第一話

 僕の名前は田中始。


 入社二年目の、どこにでもいるサラリーマン。


 かつては漫画家志望だった。学生の頃は毎日描いてて、作品を賞に出そうと思った

こともあった。だけど、受賞者の作品を読んで、そのレベルの高さに圧倒された。


 僕には、描けない。


 そう分かってからは、一切漫画を描かなくなった。その後、僕は無難に就職活動をし、一般企業で働いている。


 最近では仕事の要領もつかんできて、成績もまずまずだった。ただ、自分の中のどこかに、つかみようのないわだかまりがあるのだった。漫画家は諦めたはずなのに、まだ諦めきれない自分がいる。


 あの時もっと頑張っていたら——


 そんな気持ちになることは一度や二度ではなかった。だが、もう僕は今の生き方を選んだのだ。ほろ苦い気持ちを感じるたびに、現実を自分に見せながら、僕は変化のない毎日を過ごしていた。


 

 それは、春の暖かい日だった。


 ちょうど桜が満開で、ぽかぽかとした光に包まれていた。


 せっかくのいい天気だと思い、ランチは外で食べることにした。

 近くのコンビニで買ってきたサンドイッチを食べ終わり、ベンチでゆったりとしていると、心地よい眠気に包まれた。

 鳥のさえずりが聞こえ、遊具では子供たちが遊んでいる。こういう時間もいいなと、つかの間の安息を感じていた。


 

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。ハッとして目が覚めると、あたりには誰もいなかった。


 公園は静まり返り、子供たちもいつの間にか姿を消している。

 と、背中の方から足音が聞こえてくる。振り返るより先に、誰かが僕の隣に座った。


 その顔を見て、思わず声が出そうになった。そこにはずっと憧れていた漫画家、H氏が座っていたのだから。


 あっけにとられている僕をよそに、彼は手元から紙とペンを取り出した。

 さらさらと、流れるような仕草で漫画が生み出されていく。

 気づいた時には、原稿が仕上がっていた。

 驚く僕に、彼はその原稿を渡し、にっこりと微笑んだ。

 渡された原稿を読んでみて、あれっと思った。


 主人公は、毎日漫画を読みふけり、同じくらい毎日漫画を描き、キラキラとした目をしている学生。


 これは、僕だ。学生時代の僕だ。


 そう気づいてから、先が気になりどんどんと読み進めてしまった。

 そして、いよいよラストページ。


 ページをめくると、そこは白紙だった。えっと驚いて顔を上げると、H氏はまた僕に微笑み、立ち上がった。

 彼はそのまま悠々と去っていく。声を掛けて引き止めようとしても全く応じなかった。僕はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

 H氏が公園を去った後、僕はもう1度漫画をパラパラとめくってみた。すると、あることに気づいた。最後のページは白紙だが、その前のページが重要な意味を持っていることに。


 そこには、夢を諦めかけた主人公にチャンスが巡ってくる瞬間が描かれていた。


 まだチャンスはある。


 僕は自分の中に、長年忘れていた感情が蘇ってくるのを感じた。一日中、漫画のことだけを考えていた、あの楽しさ。


 僕の背中を、暖かい誰かの手が押してくれている気がした。

 



 はっとした。


 鳥の声が聞こえる。遊具で子供たちが遊んでいる。


 思い出したように時計を見ると、五分も経っていなかった。いつのまにかうたたねしてしまったようだ。あれは夢だったのか……。ちょっぴりがっかりしたが、そんなことは気にならなかった。


 もう一度、描いてみよう。ブランクは開きすぎたが、少しずつでもいい。今出せる力で、描きたい。

 

 ペットボトルのお茶を飲み干し、立ち上がった。午後の仕事も頑張ろう。

 

 会社に戻ると、上司にちょっと相談したいんだがと呼ばれた。

 何か仕事のミスをしたのだろうか。


「君、漫画って描いたことある?」

「えっ?」

「いや、社内の広報紙なんだけどね。四コマ漫画のコーナーを作ろうって話が出てるんだ。それで、せっかくだし社内の人材でそういう人いないかなっていうことで、上から提案されてね」


「……漫画は、学生時代ずっと描いてました」

「本当か! それならどうだね? やってみないか?」



 僕は拳をぎゅっと握りしめ、元気よく返事をした。

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ちょっとうたたね 鳥海 摩耶 @tyoukaimaya

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