゃい。気をつけてね」と見送ったのだった。
早く起きてしまったので急ぐ必要もなく、ダラダラと支度を進めていた。家のなかはすっかり生活音で満たされ、寝ぼけ眼だった我が家もいつもの活発さを取り戻していた。
顔を洗おうと洗面所に向かうと、母が洗濯をしているところだった。洗剤の華やかな香りが鼻孔をかすめる。母は僕に気づくと、物珍しそうに目を見開いた。
「休みなのに早いじゃん。 なに? 朝陽もおでかけ?」
「うん。だから今日は昼ごはんいらない」
「そう。朝陽も好きな人に会いに行くの?」
「……スキナヒト?」
心当たりのない言葉に、思わず眉間に皺が寄った。首を傾げている僕に、母はニヤリとからかうような笑みを浮かべる。
こうして目を細めて笑うところはあさがおに本当にそっくりだ。正確にはあさがおが母にそっくりなのだが。
「なんで?」
「あさがおは好きな人に会いに行くみたいだったから、朝陽もそうなのかなーって」
「へー。あさがおがそう言ってたの?」
「いや? 顔にそう書いてあった」
あさがおの謎の上機嫌の全貌がようやく見えてきた。大方の予想通りだったと腑に落ちる。
しかし、こうして真実に近づくと、途端に物寂しさが押し寄せてきた。なんだかあさがおに置いていかれたような気分だ。心にぽつりと黒いシミがにじむ。それを舐めればきっと、劣等感や喪失感が混じった苦々しい味がするだろう。
感情がはみ出た華やいだ笑顔に、気合いを込めたおしゃれな服装。玄関で見た光景が脳裏に蘇り、誰かにそこまで好意を抱ける彼女が羨ましく思えた。
くだらない感情を嚥下し、「ふーん」と気のない
「俺は普通に友達と遊びに行くだけだよ」
「なんだ、残念」
いつになったら彼女を紹介してくれるのやら。そう母は独りごちていたが、無視して洗面台を見据えた。
カチューシャで前髪を持ち上げ、蛇口を青いほうにひねる。手のなかの冷水で顔を包み込むと、ひと塊だった水が散らばりバシャンと音を立てた。最近はだんだん暖かくなってきたということもあり、冷たいほうが気持ちいい。一瞬身体が強ばるが、その冷たさは次第に爽快感を伴って全身に活力を与えてくれる。
乾いたタオルで水気を拭き取ると、そのまま起動したばかりの洗濯機に割り込ませた。じゃぶじゃぶと音を立てている波に揺られ、入れたばかりの青いタオルが元気よく踊っている。
その光景に楽しんでいるような印象を受けたが、次の瞬間には波に飲まれ、そして暗い底のほうへと沈んでいった。
◇
「うーん……」
服をあてがう姿見のなかの自分が、悩ましげな声を上げている。本当はそろそろ出発しなきゃいけない時間なのだ。それなのに鏡の前ではいまだに、華やかさとはかけ離れたファッションショーが行われていた。
勝ち残れなかった衣服が足元に散らばり、もはやフローリングが見えなくなってる。
「これでいいと思うんだけどなー」
顔をしかめながら、お気に入りのズボンを腰にあてる。ポケットがたくさんついた機能性抜群のズボン。軽くてゆったりとしたつくりで、歩くどころか走っても全然苦にならないものだ。中学生のころからの付き合いということもあり、このズボンには結構な愛着があった。
しかし、なかなか踏ん切りがつかなかった。それもこれも、以前あさがおに言われた「それダサい」のひとことが、僕の判断をにぶらせてくるからだ。イケメン俳優が似たようなものを履いていた気がするのに、一体なにが悪いというのか。
アイデンティティを否定されたような気分でズボンを見つめていると、ふいに記憶の奥でなにかがパッと光った。促されるままにタンスを探ると、予想どおりそれは出てきた。
「あった」
つるつるで凹凸のない、まるで昆布のような黒いズボン。僕のファッションセンスを見かねたあさがおが、以前彼女と母二人で買い物に行った際、母に頼んで買ってきてくれたものだ。
「これ履いとけばそれっぽくなるから」。そう彼女は言っていたが、使うタイミングが分からずタンスのなかにしまったままにしていた。あさがおが選んだのなら間違いないだろう。ようやく服が決まったと安堵し、一切疑うことなく足を入れる。
異変を感じたのはすぐだった。
「うっわ、なにこれ。ピッチピチじゃん」
履いた瞬間からわかるそれは明らかにサイズが合っていなかった。丈は足りているのだが、細いせいか太ももが窮屈で苦しい。買ってきてくれたのはありがたい。でも、サイズが合っていなければどうしようもないと、仕方なくそれを脱いだ。
やっぱり優先するべきは自分の好みがいちばんだよな。やっと決心がつき、床に広がっていたズボンに再び足を入れた。
心地よく馴染む慣れ親しんだ感覚に、身体はすっかり安心感に包まれていた。
◇
「じゃ、いってきまーす。夕ごはん前には帰ってくると思う」
放った声が誰もいない廊下に反響している。
ほどなくして「はーい。気をつけてねー」と家のどこかから母の声が聞こえてきた。
玄関を出た途端、本調子になった太陽が手加減なしに僕を照らしつけてきた。朝方の軽やかさはいったいどこに行ってしまったのか。手で庇を作り、目尻を少しずつ緩めていく。見上げた空には雲一つなく、ラムネみたいな水色が喜々として一面を占拠していた。
手のひらを太陽に透かしてみる。グー、パー、グー、パー。なんてことない単純な動きでも、身体が強張っているのがわかる。
もう一時間後には始まっているであろうオフ会。すぐ先の未来の話なのに、いまの自分と地続きで繋がっているなんて全然想像できなかった。
僕は本当にオフ会を開いているんだろうか。リスナーと話しているんだろうか。なんだか気持ちがふわふわしていて、地に足がついていない。飲み込んだはずの臆病がまた顔を出してきた。込み上げる不安に、喉が鳴る。
助けを求めるようにツイッターを開くと、それはすぐに見つかった。
『大丈夫ですよ! 私、ディーテくんに会えるだけで幸せなので、例えどんなハプニングがあろうと楽しめる自信しかないです! だから心配せずにディーテくんもめいっぱい楽しんでください。それがリスナーにとっていちばん重要なことです!』
昨晩ゴッドアフロさんから送られてきたリプ。それは、手のひらに「人」と書いて飲み込むよりよっぽど効果のあるおまじないだった。目を閉じ、言葉を染み込ませるように息を吐き出す。細く、長く。そこからめいっぱいに空気を吸い込み、空っぽの肺に澄んだ陽光を詰め込んだ。思考を蝕んでいた不安が、熱を帯びた期待へと変換されていく。
リスナーは楽しみにしてくれている。オフ会の成功は僕に懸かっている。
決して忘れないように改めて自身に言い聞かせ、僕は駅へと向かった。
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