第 7話 待ち合わせ場所に佇むあの人

 がたん、ごとん。

 一定のリズムで揺れる電車の音が耳をくすぐる。身体を支えているつり革が、ギュッと音を立てた。細やかな振動が、掴んだ手のひらに吸収されていく。


 別の世界に紛れ込んだみたいだ、と思った。車窓から見える景色はどれも見飽きるほど見てきたはずなのに、その一つひとつが今日は映画のワンシーンみたいでやけに情緒的に映った。

 住宅街を抜け、パッと視界がひらけた。光が差し込みがらりと明度を上げた車内は、どこか広くなったように感じる。電車が鉄橋の上に差し掛かったようだ。目下に流れる川は、視界に収まりきれないほど大きい。小さく波立つ水面に陽光が降りかかり、光があちこちで飛び跳ねている。キラキラと虹色に輝くその様は、まるでスパンコールを散りばめたみたいに綺麗だった。


 親しみある風景の新たな一面に見とれていると、右のポケットから振動を感じた。おもむろに取り出したスマホには、オフ会参加者の二人からDMが届いていた。

 確認すると、一人からは『ごめんなさい! 俺少し遅れそうです』というメッセージ。もう一人からは『渋谷には着いたんですけどハチ公が見当たりません! なんかモアイみたいなのしかいないです! なんでこんなに迷路みたいに入り組んでるんですか……。助けてください!』というメッセージが届いていた。

 後者は確実に迷子なのだろう。文面から伝わってくる必死さに、とっさに口元を手で覆った。そうでもしないと噴き出しそうになるのを我慢できそうになかった。


 なんだか今日は波乱が起きそうだと思った。でもそれ以上に絶対楽しくなるとも思った。多少のハプニングもきっと醍醐味の一つだ。膨らんでいく胸の高まりが麻酔のように広がり、脳を痺れさせる。吐き出した息は微かな熱を帯び、口元に添えた手にしっとりとまとわりついた。


 見つけやすいように僕の身なりの情報を付け加えて二人への返信を済ませると、まだ一人連絡が来ていないことに気づいた。僕のほうから連絡しよう。ツイッターでの会話からその人のページに飛ぶ。アフロ頭が特徴的なキャラクターのイラストは、きっと名前に合わせたのだろう。これまで何度も目にしたその名前は、一度聞いたら忘れられないほどのインパクトがあった。


――ゴッドアフロ


 おそらく今回のオフ会をいちばん楽しみにしてくれているリスナー。僕としても配信初期から応援してくれている人に会えるのは楽しみだった。


 ゴッドアフロさんとのDMを開く。過去のやり取りが、当時の鮮明さを保ったまま上へと連なっていた。力感のないように心がけた文字を入力欄に打ち込み、送信ボタンに親指を乗せる。



『おはよう。早く起きたって言ってたけど眠くなってない?』



 メッセージが送られたのを確認し、僕はスマホをポケットに入れた。視線を持ち上げ、頭上の液晶ディスプレイを確認する。ずっと同じ姿勢だったせいか首からポキリと小気味いい音が鳴った。いつの間にか最後の駅を出発していたようだ。大きく映し出された『次は渋谷です』の文字。始まりに近づくカウントダウンに、緊張が高まる。


 オフ会は、もう目の前だ。


  ◇


 日差しがカメラのフラッシュのように目に突き刺さり、はっと我に返る。知らず知らずのうちに僕は改札を抜けて、駅の外に出ていたようだ。

 思い返せば、渋谷に到着する直前辺りから思考が停止していたような気がする。出口へと向かう人の流れに身を任せていたら、いつの間にかポイッと駅から吐き出されていた。

 空を覆うものはなくなり、周囲は背の高い建物に囲まれている。人工物でできた銀色の都会的な穴の上は、澄んだ青色が大きな円を描いていた。

 地面にまっすぐ引かれた光と影の境界線。影色に染まるその境目の向こうで、誰かが僕に呼びかける。おまえの場所は向こうだろ。戻ってくるな、早くいけ。そう脳裏に直接発破をかけてくるのは、おそらく臆病で卑屈だった過去の自分だ。わかってるよ。もう大丈夫。そう別れを告げると、僕は光が敷き詰められた地面に足を踏み出した。


 駅前の広場は休日ということもあり、華やかな装いにあふれていた。街全体がカラフルに色づいている。それにしても相変わらず人が多い。普段都心にはあまり来ないため、この光景に対しての耐性がほとんどない。せわしなく交差するおびただしいほどの足に、目が回りそうになる。

 この人混みのなかで僕とリスナーは無事に会うことができるのだろうか。心配になり、もう一度ゴッドアフロさんからのDMを確認する。



『白のブラウスに青いフレアスカートで、ボブなのが私です!』



 カタカナばかりの文に頭を抱える。ただでさえファッションには疎いのに、女性物になるとなおさらわからなくなる。

 しかし、そんな僕でもさすがにスカートはわかった。下が青だということは、消去法で上は白い服なのだろう。


「……ボブ?」


 謎に付け加えられた二文字に首を傾げる。ゴッドアフロさんってもしかして外国の方なのだろうか。身なりを聞いたのに名前を言われてもわかんないよ! と頭のなかでツッコミを入れる。

 コメントやツイッターでの文や凸待ちのときの声を思い出しても、日本人だとしか思わなかった。しかし、匿名にはいろんな真実が隠されている。そのため、実は日本語が流暢な外国人だったとしても決して不思議ではない。

 まあ、会えばすべてわかることだろう。もうゴッドアフロさんは待っているのだ。早く行かないと。


 定番の待ち合わせ場所であるハチ公前は、本日も大盛況だった。

 集合場所はひと気がないところのほうが良かったかも。そんなことを今更考えながら近づいていくと、その群衆のなかでひと際目立つ女性を視界が捉えた。空を切り取ったような鮮やかな青いスカートを風になびかせ、すらりと佇んでいる。その姿は、まさに美人という言葉が似合っていた。袖口からのぞく手は日の光をきめ細やかに跳ね返し、肌の白さがより強調されている。胸元まである艶やかな黒髪は、どこか知的な印象を持った。春の暖かな陽気が彼女を包み込み、世界とのあいだに透明な膜を張っている。

 異彩を放つ彼女の雰囲気は周囲のそれとは明らかに異なり、そこだけ時間の流れが違って見えた。おそらく春を擬人化したらこんな風貌になるんじゃないかと、ふとそんなことを考える。ただ、ボブって言うほどの外国人っぽさはまったくなかった。


 あの人だ。


 あの人がゴッドアフロさんだ。


 そう確信すると、途端に身なりが気になりだした。つま先から胸元まで視線を這わせる。特に異常はなくて安心。「んー、あー」と発声を整えると、彼女に向かって歩みを進めた。


 早鐘を打つ鼓動が、鼓膜にベッタリと張り付いている。唯一聞こえてくる自分の足音は、まるで機械のように意思を感じなかった。

 普段の歩き方や表情、呼吸の仕方が急にわからなくなる。無意識にできていたことに意識を向けた途端、それらはあっさりと僕を裏切り、手からするすると離れていった。


 両足を交互に出すことだけに集中していると、ようやく彼女のもとにたどり着いた。ハチ公が揺るぎない視線で僕をじっと見ている。手を伸ばせば届きそうなところに、彼女の背がすっと伸びていた。


 僕のひとことですべてが始まる。そう思うと、喉がぐぐっと上下した。ここまで来たからにはもう後戻りするなんて選択肢はない。胸に手を当てて深呼吸すると、覚悟を決めて肩を叩いた。



「あのー、すみません。ゴッドアフロさんですよね?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る