第 3話 プリンの持ち主

「そのプリンって、私が食べようと思って買ってきたやつじゃない?」


「あっ……」


 抑揚のない口調に、中途半端に持ち上がっていたスプーンがその場で固まった。プリンを迎え入れようと間抜けに開いていた口を、おずおずと閉じる。

 しまった……と、心のなかで頭を抱えた。脳のすみっこがズキリとうずく。

 呼び起こされた記憶は、引き出しの奥にしまっていたつい先日の出来事だった。


 あのときもこうして、僕がプリンを食べているところにあさがおがやってきたのだった。


「ねえ! それ私のプリンじゃん!」


 僕が食べていたプリンが自分のものだとわかるやいなや、あさがおはものすごい剣幕で僕を叱りつけた。

 なんで勝手に食べるの! 普通確認するでしょ! ほんと信じられないんだけど! 

 なににも包まれていない未加工の言葉は鋭く、真正面から浴びた僕は身を縮めて固まっていた。

 彼女の説教は徐々にエスカレートしていき、しまいには、だからモテないんだ、地味でパッとしないんだ、と僕自身の話にまで広がっていった。

 ごめんなさい。かろうじてつぶやいた声がひどくかすれていたことを思い出す。

 結局、彼女が落ち着くまで三十分は要した。いつか埋め合わせするという僕からの提案を彼女が呑んでくれたことで話が終わった。

 あのときの僕は蛇に睨まれたカエルのようだった。思い出すだけで、いまでも身体がすくみ上がる。


 あの日僕は、この失態をもう二度と犯してはいけないと心に誓った。

 しかし、いまこうして同じ場面を迎えている。またやってしまった。本当にまずい。いまさら反省したところで、後悔はもう胃袋のなかだった。


 てっきり母が買ってきたと思っていたこのプリン。どうやらあさがおのものだったらしい。兄が甘いものを欲するときは妹もそうであると、皮肉にも改めて血の繋がりを感じる。

 沈黙が漂う。視界端のテレビは電源が消えていて、画面は黒く塗りつぶされていた。音を立てる気配を微塵も感じさせないその佇まいが、静けさをより一層強調してくる。張り詰めた空気が鼓膜に突き刺さり、うるさいくらいに痛かった。


 食べかけのプリンを見やると、まだ半分残っていた。これでどうにか乗り切ってくれないだろうか。恐る恐る瓶を前に押し出し、ぎこちなく口角を持ち上げる。もうイチかバチかだった。


「ごめん。お母さんが買ってきたのだとばかり。あと半分残ってるけど、……食べる?」


 目線を上げ、精一杯の苦笑いであさがおを伺う。彼女の長く柔らかそうな睫毛が、大きく上下した。やっぱり駄目だったのだろうか。素直に怒られようと腹をくくる。

 僕を見下ろしていた彼女はおもむろに僕の向かいに座ると、両肘をついてこちらに身を乗り出してきた。


 精巧な造りをした顔が距離を詰める。どんな罵倒が来るのかと身構えると、その表情がパッと華やいだ。


「それ美味しかったでしょ!」


「えっ?」


 思わぬ第一声に、戸惑いの声がこぼれた。彼女の弾んだ声音が、部屋の空気を一瞬で明るいものに塗り替える。怒られると思っていた。けれどあさがおは満面の笑みを浮かべていた。想定の真逆の展開に、思考が遠のいていく。

 なにか返事をしなきゃと言葉を手繰り寄せるも、口からはなにも出てきそうもなかった。唖然としている僕を見て、あさがおが首を傾げる。への字にゆがんだ眉毛からは、しょんぼりとした気持ちがあふれていた。


「あれ? もしかして微妙だった?」


「い、いや! めっちゃ美味しかった。うん。すごく」


 思考を無理やり連れ戻したせいでたどたどしくなる。僕の感想を聞いた途端、あさがおは心の底から嬉しそうに目を輝かせた。


「でっしょー! そうだと思ったんだよ。駅前に洋菓子屋さんあるでしょ? そこの新作のプリンなんだって。学校帰りに友達と寄ったんだけど、ひと目見た瞬間、『あ、これ絶対美味しいやつだ……』って確信したんだよね。いいよ、全部食べて。お兄ちゃんにあげる」


「え、まじ? いいの?」


「うん。いいよ!」


 以前と比べてあまりにも反応が違いすぎるため、なにか企んでいるかもしれないと思った。しかし、そこに浮かんだ笑顔にはなんの裏もないことが容易にわかった。

 あさがおは基本的に表情をごまかすことができない。どんな感情も、はっきりと顔に出てきてしまうのだ。


「そっかー、美味しかったのかー。やっぱり私の目に狂いはなかったってことだ」


 あさがおは独りごちるようにつぶやくと、自身が褒められたかのようなドヤ顔を見せた。そのご満悦な様子にほっと安堵する。ずっと縮まっていたお腹から力みが抜け、だらりと背もたれに倒れ込んだ。


 彼女のなかでいったいどんな心変わりがあったのだろう。考えてみてもわからない。食べたのを怒るどころか、全部食べていいとまで彼女は言っていた。それは紛れもなく本心からの言葉なのだろうが、それはそれでなんか悪い気がしてくる。運良く難を逃れただけで、間違ったことには変わりないのだ。

 申し訳程度にひとくち分のプリンをすくい上げる。「ほれ」とあさがおにスプーンを向けると、その瞳が大きく見開かれた。僕を映すまんまるな黒目のなかに、光の粒が散りばめられる。


「えっ! いいの?」


「いいもなにも、あさがおが買ってきたやつでしょ? 全部食べるのはさすがに申し訳ないし、せっかくだから食べてみなよ。ほれ」


 手を前に差し出すと、あさがおはぱくりとスプーンに食いついた。プリンが彼女の口のなかに消え、すぐさまそこから声にならない悲鳴が現れた。天を仰ぎ、白い喉元を無防備にさらしている。目と口をぎゅっと閉じた彼女は、美味しさに悶えているのかイスの上で身体を左右にくねらせていた。


「うっま。なにこれ!」


「今日はえらいご機嫌だね。なんかあったの?」


「うふふー、そうなの。まあ、正確に言うとなんかあったというより、これからあるんだけど」


「へー、なにがあるの?」


「うーん……。それは秘密!」


 こんなにもゆるゆるなあさがおは珍しかった。普段から笑顔の多い人間だが、今日はそれ以上だ。

 彼女をそうさせる秘密とはいったいなんなのだろうか。プリンをつまみにしながらいくつか質問を投げてみる。しかし、返ってきたのは曖昧な言葉だけだった。あさがおは終始ニヤニヤしていて、会話が成立する気配がまったくなかった。

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