意志なき意思
どこまでも冷たい凍てつきの中、黒きものは刃を突き立て、体を膨張させ、あらゆる方法で脱出を試みる。
「無駄だァ……んで、終わりだ。はっきり言うが、足りなかったなァ」
人狼はどこか残念そうに語りかけながら、氷の牢に閉ざされた黒きものに近付いていく。
「お前に在るのは生存本能だけだ。賢者は狂気だ憎悪だって言ってたが、それもねェ。寧ろ、そっちの方がマシだったかもなァ? 生きる為と言えば聞こえは良いが、保身に走るだけの生き方は弱ェ。んで、弱ェ奴は死ぬだけだ。今、こうなってるみてェにな?」
黒きものはガリガリと氷に刃を突き立てる。削れるのは自分の体を変化させた刃の方だった。
「だから、次は全力でオレを喰らいに来てくれよ? じゃねえと面白くねェ。オレはこの奈落を楽しみに来てんだよ。頼むぜェ?」
氷の牢に人狼が手を当てる。すると、氷の牢の中にぶわりと炎が溢れた。不思議なことに氷を溶かすことは無いその炎はしかし、黒きものの体を少しずつ確実に焼いていった。
「今、目の前の敵を喰らう為に全てを捨てろ。本当の意味で死力を尽くせ。じゃねェと、オレには勝てねェよ」
人狼の言葉を聞きながら、黒きものはドロドロと溶けていった。
♦
朧であやふやな思考の中、黒きものは気付いた。自分の体の何割かが消滅したことに。感じたのは温度。寒さと熱さ。その両方に包まれて自分の一部は死んだらしい。
「ヴぁ、ぅ」
このままでは負ける。黒きものは単純にそう判断した。そこに焦りや恐怖などは無かったが、それでも黒きものはそう判断した。
「ヴぁ、ぃ、ぅ」
集合だ。集合せよ。全て。
「ヴぁ、ヴぁ、ヴぁ……」
保険は最早、あの賢者の前には通用しない。幾ら広がろうとも、あの魔物使いの前には通用しない。中途半端な力は、あの人狼の前には通用しない。
「ヴぁ、ぉ、ぅ」
だから、集まれ。今、目の前の敵を喰らう為だけに、全てを捨てろ。強き人狼はそう言った。そう在った。そして、人狼は確かに自分の一部に打ち勝った。
「ヴぁ、ぇ」
ならばきっと、それは真実だ。そして、アレはきっと、自分の相対したものの中で最も優れた『強さ』を持っていた。
「……ヴ、ぅ」
黒きものが、集まっていく。集まっていく。集まっていく。
「ヴぁ」
今戦っていた戦闘用の自分だけでは、到底足りない。だから、集まっていく。
「ヴぁ、ぃ、ぃぃ……ッ!」
人狼は言った。自分の長所は生存力だと。そんな彼がひたすら闘争を選び、敵と戦い打ち勝つことを選んできたのなら、自分もそれに従うべきだ。この牢の隅に隠れている生存用の自分も、生存の為に戦うべきだ。勝つべきだ。喰らうべきだ。
「ヴぁ、ぁ!」
「ヴぁ、ぃぃ!」
黒きものは、まだ望む。彼らは飽くまでも冷静に戦力を観察していた。そして、気付いていた。生存用の戦力を合わせても、この敵達には敵わないと。
「ヴぁ、ぁ!」
「ヴぁ、ぉ!」
黒きものの性質は、普通では無かった。幾ら幻想に満ちたこの世界の人間でも、失われた腕の傷跡が塞がってしまえばもう治らない。
しかし、黒きものはそのルールから逸脱していた。彼らは、決して上限から減ることは無い。幾ら消し飛ばされようと、灰に変えられようと、時間が経てば同じ量に戻るのだ。
「ヴぁ!」
「ヴぁ!」
ただ、逆に言えば一度身を分ければ、その分体が死ぬまで本体は最大にはなれない。どこかに分体が居る限り、融合するかそれが死ぬまでその分の力が本体に戻ることは無い。
「ヴぁ、ヴぁ、ヴぁ、ヴぁ、ぃ」
全てを蝕み喰らう黒色は、当然現世で多大なる影響を及ぼしていた。黒きものに蝕まれ、食われかけ、それでも耐えた種は、黒きものと融合し最早別種と化していた。それは今も黒きものでありながら黒きものでは無い存在として現世を蔓延っていた。そして奈落で佇む黒きものは、それを生存の為に良しとしていた。だが、それも今日までだ。真の強さを学習した彼らは、本気で全ての保身を捨てることにした。
「ヴぁ、ぅ」
「ヴぁ、ぇ」
「ヴぉ、ぁァ」
現世から、黒に蝕まれたもの達が消えていく。混ざり合ったもの達から黒が消えていく。死滅していく。
「ヴぉ」
代わりに、この奈落に蘇っていく。合流していく。散りばめられた保険の欠片が、保身の分体が、集合していく。
「ヴぁぁ、ぉぅ」
「ヴぁ、ぁ」
「ヴぁぁ、ぃ」
超高速で自分の一部が再生していく。代償として暫くの間、再生力がかなり弱まってしまうというデメリットすら、黒きものは完全に無視していた。彼はただ、今のみを見ていた。
最大値へと近付いていく。霧も沼も人型も、全てが一つになり、失われた部分も蘇り、完全に黒きものが一つになっていく。
「……ぁ」
そして今、完成した。真っ黒な体。滑らかなその体には最初に潰された時のような泡立ちなどなく、艶があり、寧ろ美しかった。
「ヴぁ」
美しく、そしてシンプルな黒い人型。それが、蹲っていた体を起こした。
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