第2話 ママの最期

 ガムテープが蜘蛛の巣のように貼ってある窓の僅かなガラスの隙間から、さらに車窓を隔てた車の助手席で女の子がこちらを見ている。

 小学生くらいの女の子だった、僕よりいくつかお姉さんだ。助手席から窓の外を見ている。前髪を花のついたヘアピンで留めていて瞳は差し込む日差しにキラキラと輝いている。信号が切り替わり流れるように車は走り去っていった。もう彼女がどんな表情をしていたのかまるで覚えていない。多分、楽しげだったのではないか。

 振り返ればママの生白い足が姿見に反射していて、その奥に僕の体がある。いつもの光景はぼくを一気に現実へと引き戻して薄暗い部屋に閉じ込める。

 ママと話すときは、ママが最初に喋る。それにぼくが「うん」とか「はい」とか短く受け答えする。「あ」とかはいけない、一番言ってはいけない言葉だ。

 仏間は線香の匂いがしていて、ぼくはこの家で唯一この青雲の匂いだけが好きだと思った。そんなことを言ったらママのことは好きでないのかと言われてしまう。それは「あ」みたいな返答以前の問題で口に出したら命に関わるようなことだった。


 もう一度、ママの方に目を向けるといつの間にか彼女は起き上がっていた。とても珍しい、食べ物でも作ってくれるのだろうかと思ったがその表情が異常に強張っていることを不思議に思う。ぼくはその視線を追う。

 仏壇の前、つまりぼくの目の前に真っ黒な影が立っていた。人影と言うには大きすぎて、よく見てみれば泥の塊のような体は長い黒い毛で覆われていることがわかった。お腹が空きすぎて見た幻ならば良かったけれどママが怯えているのだからこれは現実なのだろう。

「仏さまですか…?それとも、地獄の鬼…?」

 ママが自室からそろそろと出てきて問う。

 毛むくじゃらの生き物はぼくの方に顔を向けるとじっと覗き込みやがてママに向き直った。

「あなたの子ですか。自分の子供をこんなになるまで放っておくとは、あなたの方こそ鬼なのではないですか」

「質問を質問で返さないでよッッ!!」

 ああ、駄目だ。

 ママが叫んだ。混乱してる。口答えは最もしてはいけないことで、こうなったらもう駄目なんだ。いつものように疲れ切って自室で横になるまで暴れまわると思う。

「化物ッ……」

 リビングの椅子を思い切り振り上げて怪物に叩きつけるが、すり抜けてカウンターの花瓶がバリンと派手に割れた。赤い花瓶の欠片が散乱し水が飛び散る。そんなことはお構いなしにママは必死の形相で今度は床のガラスの破片を水溜りから拾い上げ目の前の大きな黒い塊に投げつける。指先が切れて水滴に血が混じっていた。それも効かないとわかると今度は冷蔵庫の方に駆け寄っていった。

「地獄の鬼なの!?連れてくなら、こいつだけにしてよ!!」

 冷蔵庫から腐りかけの野菜や豆腐や卵やらを投げつける、今度の攻撃は当たるようでママは優勢になったと思い込んで歓喜の叫びを上げたがそれは化け物の真後ろにに僕がいるからだったとあとでわかる。

 食品が次々と投げつけられる中、

「君は、この人に生きていてほしいかい?」

 毛むくじゃらがぼくに問うた。ぼくは、

「いえ…」

 短い答えを出す。

 それだけだった。

 ぼくは、ぼくの言葉がママを殺した。

「…そうかい」

 とても低く、お腹の底に響く声だった。少し、寂しさの混じったような。

「お嬢さん、怖がらないで」

 ママは相変わらず小さな抵抗を続けていて、ケダモノは顔にそれらが当たっても気にせずに進んでいく。生卵やほとんど芯だけが残った腐ったキャベツが黒い長い体毛に絡まっていて、歩くたびにボトボト零れ落ちる。

「私じゃない!私は違う!そいつだけ連れてけよッ!!」

「ええ、連れていきますよ」

「来るな!!戻れよ!!ヒッ」

 黒い大きな手がママの血の滲んだほうの手を掴むと、空いている手のひらで小さな玉を掴む。なにもないところから出てきたように見えた。

「安らかに」

 球体に血液が垂れると同時にママの体は朧げにゆらゆらと輪郭を失いはじめ、やがて煙のように綺麗さっぱりと消えてしまった。線香のような匂いすら残さずに。

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化族 梦吊伽 @murasaki_umagoyashi

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