第25話:ふたりの時間

 常夏のエリトリアで、楽しくも忙しい日々は過ぎていく。

 幽霊鮫レースの立ち上げから一ヶ月ほどして、操者テイマーとしての仕事も板についてきたヴァネッサ。

 若き天才操者として人気も出てきた彼女は、今日も五件のリヴァイアサンウォッチングと幽霊鮫レースの実況をこなし。

 

「や、休みが欲しい……ですわ……」


「毎日働き詰めですもんねぇ」


「とは言えこれも借金返済のため……仕方ないですわ……」


 海の向こうに太陽が沈み始めたころ、足を引きずるように帰宅して。

 すっかりヘクトルのことも忘れ、ぐったりと床に倒れ伏していた。

 エルクはそんな彼女にそっとタオルを掛けて、ふと尋ねる。


「あれ、アウローラさんは?」


「あぁ、景品の仕入れですわ。ライラさんと夕食を食べてから帰るって言ってましたの」


「えー。もう仕込みしてたのに……もっと早く言ってくださいよね」


 頬を膨らませて軽く怒って。

 切っていた野菜を冷水につけて冷蔵庫にしまう彼の背中。

 大きくなった気がする、とふと感じたヴァネッサが身体を起こした。


「申し訳なくてよ……今日は本当に忙しかったので……」


「気をつけてくださいね。……ほら、ベッドにします? ご飯にします?」


 そんな彼女を抱き上げて、彼は冗談めかして笑う。


「うーん、じゃあベッドで。夕食前に一眠りしたいですの」


「はいはい、お嬢様。用意していますよ」


 踊るようなステップで少し歩いて、優しくヴァネッサを寝かせる。

 すっと頭に添えられた手が力強くて、彼女はうっとりと目を細めた。


「ねえ、エルク。前よりたくましくなりましたわね」


「毎日鍋振ってるからですかね? 僕のことなんかより、ヴァネッサだって前より綺麗ですよ」


「……貴族の頃とは違って毎日お風呂に入っていないし、潮風で髪も傷んでますわ。手も脚もゴツゴツしてきましたし、化粧だって……」


 前よりも綺麗、と言われて彼女の顔が曇った。

 公爵として見栄を張っていた頃よりは、随分小汚くなったなと素直に思う。

 顔だけはまだ自信はあるが、もう以前ほど美女だとは言われないだろうなと自嘲して。

 だんだん薄汚れてきた自分から、エルクまで離れていくんじゃないかと。ほんの少しだけ不安を感じた。


「何言ってるんですか。今のヴァネッサ、借金に追われてた頃よりずっと楽しそうじゃないですか。僕は好きですし、貴女は美しいと思います」


「まぁ! もうエルクったらお世辞ばっかりですのねぇ……」


「本気です。僕を買ってくれた時の言葉、忘れてませんよ」


 本心からの言葉をお世辞だと否定する彼女の、金色の瞳を見つめて。

 エルクは、自分の人生を変えた思い出を語り出す。


◆◆


 幼いエルクが主人に首輪を引かれて連れてこられた先の、見たこともないほど大きな豪邸。

 その門前にぽいと捨てられ、ついさっきまで主人と呼ばされていた男は、門番から代わりに金貨を何枚か受け取って。


「へへっ、ありがとうなクソガキ」


 あぁ、また売られたんだと少年は理解した。

 その後すぐに何人もの人に囲まれて、気付いた頃にはふかふかのソファに座らされていて。

 遠くの世界だと思って見ていた、立派な着物まで着せられている。


「見つけて下さったのですね、お父様!!」


「あぁ……でもなヴァネッサ。何の技能もない、薄汚い奴隷じゃないか。こういうのは適当に謝礼を渡して終わりでいいんだよ?」


 そこに、前に聞いたことのある声が聞こえた。

 確か花屋の前に居た女の子だったかなと、栄養の足りない頭で思い出していると。


「ねえ、エルクでしょう? 貴方の買ってくれたお花のお陰で、お母様は少し元気になりましたの!」


「……えぇと多分、ヴァネッサって言ったよな。これ、どういうこと?」


 花が咲いたような笑顔で話しかけてくる少女に面食らって。

 やっと自分に何が起こったのか聞こうとすると、彼女の父がぶつぶつと文句を言っていた。


「……貴族に敬語も使えんのか、この奴隷は……解放してやったんだから、もう終わりでいいだろうヴァネッサ、小銭でも与えて捨ててきなさい」


「エルクは自分を犠牲にしてまで、わたくしとお母様に礼を尽くしたのですわ。こんな立派な方、わたくしの召使いにふさわしいに決まってますの。追い出したら一生口聞きませんわ!!」


 それに対して喧嘩を売る少女が、ぷんぷんと怒っている。

 立派と言われた少年は目を丸くして、じっと彼女の横顔を目に焼き付けて。


「困ったなぁ。まぁ、一人くらい雇っても別にいいんだが、教育するのにも金かかるんだぞ?」


「でしたら、わたくしのお小遣いで護衛に付けますの! 礼儀作法とか剣とか魔法とか、全部わたくしのお小遣いで先生を雇いますわ!!」


 この人は、自分を一人の人間として認めてくれたと。

 彼女の声全てを聞き逃さないように。耳に焼き付けていた。


「誰がその小遣いを出してると思って……いや、わかったよヴァネッサ。お前の恩人だと言うなら、お前が借りを返しなさい。それで、えーと、誰だっけ」


「エルクですわ!!」


「あぁそう、エルク。ヴァネッサに何かあったら君の首を刎ねるから。その覚悟でやってくれ」


 そして、自分のことをどうでもいいように振る舞う彼女の父にはそっけなく答える。


「分かった」


「分かりました、だろうが。あー、もういい腹立ってきた。ヴァネッサ、それは好きにして構わないが、ちゃんと世話をしなさい」


 自分の態度に苦笑いを浮かべた彼女の父は、面倒くさそうに背を向けて去っていく。

 対してヴァネッサは、自分の手を強引に引いて。


「分かりましたわ、お父様。エルク、行きましょ」


「どこへ?」


「貴方の新しい人生、ってやつですわね。絶対楽しいですわ」


 輝くような笑顔で導いてくれた。


◆◆


 若干、ヴァネッサの記憶とは食い違っているというか。

 父はもうちょっとまともな態度だった気がするし、自分はもうちょっと口が悪かった気がする。

 それでも彼の美化された思い出に口を挟む気にもなれず、いつの間にか一緒に寝ている彼の頭を胸に抱く。


「よく覚えてますわねぇ」


「公爵様には随分お世話になりましたので……」


 まぁ父のことを恨んでいる気持ちはわかるのだが。と彼女は目を瞑る。

 毒見の練習だと言って本物の毒を混ぜたり、わざわざ取り寄せた凶暴な魔獣モンスター相手に訓練させたりと、あの手この手で自分からエルクを遠ざけようとしてきたし。

 一応そのお陰で今の強い彼がいるわけだけれども、彼女もまたそれなりに父を恨んでいたので、フォローする気にはなれなかった。


「まぁ公爵様のことなんかより。ヴァネッサがあんな汚らしい僕を見て、”立派な方”って言ってくれたの、本当に嬉しかったんですよね。あれからずっと僕は貴女のことを尊敬しているし大好きですし、誰よりも愛してます」


 彼の手が、ヴァネッサを強く抱きしめる。

 急な愛の告白に、彼女は少したじろいだ。


「て、照れますわ。それにエルクだって、恥ずかしくないんですの?」


「……そりゃあ恥ずかしいですけど。でも今のヴァネッサは、貴女が思っているよりずっと美しいんで。それだけ言いたかったんです」


「もう……エルクったらわたくしを口説くのがどんどん上手くなりますわね……」


 ますますぎゅっと抱きつかれて、彼女の力が抜けて。

 やっぱりエルクのことが好きだな、と再確認したところで、彼は少しだけ不安そうな声で聞く。

 この一ヶ月聞けていなかった事を。多分今ものんびりとバカンスを楽しんでいるだろう、彼女の元婚約者のことを。


「僕からはそういう事で。それで教えてほしいんですけど」


「なんですの?」


「ヘクトル殿下って、ヴァネッサにとってどういう人でした?」


「そ、それは……」


 言葉に詰まる。

 アウローラに心を読まれた時に、未練は捨てようと思ったはずだ。

 それでもいきなり言われて困っていると、彼は張り詰めた言葉を紡ぐ。


「別にいいんですよ。幼馴染の婚約者ですし、好きだったとか普通だと思いますし。借金返済だってあの人の為に頑張ってたじゃないですか。なんなら未練持ってても僕は別にいいんです」


「へ?」


「絶対に渡さないってだけなんで」


 力強く言い切って、ただ不安そうに抱きついてくる彼の髪を撫でて。


「……正直言いますと、ずっと好きでしたから。未練がないと言ってしまうのは嘘になりますわ」


 今度はヴァネッサがぎゅっと抱きしめて言葉を返した。


「でも今のわたくしは、ヴァネッサ・ソルスキア公爵ではなく、ただのヴァネッサ。エルクの恋人でしてよ?」


 恋人。そう聞いて、エルクの身体から力が抜けて。

 ヴァネッサは優しく抱き返すと、大きく欠伸をした。


「それだけで十分です。ヴァネッサ、どうかこれからも……」


 それに釣られて、段々とふたりの声が小さくなって。


「えぇ。ずっと、一緒に居ましょうね……」


 すぅすぅと重なる寝息が、月夜の海に溶けていった。

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